最近、バイト先のラーメン屋に綺麗な女の人が頻繁にやって来る。恐らく同年代か年下くらい、背は低めで、港が腕なんかを掴んでしまったら折れてしまいそうなくらいに華奢な女の子だ。それなりに人気のあるラーメン店で客の出入りも多い中、港が彼女の事を覚えていたのは、彼女が美人である事と、いつも一人でこの店にやって来るからである。そして今日も、彼女は夜遅くに一人でラーメン屋にやって来た。こんな夜遅い時間に一人で大丈夫なのだろうか、といらぬ心配をしながら、港は彼女の注文をとる。閉店までもう少しという時間帯。店内の人は少なく、お客さんはカウンターに座る彼女と、奥の席に集まっている会社帰りの大人数人だけである。調理場でもある程度の片付けを始めているこのタイミングで、滑り込むようにもう一人のお客さんがやって来た。

「こんばんは」

 聞き慣れた声に顔を上げれば、そこに立っていたのは案の定、及川だった。今日は部活帰りでは無いらしい私服姿の及川は、注文票を持った港に気付いて、ひらりと手を挙げる。そんな及川に、奥で調理をしていた大将が気づき「いらっしゃい及川君」と声をかけた。そして同時に、思わぬ方向からも声が上がった。

「及川君……?」

 ガタリ、と椅子を揺らしたのは、ここに最近一人で通っていた彼女だった。心底驚いた様子でパチパチと瞬きをする彼女を見て、及川も驚いているようだった。

「五十嵐さん?」

 どうやら、二人は知り合いらしい。五十嵐さん、と呼ばれた彼女はパッと表情を明るくして、カウンター席に座りかけていた及川の隣に移動した。注文をとっている途中だった港はそこに立ち尽くしたまま、嫌な予感を感じ取る。ありふれた風景、もはや日常に近く今更ではあるが、及川徹は非常にモテる。

「すっごい偶然……。もしかしてここ、及川君が通ってるって言ってたラーメン屋さん?」
「そうそう、美味しいんだよここ」
「実は最近私も通ってて……まさか、及川君に会えるなんて思わなかった」

 ズイ、と及川の方に身を乗り出した五十嵐を視界に入れて、港は心の内でむっとする。やはりというべきか、先程から彼女の態度は随分と積極的で、及川との距離が近い。注文をとっていたのに置き去りにされた事も相まり、港は面白く無いと思いながら、二人の注文を聞く為にカウンター席の方に一歩踏み出す。そしてわざわざ間に割って入り、平素通りに「ご注文は」と口にする。そんな港の行動の真意に気付いて、及川はフッと吹き出した。五十嵐はキョトンとしていたものの、直ぐさま及川に「おすすめある?」と尋ねた。

「俺はここのチャーシュー麺が凄く好きだよ。大盛りにするとチャーシュー二倍だし」
「そうなの? でも私、そんなに食べられないや……」

 確かに、五十嵐の体格や様子を見れば、大盛りを平らげられそうな人には見えない。明らかに小食であろう彼女は、控えめに「普通のチャーシュー麺をお願いします」と港に言った。それを承りながら、港は自身が普段、及川と同じチャーシュー麺大盛りを食べていることを思い出す。平らげるのは流石に及川の方が早いが、自身はそれをお腹に入れるのは苦ではない。「二人共いい食べっぷりだな!」と大将は笑ってくれるが、女としてどうなのだろうと今更になって思い至った。そうして二人の注文を大将に伝え、手伝いをしている間、及川と五十嵐さんの関係を聞いた。なんでも同じ大学同じ学科の生徒らしい。学籍番号が近いためそれなりに話したりするのだと、五十嵐さんは大将に話した。その大将の手伝いをしているバイトがまさか及川の彼女だとは思っていないようで、彼女は積極的に及川に話しかけていく。

「それにしても凄い偶然! お互い、好みの味とか似てるのかもね」
「ははは、そうだね」
「どれくらいの頻度でここに来てるの?」
「うーん……一週間に一回くらい来てるかな」
「そうなの?私もそれくらい! 大体何曜日に来てるの?」

 良かったら、これからも一緒にラーメン食べようよ! と暗に誘う彼女の言葉を耳にし、港は手に持ったドンブリをギュッと握る。彼女を目の前にして人の彼氏にちょっかいをかけるとは良い度胸だ、と言い放ちたいが、何せ自分は今はラーメン屋のただのバイトである。そして及川に彼女がいるのかどうかを知っているのか怪しい彼女に、急につっかかるなどできるはずもない。まるで余裕の無い港の心情を察してか、茹で上がった麺の湯を切りながら、大将が助け舟を出してくれた。

