今朝から有馬家の人間は大忙しである。その理由は簡単、家に及川が遊びに来るからだ。

「港、まだ着替えてないの!?」
「いや……及川来るのまだ先だし……」
「着替えなさい!」

 現在の時刻は午前十時。及川が家に来るのは昼の一時である。昼前に身支度を整えればいいかとパジャマ姿のままリビングでくつろいでいた港は、母親に叱咤された。リビングを追い出され、仕方なしに自室で着替えようと歩いている途中、脱衣所で鏡を拭いている兄を見かけた。先日まで課題のレポートの〆切でげっそりとしていたというのに、今朝はかなり早朝に起きだして身支度や部屋の掃除をするくらいには元気を取り戻している。普段は割とラフな格好をしている事が多い兄ではあるが、今日は普段より落ち着いた格好をしていた。

「あれ、港まだ着替えてねーの?」
「これから着替えるよ……。というか、今日珍しい格好してるね」
「あぁ、及川君が来るからな」

 兄の風格のためにちょっとな……と意味の分からない事を言いながら、兄は格好つけて腕を組んでみせた。どうやら『年上の余裕あるお兄さん』と及川に思われたいらしく、所作もなんだか普段と違う。果たして、及川が来た時にその演技が通用するのだろうかとは思ったが、港はあえて何も口にしなかった。そして掃除に戻った兄を尻目に、港は自身の足下に広がる廊下に視線を落とす。昨日からはじまった有馬家大掃除大会のため、丁寧に拭かれた床には埃ひとつ落ちていない。玄関から廊下、リビングにキッチン、港の部屋のある二階に上がるための階段に至るまで、全て見事に掃除されている。全ては、及川が家に遊びに来るためにと準備されたものである。港も港で自室の掃除はしっかりとしており、港に協力して掃除を手伝ってくれた家族には感謝をしている。しかし、改めてこう見ると、この気合いの入れようが逆に恥ずかしい。及川なら、この整えられた家を見て察してしまうのではないか……という妙な不安を過らせつつ、港は大人しく自室に戻り、着替えをはじめた。



 そして約束の時刻。待ちに待った及川徹という男が、時間ぴったりに現れた。お土産の入った紙袋を手に持ち、白を基調とした爽やかな出で立ちは、夏空の下で少し眩しい。

「この前の飲み会ぶりだね」

 そう言ってから、及川は玄関に立つ港にお土産を渡した。ご家族と食べてください、なんて言う及川ではあるが、港に手渡されたお土産は、以前東京で及川と一緒に購入したお菓子である。宮城に帰郷する前に、既に港の家に行くと決めていた及川が「お土産何がいいと思う?」と港に相談した結果である。そして港の家族が好むお菓子を購入し、こうして持参した及川から港が受け取るという今に至る。なんだか回りくどい事をしているなと思いつつ、港は及川から渡された紙袋を持って、及川を家に招き入れた。

「あら、及川君いらっしゃい!」
「お久しぶりです、お邪魔します」

 あら! なんて言ってタイミング良く現れた母ではあるが、実は先程から玄関の死角で待機していた。ちなみに兄は、偶然を装って部屋から出て来て、及川と鉢合わせするという算段である。普通に母と一緒に出迎えてくれればいいものを、妙なこだわりがあるらしい。そして計画通り、港の部屋への移動途中に現れた兄は、普段と違う格好つけた落ち着いた様子で「いらっしゃい」と言った。しかし次の瞬間、及川の「お久しぶりです、お兄さん」という特に何も意図していなかった発言に不意を付かれ、感激して素を漏らしそうになっていた。妙に嬉しそうにしている兄に、及川は不思議そうに首を傾げる。それもそのはず。まさか「及川君にお兄さんて呼ばれるようになりたい」というのが兄のちょっとした夢であることなど、及川は知る由もない。そうして浮かれた様子の兄とすれ違った後、港の部屋に入った途端、及川は口元に手をあてて吹き出した。やはりと言うべきか、明らかにはりきった様子の有馬家の様子は伝わったらしい。

「ほんと、お前の家の人達って面白いよね」
「……凄く及川の事気に入ってるみたいだよ」
「うん、なんとなく分かる」

 まぁ嫌われていないだけ良かったよ、と言いながら及川はズボンのポケットに手を入れた。及川の外面の良さは港も分かっているので、嫌われる方が珍しい。及川を家に連れて来て、喜ばない家庭はあるのだろうかと、港は一瞬考えた。

