一言で言えば、一生の不覚だ。

「聞いてよ岩ちゃん」
「んだよ」
「また及川さんフリーになっちゃってさぁ」
「またかよ」

 だから、さっきからそう言っているじゃん、と言って及川は椅子に深々と腰掛けた。昼休み。ちょっとした部活のミーティングの後、こうしてこのまま昼食を取るのはいつもの事だった。

「なんで長続きしないんだろう……」
「そりゃ、お前に問題があんだろ」
「モテない岩ちゃんに言われたくないなぁ」

 反射的にそう口にし、及川は直ぐに内心で「しまった」と零す。あまり女の子に縁の無い幼馴染みにこの事実を突きつけると、拳が飛んで来るのが日常である。俺も学習能力がないな、と思わず身構えたが、頭に衝撃はやってこない。「言ってろ」と吐き捨て、岩泉は紙パックのジュースをズズと啜った。全く動揺した様子も無ければ、気にしている素振りもない。そんな幼馴染みの変わりように、及川の脳裏に一人の女子生徒の存在が過る。

「岩ちゃんも、彼女できてから余裕でてきたよね」
「……なんか問題あんのか」
「いや。ただ、からかい甲斐が無くなって寂しいだけ」

 人を玩具にするな、と言って岩泉はため息をついた。

「でも、ちょっと羨ましい」

 及川は、この幼馴染みとその彼女の二人のやり取りを思い出す。まだ付き合い始めて数ヶ月の二人ではあるが、傍から見ても仲睦まじい。過度にベタベタとしているわけではない。しかし、程よい距離感を保っているのに、岩泉の隣にその彼女が並んでいる姿は、まるで寄り添っているかのように見えるのだ。表立ってはいないが、纏う空気が恋人のそれである。あぁ、お互いにお互いを大事にしているのだと、二人を見ているとなんとなく分かってしまうのだ。そんな関係を続けられる、この恋愛経験の浅い幼馴染みが羨ましいなんて、そんな事を思う日がくるとは思わなかった。

「お前と付き合っていける女なんて、早々いない気がするけどな」
「……それ、どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ」

 何食わぬ顔でそう言う岩泉には、及川が恋人と長続きしない理由に心当たりがあるようだった。交際経験初心者のくせに、何が分かるというのか。ムッとして何かを言い返そうとした及川だったが、しかし。岩泉の予想外の発言に静止する。

「お前には、有馬みたいな奴とかいいんじゃねーの」
「……は?」

 聞き間違いでなければ、岩泉は今「有馬」と言っただろうか。及川の脳内に、女子バレー部副主将、そして自身と犬猿の仲である有馬港が過った。及川は岩泉の発言を何一つ理解できず、眉間に皺を寄せて顔だけそちらに向けた。何故ここであの女の名前が出て来るのか。まるで恋愛対象に入っていない存在の登場に、及川は呆気に取られた。何を好き好んで、あの怪力女と自分が付き合う話になるというのか。しかし岩泉は、特に自分が変な発言をしたつもりは無いらしい。

「有馬といる時のお前、割と気楽そうにしてるじゃねーか」

 気楽。
 思いも寄らぬ事を言われ、及川はゆるりと首を傾げた。まるで意識をしていなかった事だった。自分は果たして、有馬港の前で、気楽にしているのだろうか。気に食わない相手の事ではあるが、一応は岩泉の言う「気楽」が何を指すのか考えてみた及川は、後に岩泉のこの言葉を聞かなければ良かったと、後悔する事になる。