「及川君は、有馬さんのいそうな時間帯に来る事が多いよな!」

 ハッハッハと笑う大将の発言に、五十嵐は「有馬さん?」と首を傾げる。それを聞いた及川は飲んでいた水を吹き出しそうになり、ゴホゴホと咽せた。

「この子が有馬さんだよ、及川君の彼女」

 大将の言葉を聞き、五十嵐は驚いたような表情で港に視線を向けた。何度も瞬きを繰り返し、港の頭から下までじっと観察する。そんな五十嵐をよそに「何を言ってるんですか……」と大将に抗議する及川は、少しだけ恥ずかしそうだった。

「そうなんですか。はじめまして、有馬さん。及川君と同じ学科の五十嵐です」

 先程大将にした自己紹介を同じように繰り返してから、五十嵐は港の事等気にしていない様子で及川に話しかける。「今度のあの講義の課題の進み具合はどうか」「実習のグループワークを一緒にやらないか」など、まるで港が入る事の出来ない話題ばかりである。港は今ラーメン屋で働くバイトであり、お客さんの話題に入る必要も全くと言ってないのだが、ここまで蚊帳の外にされるのも慣れない。何せ、及川はこの店にやって来たら、必ずと言っていい程港と雑談をして帰っていくのだ。及川も半分くらいはそのつもりでこの店に来ているのだろう。あながち、大将が先程言った事は間違いではないのかもしれない……と思うと、なんだか嬉しくて口元が緩みそうになった。港はまるで情緒不安定である。そうしてこの日は、及川とそんなに話す事も無く終わった。
 そしてその翌週から、問題は発生した。

「それで及川君、講義中にうとうとしちゃってて、可愛いかったなぁ」
「……そうですか」

 五十嵐が港の働くラーメン屋に訪れるのは、今までより頻繁になった。恐らく目的は二つ。一つはここにやって来るであろう及川と偶然にでも鉢合わせるため。もう一つは、及川の彼女である港を牽制するためだ。こうして港が働いている姿を見かければ、カウンター席に座り、まるで友人のように話しかけてくるのだ。それも五十嵐でなければ知り得ぬ及川の話ばかり。きっと他の客から見れば、港と五十嵐は仲の良い知り合いに見えるだろう。しかし、その水面下で行なわれているのは、一人の男をかけた女の戦いである。それを知っている大将含む従業員は、毎回緊張感を持ってこちらの様子を窺っている。

「確かその日、一緒に映画を見に行ったから、それで眠かったのかもしれないですね」

 しかし、これは彼女である港が圧倒的に有利な話題である。勝った、などと内心で勝ち誇りながら港がそう言うと、大将達も「よし」と控えめに頷く。

「あぁ、その映画って美女と野獣をテーマにした邦画だよね? 私もそれ見て良かったから、及川君にお勧めしたの。見てくれたんだね、嬉しいなぁ」
「…………」

 確かに、その映画を見ようと言ったのは及川である。及川が何故その映画を見ようと言ったのかについては詳しく追及もしなかったため、真意は定かではない。だからこそ五十嵐に言い返す事もできず、港は黙り込んでしまった。港の後方で様子を窺っていた大将達は「あぁ……」と狼狽えたような息を漏らす。今回も、水面下での女の戦いは港の負けである。



「いやぁ、女っていうのは怖いなぁ」

 そんな事をしみじみと言いながら、大将は港にまかないを差し出した。港がよく食べるチャーシュー麺の大盛りに、餃子までつけてくれた大将は、港を随分と哀れんでいる。あれから何度も五十嵐とバイト先で鉢合わせ、完敗を喫する港には、同情せざるを得ないらしい。「俺なんか、女房にしかモテた試しがないから、こういうのには無縁でよぉ」と言う大将の言葉を聞きながら、港もそれは自分も同じだと頷く。生まれてこの方、及川以外の異性に好かれた試しが無い。それに対し、及川は好かれまくりのモテ男である。

「私の感覚では、男の人に彼女がいたら、潔く身を引くのが当たり前だと思ってたんです。だけど、及川と付き合ってると良く思います、意外とそうでもないんですね」
「まぁなぁ……色恋は理屈じゃないしなぁ」