「有馬も今度、うちにおいでよ」
「……えっ」
「家族に紹介したら面白そう」

 面白そう、という言葉に不安しか感じられない。 ニヤと笑う及川は、恐らく港をからかっている。

「私の方は、及川の家族にどう思われるか分かったものじゃないよ」
「そう?」
「そうだよ」

 自分は特別美人というわけでもないし、才能があるわけでも、女として何か優れている部分があるわけでも無い。胸を張ってアピールできることなんて、体力がある事や力が強い事である。これを面と向かってアピールする息子の彼女に、果たして息子の家族は好印象を抱くだろうか。

「私がもうちょっと女らしくなったら紹介して」
「何百年先だよ」

 ハッと鼻で笑う及川を睨むと、及川は「ほらね」と言いながら肩を竦めた。言い返す事ができず、ぐっと黙り込んだ港を尻目に、及川は肩にかけたカバンを下ろし、中からDVDを取り出した。

「ほら、この前見られなかった映画見るんでしょ?」

 ハイ、と言って及川は港に持参したDVDを差し出す。及川の発言が原因で港は複雑な心境であるというのに、翻弄している本人は至極楽しそうである。これくらいの余裕が自分にもあればとは思うが、恐らくそんな時は一生来ないのだろう。この男を相手にすれば、尚更である。

「なーに辛気くさい顔してるの」
「……生まれつきだよ」
「ならしょうがないね」

 港が何を考えていたかなんて分かっているくせに、にっこりと笑う及川は本当に性格が悪い。及川は港の心を刺すのが上手い。それは港が何を考えているが分かっているが故に、できる芸当である。そして同時に、掌握する事も容易なのだ。

「俺は、笑ってるお前の方が好きだけどなぁ」

 そうサラリと口にした及川は、ムスリとした様子の港の鼻をおもむろに摘んだ。港のご機嫌をとるために、適当な事を言っているのは分かった。同時にからかって楽しんでいるのだということも、鼻を摘んで来た事でなんとなく察した。しかし、分かってはいても動揺をしてしまうもので、それを見抜いた及川は勝ちを確信してニヤリと笑う。

「ドキっとした?」
「してない」
「本当に?」
「適当な事言ってるだけでしょ」
「変な声」
「……それは及川が鼻摘んでるからだよ」

 港が抗議の眼差しを送ると、及川はそこでやっと鼻を摘んでいた手を離した。実に愉快、といった表情のままスイと身を屈め、及川はむっつりとした港の顔を覗き込む。お互いの顔と顔の距離が縮まり、港はぐっと唇を引き締めた。これでは意識してしまう、なんて焦っている時点で、港の敗北は確定する。