 きっかけは、なんだっただろうか。
 記憶の糸を辿ると、確か自分と友達の会話を有馬に聞かれてから、特に仲が悪くなったような気がする。確かフリーの時に女子バレー部の一年生の女の子と、文化部の女の子に告白され、どっちと付き合うかという話をしていた。そして「胸が大きいから」という理由で、文化部の女の子と付き合おうかな〜と言った及川の発言を、偶然通りかかった有馬が耳にしてしまったのだ。自身の所属するバレー部の後輩が振られる、という事に心を痛めたのだろうが、何より及川のこの下衆な話が不快だったのだろう。「最低」と及川に一言浴びせて立ち去っていった有馬に、及川自身もカチンときて、そこからはもうお互いに冷戦状態の関係が続いた。表立って派手な喧嘩をする事は無い。ただお互いに皮肉の言い合いのような口喧嘩が耐えず、それがなんと一年くらい続いた。女の子にちやほやされる事が多い及川ではあるが、自身の性格が褒められたものではないという事実は分かっている。だからこそ、及川の人間性を知る身近な人間は、及川に粗雑な対応をする事が多い。男子バレー部の同級生は勿論の事、女子バレー部のメンバーもその傾向があった。しかし、及川の本性を知る女子バレー部の中でも、有馬港は特に及川が気に食わないようだった。及川に告白してきた後輩の女の子に新たに好きな人が出来て、交際をはじめていても尚、彼女の中で自分は「最低の男」だった。一体いつまで根に持っているのだろう。「男女の交際なんてそんなもんじゃないか」と及川は一度港に言った事がある。それに対する有馬の答えは「そんなの知らないよ」だった。最初は「お前の発言なんて知った事か」という意味でその言葉を捕えた及川ではあるが、後になって意味が違う事に気付いた。有馬港は、女子の割に運動能力も高く、力も強くて、男子に影で「アマゾネス」なんて呼ばれていた。そんな女に恋愛感情を持って寄りつく男はそうそうおらず、当然ながら有馬には彼氏というものができたことが無かった。だからこそ、彼女は「そんなの知らないよ」と口にしたのだ。恋人なんてできたことが無い有馬には、男女の交際のあれこれなんて分からない。それに気付いてからは、及川は「彼氏のいたことのない有馬さん」と有馬をからかうようになった。本当の事だけに言い返せず、眉間に皺を寄せている彼女をからかうのは楽しかった。「一生独り身かもよ」「そんなことない! ……かもしれないでしょ」なんて言う、微妙に弱気な彼女の発言には思わず吹き出してしまったが。
 このアマゾネスと付き合ってくれて、果ては結婚までしてくれる男なんで存在するのだろうか。もしそんな奴が存在するとしたら、その男はとんだ勇者である。賞でも授与してやりたいくらいだ。つい先程まで、及川は他人事のようにそう思っていたはずだった。

「……あれ、なんでお前がここにいるの?」

 主将会議のため、指定された教室の席に腰掛けていた及川は、隣の席に有馬が座ったものだから顔を上げた。

「今日女バレの主将が風邪で休みなの。だからその代理」

 そういえば、こいつ副主将だったな。知っていたはずだが、今更思いだして「あぁ」と及川も納得する。机の上に置いたカバンをゴソゴソと漁り、筆箱を取り出した有馬をチラリと盗み見て、及川は机の上に視線を落とす。「お前には、有馬みたいな奴とかいいんじゃねーの」と言った、昼休みの岩泉の発言が頭から離れない。「有馬といる時のお前、割と気楽そうにしてるじゃねーか」という追撃のような発言も思い出し、及川は無意味に手に持ったシャーペンをカチカチ鳴らし、シャーペンの芯を出した。岩泉の言葉を聞いた時は「何を言っているんだ」と思ったが、その後深く考えてみて「成る程」と頷いてしまう部分があったのが悔しい。確かに、彼女と話すのは楽だ。気を遣う必要もなければ、遠慮をする必要もない。自身の本性を知っているが故に、及川は素の自分のままで彼女と接する事ができるという事実に、今更のように気付いた。しかし、だから何だと言うのだろう。そうしてなんとか思考を振り払おうとした及川だったが、有馬が筆箱から取り出したシャーペンに気付いて、それは叶わずに終わってしまった。及川が先程無意味に取り出した青いシャーペンと同じメーカー、同じ形。ただ違うのは有馬の持つシャーペンの色が、パステルピンクである事くらいだ。更にグリップ上部辺りが花柄になっており、なかなか珍しいデザインである。色違いの同じシャーペンを使っているという事実に固まっている及川に気付いて、有馬もゆるりと及川の方に顔を向ける。

「何?」
「いや……お前、ピンクのシャーペンとか使ってるんだ」

 シャーペンが同じだっただけで動揺していたとは言えず、普段通りを装ったものの、思わず別の本音が漏れてしまった。このたくましい女は、どちらかというと実用的で質素なものを好みそうだというのに、もしかしてこういう可愛いものが好きなのだろうか。高校生活三年間連続同じクラスだったのに、こんな意外な事実があるとは思わなかった。しかし、及川の軽はずみな発言は、思いの外有馬の心を刺したようだった。