 色恋は理屈ではない。それは港と及川にも当てはまる言葉であり、それは五十嵐にも言える言葉でもある。分かっているけど歯止めが利かない、相手が欲しい。その理屈ではない部分が奇跡的に噛み合っている自分と及川には、特に他人事とは思えない事象である。ズルズル、とラーメンを啜る港を見て、大将は心配そうな顔をしながら、時刻を確認していた。これまでの傾向から、そろそろ及川が店に顔を出す事の多い時間帯である。同時に五十嵐も引き寄せてしまうので、港は最近この時間を迎えるのと複雑な気持ちになる。
 そして五分後。案の定というべきか、及川はいつもの習慣通りにラーメン屋にやって来た。今回はなんと、店の前で五十嵐と出くわしたらしく、なんとも言えぬ表情で二人して店内に入って来た。

「有馬さん、こんばんは」

 及川の隣に立ち、にこやかに笑う彼女は可愛らしい。それに軽く会釈をして、港は言葉少なく目の前のラーメンに視線を落とす。よりにもよって今回は一緒に来店してきた事が悔しいが、しかし、ここで負けてはいけない。港は己を奮い立たせ、ゆるりと顔を上げた。ここは彼女らしく、何か余裕ある一言でもかましてやろう。そう思って口を開きかけた港は、しかし、五十嵐の言葉に先を越されてしまった。

「わ〜、有馬さん……そんなに食べるんですか?」

 港の目の前に置かれたラーメン大盛りと餃子を見て、なんの悪気も無く五十嵐は言い放った。ぐっ、と言い淀んだ港は、すでに序盤から劣勢になってしまった事を察した。大盛りチャーシュー麺に餃子、確かにこれだけ食べれば港のお腹もいっぱいになってしまうのだが、食べられない事もないのだ。五十嵐に暗に「そんなに食べて女としてどうなの?」と言われた気がして、港は「まぁ……」と言葉を濁す他ない。大将の顔にもありありと「まずい」という言葉が浮かんでいる。港を励ますためにしたおまけが、思わぬ所で悪影響を及ぼした。

「そうそう、お前良く食べるもんね」

 一瞬沈黙した空気を裂くように、及川は当然のように港の隣に腰掛けた。

「俺も、チャーシュー麺と餃子ください」

 五十嵐の言葉を全く気にしていな及川を横目に、港はポカンとする他ない。港がたくさん食べるという事は、及川にとってはなんら障害にはならないのだと、言われた気がした。ここで港はぼんやりと、以前及川と一緒に焼き肉を食べに行った時の事を思い出した。二人していろんな肉を食べ、野菜を、食べ、ご飯を食べ、もうお腹いっぱいだと机につっぷした時、及川は「お前ほんと良く食べるよね」と言って笑った。その時はただからかわれただけだと思い、深くも考えもしなかった。「何か文句ある?」と可愛げのない事を返した港に対し、及川は楽しそうに笑いながら「一緒のペースでご飯が食べられるから楽しいよ」と言った。その時は、それがとてつもなく恥ずかしくて、自分はその後なんと返したのか、はっきりとは覚えていない。しかし、そのままのお前でいいのだと言われたようで、嬉しかったことだけはしっかりと記憶している。

「……及川、私のチャーシュー1枚あげるよ」
「え? 何急に……」

 くれるなら貰うけど……と戸惑い気味に言う及川の向こう側に、五十嵐がすとんと腰掛けた。そしていつも食べているものとは別の、普通の醤油ラーメンを注文した。二つの注文を受け、大将が作った及川のラーメンの方には、こっそりと煮卵がおまけされていた。そうしてこの日は、間に及川を挟んでいたせいか険悪な空気にもならず、割と穏やかに会話が進んだ。いつもと比べて静かな様子の五十嵐に首をかしげつつ、港と及川はラーメンと餃子を食べきった。そうして後は五十嵐がラーメンを食べきるのを待つだけ、というところで、及川のポケットに入っていた携帯が震えた。

「……ごめん、ちょっと電話に出てくる」

 画面を確認した後、携帯電話を片手に、及川は一旦店の外に出て行ってしまった。それを見送り、未だにラーメンをちまちま食べている五十嵐を横目に、港は冷やをコクリと飲む。店の外に一旦出た及川と入れ違うように、仕事帰りの大人が何人も店内に入ってきたため、大将ともう一人の従業員はそちらの対応にあたる。店内はそれなりに騒がしくなったというのに、港と五十嵐の間にだけ静寂が流れているようだった。