「素直じゃないなぁ」 

 言いながら、及川はスッと目を伏せ、港の腰に腕を回して軽く引き寄せる。それに対して「及川も大概でしょ」なんて可愛げのない事を口走った港ではあるが、体は及川に委ねたまま抵抗はしない。及川は観察力、洞察力共に非常に優れている。だからこそ、港の分かりにくいデレというものを察して、ゆるりと顔を近づける。嫌じゃない。むしろ好きなのだと、港も及川と距離を詰める事に合わせて目を閉じる。そして及川の身長に合わせようと踵を上げる自身の行動は、及川に素直じゃないと言われても仕方が無い。
 久しぶりの触れ合い、体温に浮かされるままに柔らかい感触に想いを馳せ、唇同士が触れる寸前。唐突に港の部屋のドアがノックされ、二人は慌てて距離をとるように飛び退いた。二人の世界に入りきっていたからだろうか、ここが自分の家で、同じ屋根の下に家族がいるという事を失念していた。先程のドキドキとはまた違った意味で、心臓がうるさい。そして、数度のノックの後に部屋に入って来たのは、お茶とお菓子をお盆に乗せて持って来てくれた兄だった。ニヤニヤに近いニコニコとした笑みを浮かべながら茶菓子を港の部屋のテーブルに置き「ごゆっくり」と言って颯爽と立ち去っていった。港と及川の微妙な距離感に気付いているのか、それとも先程二人が何をしようとしていたのかを察しているのか。妙に気の利いた様子で部屋から出て行った兄ではあるが、部屋にやって来たタイミングは最悪である。そんな兄を見送り呆然としている港をよそに、及川は気恥ずかしそうに首裏を掻いた。
 思わぬ兄の来襲はあったものの、二人は当初の予定通り、DVDの鑑賞をはじめた。及川が持って来たDVDは、東京にいる時にレンタルしたものの、時間が無くて見る事無く返却してしまった、話題の邦画である。部屋に二人で入ったばかりの時のような甘い空気が再び漂う事なく、じっと画面に集中したまま茶菓子を摘み、だらだらとした時間を過ごす。「あのおじさん、高校の校長に似てない?」「この衣装着るの重そう」などとかわす会話も、なんというかくだらない。しかし、こういう無駄のありそうなくだらない時間を共有し、それが居心地が良いと思えるのだから不思議だ。チラリ、と港は画面に釘付けになっている及川で横目で確認し、再び画面に視線を向ける。折角二人きりでいるのだから、少しくらいくっついでも良いだろうか。先程のキスもお預けになってしまったし、ちょっとくらい良いよね、そうだよね……などと自分に言い聞かせるくらいには、港は近頃舞い上がっていた。及川と一緒に海に旅行に行った一件以来、港の中で何かのタガが外れたのかもしれない。そしてそれを外したのは、間違いなく隣に座っている男である。心の中でスゥと深呼吸をし、港は気合いを入れてから、座布団の上から少しだけ動いた。このまま及川の方に寄ってから、肩にコトンと頭を預けるのが目標である。妙な緊張感を漂わせる港を他所に、及川はクライマックスを迎えた映画に夢中である。画面の中では、警察官の主人公が犯人を追いつめるために身を隠し、犯人が姿を現すのを待っていた。じゃり、じゃりと画面から響く犯人の足音は、及川に寄り添おうと港が迫っている状況に、奇妙な程マッチしていた。あと少し。いやでも、このタイミングで肩に頭を預けるのはどうだろう。何急に甘えてきてるの? という感じにならないだろうか。今更不安になってきて無駄な事を考えている間に、画面の中ではついに犯人が姿を現した。そしてその犯人を目にした瞬間、及川は「やっぱりなぁ」と口を開いたものだから、港は先程縮めた分だけ距離を取った。先程までの苦労が水の泡である。

「コイツが犯人だと思ったんだよね」
「そ、そう……」

 港が一人意気込んで居た事など露知らず、及川は自身の予測が当たって満足しているらしかった。それに苦笑いを浮かべながら、港が一人で落ち込んでいると、再び部屋のドアがノックされた。先程と言い、今と言い、本当にタイミングが悪い。「はい」とノックに応答し、港はゆっくりと腰を上げてから、部屋のドアを開いた。そこに立っていたのは、母だった。ニコニコとした表情で「急にごめんねぇ」と言う母の手には、何故かお玉が握られている。

「及川君、良かったら今日夕飯食べて行かない?」

 おばさん今日買い過ぎちゃって! なんて言っているが、これは恐らく確信犯である。



 母の買い過ぎ(暫定)により急遽、及川は有馬家で夕飯を食べていくことになった。夕飯時となると父も帰宅し、及川と対面して握手する程喜んでいる様子である。もしかしたら母は、父を及川に会わせたかったのかもしれない。普段は四人しか座らない食卓に、もう一つ椅子が追加され、五人で夕飯を食べるというのはなんだか新鮮である。

「いやぁ……こうやって見るとまるで家族が増えたみたいだね」
「そうねぇ」

 ほのぼのとした様子でそう話す両親ではあるが、まるで遠回しに「結婚したみたいだね」と言われたようで、港は少し気恥ずかしい。そして両親が及川に「これ食べなよ」「あれ食べなよ」と勧めるものだから、及川は対応に忙しそうである。両親が浮かれているのはわかるが、もう少し気を遣って欲しいものである。いい加減及川に話しかけまくるの止めなよ、と港が口を開こうとした瞬間、兄が唐突に口を開いた。

「二人はどういう経緯で付き合い始めたの?」

 先程まで大人しくしていたというのに、兄はよりにもよってそんな質問を口にした。途端にカッと赤くなった港の隣で、及川も不意を打たれて「えっ」と言葉を漏らす。何もこんなところでそんな事を聞かなくても、と抗議すべく港は兄を睨む。危うく箸を折るところだ。しかし、兄の視線は真直ぐ及川に向いており、港が睨んでいる事に気付かないふりを決め込んでいる。そんな恥ずかしい事を、及川も港も公に口にできるはずがない。そう思って「そういう事聞くのやめてよ」と言った港ではあるが、しかし、及川はサラリと言い放った。