「……私の勝手でしょ」

 いつものように突っぱねるような言葉ではあったが、その語気は少しだけ弱い。そうして眉間に皺を寄せた有馬は、筆箱の中にピンクのシャーペンをしまい込んだ。そして今度は、その辺のコンビニで売っていそうな黒いシャーペンを取り出し、机の上にそっと置いた。そうしてむっつり黙り込んだ有馬に気づき、及川は心の内で「あ……」と漏らす。傷つけてしまったかもしれない。別にこんな事で落ち込まなくても、と口にしようとした及川であったが、その原因に自分も一枚噛んでいる事を思い出し口を噤んだ。「モテない有馬さん」「ゴリラ女」「アマゾネス」とても女子にかける呼び方ではない数々の言葉をぶつけても、鋭い睨みをきかせて「だから何?」なんて立ち向かってくる彼女ではあるが、心の中にそれが少しずつ蓄積されていたのかもしれない。冷静に考えなくとも分かる。こんな事を言われて、嫌じゃない人間がいるわけがない。
 謝らなければ。そうは思うものの、及川は有馬に素直に謝れるような性格をしていなければ、お互いにそういう関係でもない。今になって、これまでの自分たちの関係が呪わしい。何か手はないだろうか、と思考を巡らせるものの、これと言って妙案も思いつかない。そして二人の間で居心地の悪い空気を漂わせたまま、主将会議は終わってしまった。

 翌日。以前から予定していた家族旅行で遠出した先でも尚、及川の心はモヤモヤとしたままスッキリとしない。何故こんなにもアイツの事を引きずっているのか、自分自身でさえ理解不能だ。全ては幼馴染みの発言が原因である。どうしてくれるんだ一体……なんて内心で愚痴を零しながら、及川は立ち寄った土産屋を物色する。とりあえず部活のメンバーと監督、コーチ用にお菓子でも買って帰ろう。どれがいいだろうか、なんて適当に土産物の箱を手に取った時、近くに置かれていたお土産のシャーペンに気付いて、及川は動きを止めた。自身の愛用しているシャーペンと同じメーカー、同じ形。ただカラーリングは普段見かけないパステルカラーで、柄の部分には花柄が広がっている。有馬が持っていたシャーペンと全く同じ物だった。
 アイツ、あのシャーペンをここで買ったのか……と思うと同時に、再び有馬の事を思い出してしまった及川はげんなりとした。昨日といい今日といい、有馬港という人物には妙に縁があるようだ。本当にどういう事なんだ、などとぼやきながら、及川はシャーペンを手に取った。及川の目から見ても可愛らしいデザインで、女の子が好みそうなものだと思う。別にアイツがこれを使っていたからと言って、それが悪いことでもなんでもないのだ。それを何故、アイツはこそこそと隠すような事をするのだろう。もっと堂々とすればいいのに、なんて思ったところで及川は脱力する。

「俺のせいでもあるのか……」

 一体、何をやっているんだか。ぐだぐだと考えるのが嫌になり、及川は盛大にため息をついた。そしてそのまま、個人的に一番可愛いと思う柄違いのシャーペンを手に取った。もうここまでくれば自棄である。このモヤモヤから解放されたい、ただその一心だった。



「……どうしたのこれ」

 旅行から帰った休み明け。放課後の部活へ向かうタイミングを狙って、及川は有馬を捕まえた。そうしてやや押し付けるように、包装もなにもされていない土産物のシャーペンを渡すと、有馬は首を傾げた。腹立たしいが、モヤモヤとしたままの及川とは反対に、有馬はこの前の事などすっかりと忘れているようだった。

「この前家族で旅行に行ったんだ。そのお土産」
「えっ……何で?」

 当然の疑問だ。何故かと言われれば、先日有馬を傷つけてしまったかもしれない事への詫びである。しかし、そんな事を素直に言えるはずもない。

「ただの気まぐれ。誰かさんは意外と可愛いものが好きみたいだったから、その嫌がらせ」

 「同じようなもの二本あると助かるでしょ?」なんて軽口も忘れない。我ながら、小学生のような言い訳だと思う。ただただ、自身の気持ちを誤摩化したい、しかし、彼女には謝りたい。そんな気持ちがせめぎあった結果が、これである。

「この俺がわざわざ買ってきてあげたんだから、大事に使いなよ」

 本音を隠すように、わざと高圧的に言い放ったものの、流石に有馬も誤摩化されなかったらしい。難儀だな……と言いたげな表情を浮かべながらも、有馬は及川をこれ以上追及しなかった。