「分かんないなぁ……」

 ぼそりとした五十嵐の呟きに、港は視線をそちらに向ける。間にいた及川がいないために、視界は随分と良く、もの言いたげな五十嵐と目が合った。

「なんで、及川君は有馬さんみたいな人と付き合ってるんだろう」
「……それは、及川が私のこと、」
「本当に?」

 港が何を言おうとしているのか分かっていて、五十嵐は言葉を遮った。何かを思いつめた様子の彼女に、港は一瞬言葉を詰まらせた。何かあったのだろうか……と考えて、港は当然の答えに辿り着いた。少し前から、なんとなく察してはいた。彼女は実際、そんなにラーメンは好きではない。それでも頻繁にここに通っていたのは、及川に会いたいがためで、何故会いたいのかと言うと、好きだからである。そんなシンプルな事実に気付き、港は呆然としてしまった。

「それって、今だけの話かもしれないよ」
「……えっ?」
「付き合い始めて一年くらいなんでしょ? この後どうなるかなんて分からないよ。及川君なんてカッコイイから、これから先もきっと、私みたいな女の子に声かけられるよ」

 港はまじまじと、五十嵐の姿を眺める。港の知らないところで、彼女のような可愛い女の子に、きっと及川は何度も声をかけられているだろう。彼女がその良い例だ。

「もしかしたら、今は可愛い子にちょっと飽きちゃってて、貴女みたいな普通の子と付き合ってるだけかもしれないじゃない」

 ラーメンを啜る手を止めてそういう彼女の言葉には、覚えがあった。及川と付き合い始めた当初、港が思っていた事と全く同じだ。可愛い子と付き合っていたから、気分転換に港のような女と付き合おうと思ったのだろうと、ただの気まぐれなのだろうと。

「本当にそんな事、言い切れるの?」

 お前にそんな自信があるのかと、剣の先を突きつけられたような気がした。しかし、その剣には見覚えがあり、港は冷静に彼女を見つめる。港だって考えなかったわけではない。しかし及川は、そんな港の疑いなど、綺麗さっぱり叩き折ってしまった。

「違うよ、及川は……」

 勝てない。体力では負ける気がしないこの相手に、自分は「女」という同じ壇上には立てない。男が十人いたとして、九人は確実に彼女を選ぶだろう。最後の一人が物好きだったとしたら、港が選ぶ可能性も五分くらいはあるかもしれないが、多数決ならば、勝敗は見えている。しかし、その十人の中の一人に及川がいたら。他の九人が彼女を選んでしまっても、及川だけは「一票も入ってないお前が可哀想だからしょうがなく」なんて言いながら、港を選んでくれるかもしれない。一番欲しい一票を、なんだかんだ言いながら港にくれるかもしれない。理想でも理屈でもなくお前が好きなのだと、及川は言った。自分にはあまり自信はないが、及川のあの言葉は、港の背中を押してくれる。それを信じさせてくれるくらいの、勇気が湧いてくる。もっと自信を持ちなよ、と言った及川の言葉が頭の中に響いた。

「及川は私の事好きだよ」

 言った後で、自身が何を口走ったのか驚きもしたが、五十嵐を牽制するように睨みをきかせる。そんな事では揺るぎはしないのだと、彼女にしっかりと伝えてやるのだ。しかし、そんな港の精一杯の反撃を、五十嵐はフンと鼻で笑って蹴飛ばした。

「今はそうでも、及川君はずっと、貴女の事好きでいてくれるかは分からないよ。もっと好きになる人が現れたって、おかしくないんだよ」

 私もそうだった、なんて言って五十嵐は自嘲した。もしかしたら、彼女にも何かあったのかもしれない。及川を好きになる前なのか、その後なのかは分からない。彼女の経験した何かからの、港への忠告なのかもしれない。そんな彼女の言葉を聞き、港はぼんやりと考える。及川が、自分の事を好きで無くなる。自分以外の人を好きになる。及川を信じていないわけではない、しかし可能性がゼロではない事に気付いて、港は一瞬言葉を無くした。今まで考えてもみなかった。及川に振られたら、私はどうしたらいいのだろう。脳内で「ごめん、他に好きな人ができた」と言う及川を思い浮かべ、港は唇をぎゅっと引き締めた。きっと悲しいしショックだろう。それでも及川にもっと大事な人ができたのなら、自分はどうするか……なんて、深く考えずとも答えが出た。及川がそう言うなら、しつこくすがりつけない気がする。「私はメンタルもアマゾネスだからへっちゃらだよ!」だなんて強がりを言って、及川とさっぱり後腐れ無く別れるような、そんな気がするのだ。
 いつの間にこんな風に思うようになったのだろう。あの男が幸せなら、私はそれがいい。それでも。