「俺が、港さんに付き合って欲しいって言ったんですよ」

 少しだけ照れくさそうにしてそう言う及川に、港を含め、有馬家の人間は呆気にとられる。両親も兄も、恐らく港から告白したものだと思っていたのだろう。何せ及川は見た目も良ければ運動も出来るし、人懐っこくて親しみやすい。どこからどう見ても引く手数多な及川から、まさか港に声をかけたのだとは思わなかったのだろう。小学生時代のあだ名が怪獣、そしてそのたくましさから男の影一つもなかった港に声をかけるだなんて、自分で言っても悲しいがまず奇特である。そしてさり気なく及川の口から吐き出された「港さん」という呼び方に、港はひっそりと息を飲んだ。

「意外……てっきり港から言い寄ったものかと……」
「あはは。どちらかと言うと、俺から言い寄った感じですよ」
「へぇ……何でまた?」

 まだ詮索するつもりなのか、兄は及川に続けて質問する。何だろう、家族の前で二人の馴れ初めのようなものを公にするというのは、居心地が悪く恥ずかしい。及川もきっと恥ずかしいものがあるはずなのに、なぜこんなに平然としているのだろう。これ以上何か話されたら身が持たない、と内心で悲鳴をあげている港をよそに、及川はゆるりと口を開いた。

「実は、二年くらい前まで仲が悪くて、良く喧嘩とかしていたんですよ」
「えっ」
「でも、そのお陰でお互いに遠慮はいらなかったというか……港さんと一緒にいると自然体でいられたんです」

 それで気がついたら、好きになってたんですよ。サラッとそう言いきった及川に、有馬家の人間はポカンとしたまま静止した。まるで彼女とのあれこれを惚気られた、お腹がいっぱいになるような気分であるが、港はその当事者である。あまりの恥ずかしさ、そして背後で揺らめく喜びにどういう反応を示せばいいか分からず、港は味噌汁に口をつけて口元を隠した。そしてやっと我に返った両親は「港には勿体ない言葉だ」と感激し、母に至っては涙目になる始末である。質問を口にした兄といえば、感動のあまり「港をこれからもよろしくお願いします」と食事中にも関わらず深々と頭を下げた。さながら、結婚報告にやってきた男に娘を託すような光景に、港は何も言えずに俯くしか無かった。
 そうして、なんだかんだあった夕食会も無事終わり、母と港が皿洗いをはじめた。及川には暫くリビングで寛いで貰い、その後車で家に送り届ける予定である。しかし、及川は食卓から食器を運んできてから、「手伝います」と名乗り出た。「美味しいご飯をごちそうして貰ったお礼がしたい」と言われた時の、母の口元のニヤけ具合は凄かった。悪い気はしなかったのか、そのまま及川の言葉に甘えて後片付けを手伝って貰うことになり、そうして三人で皿洗いをしていたはずだった。しかし、数分もしない間に台所は妙に静かになり、いつの間にかリビングから両親と兄の姿が無くなっていた。先程まであんなに及川にまとわりついていたというのに、急に静かになったものだから不思議である。それに首を傾げている港に気付いて、及川も濡れた皿を持ったままリビングの方に振り向く。

「……気を遣ってくれたんじゃない?」
「え?」
「わざと俺達を二人きりにしてくれたんだと思うよ」

 クスクスと笑いながら、及川は皿をコーティングしている泡を洗い流した。二人きり、という言葉にドキリとしながら、港はリビングの出入り口であるドアに視線を向ける。普段は家族全員で集まるならばリビングなのだが、ここにいないとなると今どこにいるのだろうか。廊下で聞き耳でもたてているのではないかと疑い、港は一時洗い場を離れてリビングのドアを開けた。そこから見える廊下には人影はなく、耳をすませると二階の方から話し声のようなものが聞こえる。恐らく、三人揃って兄の部屋に集まっているのだろう。リビングとそこに繋がる台所にいるのは、どうやら本当に自分達だけらしい。それに安堵したような、緊張するような複雑な気持ちを抱えながら、港は再び洗い場に戻った。

「……もしかして、盗み聞きされてた?」
「ううん、皆二階にいるみたい」

 しかし、恐らく兄の部屋で話題になっているのは自分達の事だろう。及川をかなり気に入っている家族がどんな事を話しているのか想像をすると頭が痛いが、自身の恋人を笑顔で迎え入れてくれた事は正直嬉しい。及川を門前払いをするような娘の家族の方が、珍しいとは思うが。