「ありがとう」

 不器用すぎる遠回しな謝罪は、確かに有馬に伝わった。そして、クスクスと笑いながら素直に礼を述べる彼女を、こうして正面で見たのは初めてだった。可笑しそうに、少しだけ嬉しそうにしている有馬を見て、及川の心にサクリと何かが突き刺さる。この感情は何なのだろう。それが何かを考えようとして、及川は一瞬息を止めた。これ以上は駄目だと、自身のプライドが待ったをかける。有馬を相手にまさか、いや、そんなはずはない。ありえない。
 こうして及川は、折角罪悪感から解放されたというのに、次は別のものに悩まされはじめた。お互いに憎まれ口を言い合う犬猿の仲、好きか嫌いかで言えば勿論好きではない。しかし、嫌いではない。これまでの付き合いのせいか、情が移ったというべきか。言いたくはないが、彼女と話すのは割と楽しい。気も楽で、自分も素のままでいられる。自分が素直になれなくても、分かってくれる。いつの間にか彼女の事を「嫌い」と言えなくなっている事に気付いて、及川は視線を逸らした。視界の端で、有馬の筆箱の中に自身があげたシャーペンが入っているのを見つけて、酷く照れ臭い。気付いてはいけない、そんなはずはない、意識してはいけない、認めたくない。 そう自身に言い聞かせるのは、もはや意地だった。


「私、ずっと及川先輩が好きでした」

 体育館裏に呼び出されるのは、高校に入学して何回目だろう。きっと告白をされるのだろうと思っていたが、今回も例に漏れず、予想通りの展開である。高校二年生である彼女は、学年でも指折りの美人で有名なのだと矢巾に聞いたことがあり、及川も彼女の事は知っていた。小柄で可愛らしく、肌も白くて、穏やかで優しそうな、とても良い子に見えた。制服を押し上げる胸元をちらりと見てから「胸も大きそうだな」なんて言ったら、また有馬に睨まれそうだ……なんて考えて、及川はガチリと固まる。何故今、ここであの女の事を思い出さなければいけないのか。思わず眉間に皺を寄せた及川に気付き、目の前に立つ後輩の女の子は「ごめんなさい!」と声を上げた。

「先輩にはご迷惑でしたよね……」
「え……? いや、違う違う! 今ちょっと別の事思い出しちゃって……!」

 慌てて強張った表情を緩めた及川は、体の前で両手を振って訂正する。しゅん、と落ち込んだ様子の彼女を励ますように身を屈め、人好きする笑顔を浮かべる。
 
「迷惑じゃないよ、凄く嬉しい」
「……本当ですか?」
「うん」

 落ち込んだ様子から一転、安心したように花開く彼女の笑顔は可愛らしい。良かった、とホッと及川が息をついたタイミングで、彼女はおずおずと口を開いた。

「あの、失礼なのは分かっているんですが……もし及川先輩が良ければ、私を……」

 彼女にしてくれませんか、と続いた言葉は消え入りそうだったが、及川はなんとか耳で拾う事ができた。今現在、及川には彼女がいない。それにこんな可愛い女の子からの告白を、断る男がいるだろうか。「それじゃあ、付き合う?」なんて口にしようとした及川ではあったが、しかし、言葉を音にして伝える事ができなかった。一瞬、脳裏に有馬港の姿が過る。彼女との喧嘩の日々、くだらない意地の張り合い、そしてたまにある楽しい時間。後輩の女の子と付き合ってしまったら、それが無くなってしまうのではないか。いや、今まで自分に彼女がいた時も、その辺りは変わらなかった。だからそんな心配をする必要はない。……心配をする必要がないのが、きつい。

「お返事は、また後日でいいです。良ければ……考えてみてもらえませんか」

 謙虚そうな後輩の女の子は、及川に考える時間をくれた。少しでも自分の事を考えて貰い、交際するかの返事が欲しいと言った彼女の言葉に、及川は素直に頷いた。


 告白をされた後、及川は体育館傍に置かれているベンチに腰掛け、膝の上に肘を置いて指を組んだ。
ついに視線を逸らしきれないところまできてしまったのかもしれない、と焦りすら感じる。後輩の女の子からの告白を受け、それをどうするか悩んでいる自分に気付いて、呆然とした。可愛い女の子だった。まさに及川の好みのど真ん中というべきか、小柄で華奢で、守ってあげたくなるような可憐な子だった。あんな女の子と一緒に手を繋げたら、ハグができたら、キスができたら、きっと幸せだろう。迷う理由などないはずだった。しかし「返事は後で良い」と言った後輩の女の子を、何故自分は引き止めなかったのだろう。答えが出ているのだから、さっさと応えてしまえば良かったじゃないか。後で再度返事を言うだなんて回りくどい事なんて、する必要がない。たらり、と頬に汗が伝ったような気がした。まずい。これ以上考えてはいけない。違う。俺はアイツの事なんて。恐ろしい現実が、及川の理想の背後で揺らめく。