「……それでも、私は及川が好きだよ」

 一生忘れられそうにない。港の初めての恋人にして、彼氏彼女がどんなものかを教えてくれた人。はじめての経験をたくさんさせてくれたあの男に、港は心奪われている。普段はツンケンしていて港の扱いなんて雑なくせに、その実こちらをひっそりと窺っていたりと優しさが垣間見える不器用な人。何の迷いも無く、港の不安なんて一瞬で払いのけてくれる及川を、ずっと引きずり続ける気がする。

「……有馬さんて、幸せだね」

 それは褒めているのか、呆れているのか。そのどちらの意味も含まれているであろう事を言う彼女は、港よりもずっと経験豊富だ。恋愛の楽しいところも難しいところも、彼女はずっと多くの事を知っている。だからこそ、港の言葉は無知に聞こえるのだろう。しかし、港の言葉は嘘ではないのだ。及川以外との経験が無いからこそ、港は真直ぐ一人しか見る事ができない。複雑な駆け引きなど、分からない。

「本当、お前はいつも幸せそうだよね」

 不意に後方から声が落ちてきて、港はビクリと肩を震わせた。それは五十嵐さんも同じようで、慌てて港の後方にいる男の方に振り返っていた。誰がそこに立っているのかなんて、振り向かずとも分かった。しかし、先程の自身の発言を思い出し、港は羞恥で振り返れない。五十嵐さんとの話に集中しすぎて、いずれここに及川が戻ってくる事をすっかりと忘れてしまっていた。たらり、と冷や汗を流した港に気付いているのか、後方に立っている及川は、港の頭をポンポンと叩いた。

「ご飯食べてる時とか、いつも幸せそうな間抜けな顔してるし」

 クスクスと笑いながら、及川はゆるりと視線を五十嵐に向ける。五十嵐本人と言えば、先程の会話を聞かれたと気付いて気まずそうにしながら、そこで固まっていた。

「あんまり、俺の彼女いじめないであげてよ」

 穏やかにそう言う及川に、五十嵐はピンと背を伸ばし「ごめんなさい」と口にした。一体どこから聞かれていたのだろう……なんて思考を巡らせた彼女ではあるが、及川のこの言葉に、聞かれたく無かった部分も聞かれてしまったのだと察した。

「俺、彼女が傷つけられるのは嫌なんだ。今後、そういう事言うのは止めて欲しいな」
「待って、違うの及川君。私そんなつもりじゃ……」
「それ、俺に言う事なの?」

 謝る相手が違うんじゃない? なんて言いながら、及川はわしゃりと港の頭を撫でた。それを聞いて口を噤んだ五十嵐は、恐る恐る隣に座る港に視線を向ける。まるで敵を見るような目だった。しかし、それも当然の事なのだ。何せ港という人間は、彼女にとっては恋敵という名の憎い存在だ。

「違うの……私、及川君が好きなの。だから……」
「俺は有馬が好きなんだ、ごめんね」

 五十嵐の告白に間髪入れずそう返した及川は、なんの変わりも無い様子で港の肩にポンと手を乗せた。そしてそのまま、五十嵐に笑いかける。

「でも、ありがとう。お陰で良い事聞けたから」

 優しい声色の割に、酷い言葉だと思った。そんな事を言われて、五十嵐が喜ぶはずもない。それを分かっていて言ったのかそうでないのかは、港にもはっきりとは分からなかった。及川の性格上前者の気もするし、しかし相手は女の子とあって後者の気もする。そんなことをぼんやりと考えている港をよそに、及川は港の肩を叩いた。

