大学も夏休みに入り、港は長期休暇を利用して宮城の実家に帰ってきていた。兄が駅にまで車で迎えに来てくれたのだが、久しぶりに会った妹に対しての第一声は「及川君とはどう?」だった。妹の現状より、及川との交際の方を気にしている辺りがなんとも複雑である。

「及川君はこっち帰ってこないの?」
「及川は一昨日くらいから帰ってきてるよ」
「そうか〜、会いたいな〜」

 チラチラ、と妹の様子を伺う兄の目は期待に満ちている。その視線に気付いてため息をついた港は、自身の腕に巻いている腕時計に視線を落とした。

「安心してよ、近いうちに家に来るって言ってたから」
「え? マジで? 何々、挨拶?」
「……何か渡したいものがあるらしいよ」

 及川の渡したいもの、が何なのか港は知っているが、当日のお楽しみにとあえて黙っておく事にした。きっと及川が大好きなうちの家族の事だ、大喜びするだろう。先程から妙にそわそわしている兄を尻目に、港は車の中から窓の外を眺める。この地に帰って来るのは、約5ヶ月ぶりだ。景色は五ヶ月前と大して変わらないというのに、なんだかとても懐かしく感じる。

「どうしよう、すげー緊張してきた……スーツとか用意しておいた方がいいか?」
「いらないよ」

 兄も、以前と変わりないようである。



 今夜、高校時代のバレー部の同級生達で、飲み会が開催されることになっていた。久しぶりに高校時代の部活仲間に会えるということで、港はホクホクとしながら待ち合わせ場所に赴いた。今日宮城に帰って来たばかりで多少疲労しているが、こういう時は体力がある方で良かったと思う。

「うわ〜! 港ちゃん久しぶり〜!」
「有馬久しぶり、なんだか雰囲気変わったね」

 早めに訪れた待ち合わせ場所で、港はバレー部の友人と久しぶりの再会を果たした。他のメンバーはまだ集まっておらず、港以外には2人だけしか集まっていない。一人は高校三年の時に同じクラスであったリベロの長谷川、もう一人は及川の幼馴染みの彼女である静香である。大学生になったとあって、高校時代に比べると大人っぽくなった自分たちの雰囲気に浮かれるように、互いに近況を報告しあう。高校を卒業してまだ数ヶ月だというのに、環境がもたらすそれぞれの変化に、港はある種の感動を覚えていた。しかし、そんな浮かれ心地もつかの間の事だった。

「こんばんは〜!」
「何してるの?」

 近況報告に盛り上がっている3人であったが、不意にかけられた声に話を中断し、顔をあげる。三人の傍に寄って来たのは、二人の同年代の男の人だった。既に飲んでいるのか、妙に陽気そうにしており、いかにも酔っぱらいという感じである。服装や雰囲気から遊び慣れている人達だと、なんとなく分かった。

「これからどっか飲みに行くの?」
「……えっ、あ、はい……」
「え〜、どこで飲むの?」

 実はパチンコが当たってお金結構あるんだよね〜。おごるから一緒に飲もうよ。そう言って誘いをかけてくる男二人を眺めて、港は一瞬で勘付いた。もしかしてこれは、紛れも無く、ナンパというやつなのだろうか。ナンパなんてされた事の無い港は、そう思い至った瞬間にガチリと固まる。こういう時はどうすればいいのか、全く分からない。助けを求めるように隣の二人に視線を向けると、両者とも港と同じような表情で静止していた。この場に、この状況で上手く立ち回れる人間がいないと気付いて、港は呆然とする。そう思うのは他の二人も同じらしく、無言で視線だけを合わせて「どうする?」とアイコンタクトを取る。そして先陣をきったのは、静香だった。

「ごめんなさい、他に飲みに行く友達もいるから、一緒には……」
「他の子もいるの? 女の子?」
「え? はい」
「いいじゃん、俺達も混ぜてよ」
「他の子にもさ、俺達が説明するから」

 いいっていいって、気にしないで! と明るく言う男二人ではあるが、こちらが気にするという話である。しかし、こちらが何を言っても、男二人には都合良く取られてしまう。これでは埒が明かないという事で、港はコソリと「タイミングを見て、走って逃げよう」と提案する。失礼かもしれないが、走って逃げれば相手も流石に追いかけてこないだろう。それは流石に……と口にした長谷川ではあったが、他に逃れる案が浮かばないというのも事実だった。そして三人は、申し訳なく思いつつ、早速行動を移すことにした。突然女三人が走り出したものだから、流石の男二人組も驚いたようだった。明らかな拒絶の意思表明。これでもう大丈夫だろう……と三人は思った。しかし、予想外な事に男二人は追いかけてきた。

「嘘、何で追いかけて来るの?」
「わかんない……」

 背後で「ちょっと待ってよ〜」という陽気な声が聞こえる。これで追いつかれたら、いよいよ逃げられなくなってしまう。どうしよう……と走りながら頭をかかえた三人ではあったが、救世主と言うべきか、逃走途中で見覚えのある集団を見つけた。なんと運のいい事に、この集団は青城男子バレー部の同期達である。これから飲みに行くのか、それとももっと前から集まっていたのかは分からない。しかしこれは幸いだと、港達は救世主集団をゴールに見据え、ラストスパートをかける。ぞろぞろと歩いていた男子バレー部一行も、全速力で走って来る港達に気付いて足を止めた。こちらに一番早く気付いた花巻が「何だ?」と首を傾げている姿が確認できる。
 そうして三人は、見かけた顔見知り達の元に逃げ込んだ。
 しかし、ここでそれぞれの性格が現れた。逃走が一番早かった長谷川は松川の背後に回って身を隠し、静香は自身の彼氏である岩泉の元に飛び込んだ。松川は雰囲気で何があったのか察して長谷川の盾になるように立ち、岩泉は当然のように静香を抱きとめ、追いかけて来た男達を睨んだ。そしてそんな岩泉の行動を見ていた及川も、走って来る港に備えて腕を軽く広げたが、港はそれに気付かずに素通りしてしまった。