「及川?」

 じゃり、と地面を踏みしめる音が耳に届き、及川はゆるりと顔を上げた。なんてタイミングの悪さだろう、一周回ってナイスタイミングとも言うべきか、そこに立っていたのは有馬だった。

「こんなところで何してるの?」

 「それはこちらのセリフだ」と言いかけた及川ではあったが、有馬が手に持っている鍵に気付いて、質問するのをやめた。どうやら部室の鍵閉めをしていたらしい。 

「体調悪いの?」
「いや、違うよ……」

 なんと言うべきか。一瞬悩みそうになったが、別に悩む必要がない事に気付いて、及川は静止する。最近の自分はどうもおかしい。何も隠す必要なんてない、先程あった事をそのまま言ってやればいいじゃないか……と自身で自身の背中を押す。

「告白の呼び出しされちゃってさ」

 異常に喉が渇いていく。いつもならこんな事、有馬に平然と言って退けられるのに。今は彼女の口から何が飛び出すか、恐ろしい。自分は彼女の中で、一体どういった存在なのだろう。そうして及川は、ゆっくりと立っている有馬を見上げた。まるで試すかのような発言をしたつもりだったのに、有馬には一切の動揺すら見られない。

「もしかして、体育館裏で?」
「……そうだけど」
「そっか。じゃあ、さっきすれ違った子がそうだったのかな」

 凄く顔真っ赤だったからどうしたのかと思ったんだけど、成る程な〜と納得したらしい有馬は、及川が妙に静かになった事に気付かぬまま、傍にある自動販売機にお金を入れた。そして飲み物のボタンを押した後、ゴトンと音を立ててジュースが取り出し口に落ちてきた。それを取ろうと身を屈めた有馬から視線を逸らし、及川は一人、締め上げられるような思いに耐える。あぁ、思ったよりきついな。

「付き合うの?」
「……分からない」
「珍しい、及川の好きそうな子だと思ったんだけど」
「俺にも事情があるんだよ」

 その事情の原因が、この女だというのが腹立たしい。そうして及川が脱力したままの項垂れていると、時間を置いてもう一度、自動販売機から物音が聞こえた。

「あっ、及川。ジュース当たった!」
「え?」

 妙に嬉しそうな声を上げてから、有馬は自動販売機の取り出し口に手を入れた。そしてそこからもう一本のジュースを取り出し「ラッキーだね」なんて言って笑う。そういえば、この自動販売機には、購入するとスロットが回り、番号が揃うとおまけでもう一本貰えるという仕様だった気がする。それにしても珍しい現場に居合わせたものだと、及川がぼんやりとしていると、有馬は当たったジュースを及川に差し出した。

「あげるよ、及川」
「え?」
「二本も飲めないしさ」

 「はい」なんて言いながら、なんの下心も無くジュースを差し出す有馬を見上げ、及川はゆっくりと腕を伸ばした。そうして有馬が片手に持っているジュースを受け取る振りをして、ほんの少しだけ有馬の指に触れてから、そのままジュースだけを攫った。

「ありがとう」
「いいって、その代わり今度購買のパン奢ってよ」
「はぁ? 何それ、聞いてないんだけど」

 文句を言いつつ、及川はクスクスと笑いながら、缶ジュースの蓋を開けた。その一言が無ければもっといいんだけどなぁ……なんてぼやきながら、それに安心感を感じているのも事実だった。本当にこの女は可愛く無いと、心底思う。そんな有馬を見ていると、なんだか悩んでいる自分が馬鹿らしくなってきた。

「……参考までに、お前に聞きたいんだけどさ」
「何?」
「お前は、どういう人と付き合いたい?」

 あわよくば、この女の本音を聞き出してやろう。そんな下心を孕んだ及川の質問に、有馬はうーんと数秒唸ってから、少しだけ気恥ずかしそうに口を開いた。

「付き合うなら、好きになった人とがいいな」

 ぽつりと漏らした有馬の言葉に、及川は目を見開いた。紛れも無い、有馬の本音だった。そして同時に、及川の本音でもあった。まさか目の前の女に現実を突きつけられるとは思わず、及川は内で抱えていた理想が、目の前で呑気にジュースを飲んでいる女に殴られたような心境に陥った。あまりにも純情すぎる発言に衝撃を受けつつ、しかし聞きたかったのはそこではないのだと、言えるはずも無い。これが交際経験皆無のアマゾネスの発言か……と頭を抱えながら、及川はついに降参した。