「ほら、帰るよ有馬」

 「もうラーメン食べただろ」と言いながら、及川は財布を取り出し、会計を済ませる。それに慌ててついて行こうとした港は、未だにラーメンの残ったドンブリに手を添えている五十嵐に視線を向ける。彼女はまだ食べきっていないから待った方がいいのでは、と思ったが、及川は大将に声をかけてからさっさと店を出て行ってしまった。一瞬どうしようかと迷った港ではあったが、俯いた五十嵐をそのままに、及川を追って店の外に出た。
 及川は店の前で、ポケットに手を入れて港を待っていた。

「及川……あれじゃ可哀想、」
「俺はその気ないんだから、期待させる方が可哀想だろ、こういう時は、スッパリ断るのが一番良いんだ」

 恐らく経験談なのだろう。及川はそう言って、港の手をさり気なく攫った。普段よりも及川が妙に静かなものだから、港は少しだけ怖じ気づいた。

「それとも、あそこで期待させるような事言った方が良かった?」
「……ううん」
「でしょ?」

 全く……なんて呆れたような表情で、及川は港の手を引いて、スタスタと歩く。先程までの静かな様子から一転、普段通りの及川に戻ったようだった。

「あーあ、お前珍しく言い返してたから感心してたのに」
「何その上から目線……」
「それを可哀想だなんて言うんだから、及川さん傷つくな〜」
「……ごめんって」
「本当だよ」

 傷ついたから俺を家まで送って、などと意味不明な事を言いながら、及川は港の腕をグイグイ引っ張る。そんな事を言う前から、二人は既に及川の家の方向に向かっていたものだから、ただの後付けにしか聞こえなかった。

「ああいうのは、ざまーみろ、くらいに思えばいいんだよ」

 なんとも及川らしい発言だと思う。そういう事を言うから性格が悪いなんて言われるんだよ……なんて一人ごちながら、港は及川の手をぎゅっと握り返した。道中に聞いた話ではあるが、彼女が自分に気があるのは明白だったから、彼女がいる事も伝えていたし、さり気なく気が無い事も言っていたらしい。それでも諦めなかった彼女の行動力が原因となり、今回のような事態になったのだろうと、及川は話した。そうして話しているうちに、及川の借りているアパートの一室に辿り着いた。まさか本当に送らされるとは思わず、これ普通逆なのでは……? という当然の疑問が港の脳裏に過る。そして及川は律儀に「送ってくれてありがとう」と宣った。

「……それじゃあ、私はもう帰るね」
「待ちなよ」

 未だ港の手を軽く握ったままの及川は、自室のドアを肩で抑えて開け放ったまま、穏やかに笑った。

「ねぇ、俺が今どう思ってるのか知りたくない?」

 慈しむような、優しい視線を向けられ、港は背筋をゾクリとさせた。及川が港に向けている感情の名前に気付いて、港はほんのりと赤くなる。

「今日うちに泊まっていきなよ、教えてあげるから」

 ここで及川が「送って」と言った理由が分かってしまった。全てはこのためだったのかと呆れたと同時に、穏やかに笑う及川を見ると、何も言い返せない。何をするつもりなのかすでに決めてしまっているくせに、その爽やかさは何だと問いつめてしまいたくなった。
 愛されてしまうかもしれない。そんな意味不明な事を考えながら、港は及川に握られていた手をゆっくりと解いた。そして一歩踏み込み、玄関前に立つ及川を押し込むように、及川の首に腕を巻き付けて唇を重ねた。及川もそれを待っていたという風に受け止め、港を自身の家に引き込み、ドアをバタンと閉めた。お互いの吐く熱い息と、唾液の混ざり合う水音を響かせながら、玄関でキスの応酬を繰り返す。溶けてしまいそうだとぼんやりとしていた港は、玄関のドアに押し付けられ、及川からのキスに何度も応える。あぁ好きだ、好きでどうしようもない。己の高ぶる感情は、及川と触れ合う事でもっと上昇していく。

「私……及川に振られても……ハァ、……ずっと引きずっちゃいそう」
「……俺も随分、惚れられてるね」

 フッと笑いながら、及川は港の体に手を滑らせる。及川徹という男にしか許されていない行為、それを彷彿させるように港の体這う手は、港の服の中に滑り込む。

「……及川もでしょ」

 及川も大概、私の事が好きなのだ。だからこそ、もっと教えて欲しい。及川が今何に喜び、こうして港と身を寄せているのか。もっと知りたい。しかし、及川からの熱に応えるには、この服が邪魔だ。

「……彼女が板に付いてきたね」

 港の珍しく強気な言葉を聞き、及川はクスクスと笑った。

奇跡の一割

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