「それより、今日はうちの家族がごめんね。質問攻めされて疲れたでしょ」
「あぁ……でも、面白かったよ」

 楽しそうに肩を震わせている及川は、今日の事を改めて思い返したようだった。思い出していくかのようにじわじわと笑いながら、泡の付いた食器を洗う手だけは器用に動かしている。

「お前の家に来ると、俺も家族の一員になれたみたいで楽しいよ」

 家族の一員。そう及川の口から溢れた言葉に、港はふと今の状況を改めて確認する。二人で台所に立ち、皿洗いをしている。この状況はまるで……。そう思い至った瞬間、港は動揺して、水を貯めたシンクにコップを滑らせてしまった。それに気付いて、及川は「何してるんだよ」と言いながら、水に沈んだコップを拾い上げた。そしてそのコップを、港の方に差し出す。

「はい、港さん」

 不意打ちだった。普段そんな風に呼ぶ事など無いくせに、及川は慣れたように口を開く。港の家族の手前、今日及川がそう呼ばざるを得なかったという事は分かっている。そしてそんな呼び方をされ、少なからず浮ついていた港に気付いている発言だった。こう言われたらドキドキとするだろう? と言葉無く指摘されているようだ。そして何より、全く持ってその通りであることが悔しい。無言になり、固まった港の様子に満足したのか、及川は洗い物を続行する。男の人にしては繊細に見える及川の指は、泡を纏って白い陶器の上を滑る。あの指が意外と無骨で、そして恐ろしい程に器用に、滑らかに動く事を港は知っている。

「……徹さん、このお皿もお願い」

 ただの仕返しのつもりだった。相手を動揺させたい、だなんて思惑めいた事など考えるより先に、やられたらやり返すの精神が表に出た。そんな港のその発言に不意を打たれたらしい及川は、動かしていた手をピタリと止めた。その間に港は皿をざっと水で洗い流し、それを及川の方に差し出す。しかし、及川はそれを受け取らず、静止したまま動かない。それを疑問に思った港は顔を上げ、隣に立つ男を見上げて後悔した。

「……うん」

 今更、港の差し出したお皿を受け取った及川は、照れくさそうに視線をそらして頷いた。普段のヘラリとした様子もなく、及川が恥ずかしそうにしている様子を目にした瞬間、港はぶわりと体温を上昇させた。

「な……なんで照れてるの?」
「いや……だって……」

 徹さん、なんてはじめて言われたし……とぼそぼそと言う及川の頬は、少しだけ赤い。何を今更そんなことで照れるのか。それなら港だって、及川に「港さん」と呼ばれてたのは初めてである。

「さっきまで余裕はどうしたの?」
「俺は繊細なの! というか、本当に恥ずかしいから暫くこっち見ないで」
「じ、自分から仕掛けておいて、何それ!」

 どうやらお互いに地雷を踏み抜いたらしい。相手をからかい、翻弄しようとして普段と違う呼び方をしてみたというのに、二人揃って罠に嵌る間抜け様である。そうして、暫くお互い無言のまま黙々と皿洗いに没頭する。気恥ずかしくて二人揃って口も開かないまま、食器が擦れる音と水音だけが台所に響く。ここまで無言になると、気恥ずかしさよりも気まずさが勝り、港はどうしたものかと思考を巡らせる。そしてふと、昼頃に及川とDVDを見ていた時の事を思い出した。一瞬、どうしようかと迷った。しかし、この空気に飲まれてしまえと、港は勢いだけで及川にトンと身を寄せ、頭を肩に預けた。それには流石の及川も驚き、肩をビクつかせたせいで、持っていた食器を取り落としそうになった。水道から水が流れる音だけが、やけに台所に響いている。

「……どうしたんですか、港さん」
「なんでもないです、徹さん」
「嘘つきなよ」

 「甘えるの下手くそだな」と言いながら、及川も港の頭の方に顔を寄せた。本当にその通りだと笑いながら、港はそれでも、及川と恋人らしい事ができて満足である。きっと今、リビングから見た自分たちは、皿洗い中にイチャつくただのカップルである。 

「ねぇ、今日から俺の事、徹さんって呼んでよ」
「恥ずかしいから今日だけだよ」
「……ちぇ」

次は上手に甘えておくれ

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