「あー……もう、最悪」
「何、どうしたの?」
「お前のそういうところが本当に嫌いだよ」
「は?」

 「そんな事言うなら、さっきのジュース返してよ」なんて文句を言う彼女の言葉を聞きながら、及川は張った肩の力が抜け、楽になっていくのを実感していた。まさに一生の不覚。これ以外の言葉が思いつかない。何故こんな女に翻弄されているのか、自分で自分が分からない。相手はアマゾネスだと影で言われるくらいにはたくましく、実は可愛いものが好きで、一緒に居てわりと楽しい女だ。そんな事は分かっている。

「嘘、嫌いじゃないよ」

 俺の事を、好きになってくれたらいいのに。己のほんのりとした本音を乗せ、彼女を翻弄するように及川が意図的にそう口にすれば、有馬は少しだけ動揺したようだった。こんな思わせぶりな事を言われたのはきっと初めてなのだろう。急に動きがぎこちなくなり「あ、ありがとう?」と意味不明な礼を述べてきた。そんな彼女の様子を微妙な表情で眺めてから、及川はふぅと息をつく。有馬にも大概、自分のような男がお似合いなのかもしれない。恋愛初心者で、男女交際の云々が良く分かっていない彼女に対し、交際経験豊富な俺がリードしてやればいい。慣れるまでに随分と時間がかかりそうな気もするから、長期戦を覚悟しておいた方がいいだろう。そうしていつか、彼女が自分を好きになってくれたらいい。なんて俺は良い男なんだろう。有馬相手に気長に付き合ってやれる男なんて、俺くらいなんじゃないだろうか。……なんて、偉そうな態度で自覚をしたものの、及川が有馬に交際を申し込むのには、一ヶ月程の時間を要した。



 カチカチ、と港の自室のテレビのリモコンを操作しながら、及川は録画されている動画の一覧を眺めていた。今日は何やら練習した手料理を振る舞ってくれるらしく、及川は港の一人暮らしをしている部屋に訪れていた。手伝おうとした及川ではあったが、料理ができるまでの間、映画でも見て時間を潰してくれと言われてしまい、今に至る。映画を見るにしても、それよりも先に料理の方が出来上がってしまうだろうから、一時間くらいの手頃な番組がいいだろう。なんとも港らしいチョイスで録画されている番組一覧を流し読みしながら、及川はある番組名に目を止める。なんの変哲もない、とあるお昼のバラエティー番組。しかし、その放送日を確認し、及川は思わずフッと笑ってしまった。
 数週間前、及川の通う大学のバレー部にテレビ出演の依頼が舞い込んだ。番組のちょっとしたコーナーでの出演、大学側は宣伝になるかとオーケーを出し、その出演者に及川達が選出された。全国放送のテレビ出演とあって緊張してしまい、番組内ではあまりカッコイイところを見せられなかったために、及川としてはあまり友人には見て欲しくないものとなってしまった。しかし、なんとなく港には見て欲しいような気がして、彼女には「この日に放送あるから録画してね」なんて念を押していた。その時は、冗談なのかどうなのかは微妙なところではあるが「どうしよう……録画の要領が……」なんて、ブツブツと言っていた。そうやって渋っていた彼女ではあるが、しっかりと録画をしていたらしい。番組の後半、他の番組参加者にお願いされてやることになってしまった、及川の投げキッスのシーンも見たのだろうか。そんな事を思いながら、キッチンで作業をしている彼女を盗み見る。今度、あいつの前で投げキッスでもやってみようかな。真っ赤になって動揺するだろうか、アイツをそうやってからかうのは楽しそうだ。そんな企みをしながら、及川はキッチンから聞こえる鼻歌に耳をすませる。何を思ってなのか、港は表彰式の時によく流れる曲を歌っている。機嫌良さげな鼻歌を聞きながら、及川は港と付き合う前の、過去の自身の事を思い出す。あのアマゾネスと付き合える男がいたら、そいつはとんだ勇者だと思う、賞でも授与してやりたいくらいだ。そう思って疑いもしなかったと言うのに、現実はこうも理想と程遠い。

「これが表彰式かぁ」

 幸せなことだ。

栄誉ある受賞者の末路

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