「……何か用スか」

 岩泉の言葉に、追いかけてきた男達は少しだけ怖じ気づいたようだった。岩泉の表情もさることながら、これだけ図体のでかい男を前にすれば怯えるのも仕方がないことである。相手を威圧するかのように睨みをきかせている岩泉の後方で、及川は微妙な表情のまま立っていた。及川が待ち構えていたという事に気付かなかった港は、素通りした後に及川の隣に戻り、行き場を失っている腕を見て首を傾げた。しかし、前方に立っている静香を軽く抱きとめている岩泉の様子を視界に入れてから、港は及川の微妙な表情の理由にやっと気付いた。

「ご、ごめん……気付かなかった……」
「……お前さぁ」

 花巻が同情した様子で、及川の肩をポンと叩いた。そんな漫才のようなやり取りが後方で行なわれていながらも、岩泉と松川は港達を追いかけてきた男二人を、かっこよく追い払った。

「かなり酔ってんなアイツら……気をつけろよ、静香」
「うん……ありがとう」
「松川君ごめん、とっさに壁にしちゃって」
「別にいいよ、気にしないで」

 後方で微妙な雰囲気に包まれている及川と港を他所に、前方四人の会話は和やかである。
 
「本当にお前は……期待を裏切らないよね」
「いやだって……うん…ごめん……」
「いいよもう謝らないで…惨めになるから……」

 二人の格好のつかない会話を聞き、花巻はひっそりと吹き出した。以前東京の及川の家にお邪魔した時は、予想以上に恋人っぽい二人に動揺していた花巻ではあるが、言う程甘い関係になりきれていない二人に安心感を覚えていた。

「あれ、そういえば及川達はなんでここにいるの?」
「……もしかして、聞いてない?」

 何故ここに……? という港達の疑問を察し、及川達は説明をしてくれた。

「偶然なんだけど、俺達も今日男バレで集まる予定だったんだよ」
「そうなの?」
「おー。で、女バレも集まるって聞いた温田が、どうせなら一緒にやろうつってさ。俺達も急遽ここに集まることになったんだよ」
「成る程…」

 どうせなら大人数の方がいいだろ!と言いそうな温田の事だ。
 安易に想像のつく流れに港達女性陣も納得する。
 しかし、この場には肝心の温田の姿は見られない。
 それについて尋ねると、温田本人はこの飲み会開始時間から少し遅れての参加になるらしい。
 温田は女バレに話は通しておいたって言ってたんだけどな……という岩泉の言葉を聞き、静香はカバンにしまっていた携帯を取り出した。そして「あ」と言葉を零し、携帯の連絡画面を港達に見せてくれた。メッセージが届いたのはつい先程。「今日男子バレー部と一緒に飲み会することになった」という女バレ主将からの簡潔な一文が表示されていた。



 なんだかんだありつつも、メンバーも揃い、男女バレー部一行は予約していた店に入った。元々女子会をするために予約していたお店とあって、店内はアンティーク調の洒落た雰囲気で落ち着いている。まるで合コンでもするかのように、座る場所はくじ引きで決めることになった。

「げ、隣お前かよ……」
「そんな事言わないでよ〜岩ちゃん」

 こんなところまで妙な縁があるのか、及川と岩泉は隣同士で奥の方の席に腰掛けた。そしてその正面に花巻が座り、ニヤニヤとしながら「栗原さんじゃなくてごめんな〜はじめ君」とからかっている。奥の席の方に男性陣が固まる傾向はあったものの、それなりに男女バラけて席に着くことになった。港の席は、及川とは離れた通路に一番近い場所である。正面に静香が座り、隣には松川がのそりと腰掛けた。松川が隣に座っているというのは、港にとってはなんだか新鮮な状況である。普通に話しはするが、そんなに親しく世間話などしたことがなかったように思う。一体どんな話を振ればいいんだろう……と一瞬悩んだ港ではあったが、松川はそうでもないようで、ゆるりと顔をこちらに向けた。

「今日、俺達も一緒で大丈夫だった? 女子は女子同士で積もる話もあるでしょ」
「……それは男子もじゃない?」
「いや、俺達は昼から遊んでたからさ」

 積もる話はもうない、と言った様子の松川は、運ばれてきていた前菜を摘んだ。
 そういえば、港が及川達と遭遇していた時には男子バレー部のメンバーは既に揃っていたように思う。
 あれはそういう事だったのか…と一人で勝手に納得していると、松川はさりげなく、近況はどうなのかと尋ねてきた。
 大学生活はどうか、バレーは続けているのか、バイト等はしているのか、近場に座った面々がそれぞれの近況を報告しあい、会話は思っていたよりも弾む。それぞれの話を聞いていると、バレーボールを続けている人間は随分と少ないようだった。皆それぞれの事情があり、バレーをしたいのに続けられていられなかったり、別に打ち込んでみたいものがあったりとさまざまである。そういう港も大学のバレー部には所属しておらず、たまに開催される大学の球技大会に参加してみたり、及川の練習に付き合ってみたりする時くらいしかボールに触れていない。高校時代の青春を捧げたと言っても良い程に打ち込んだバレーだというのに、大学進学という環境の変化をきっかけに、随分と距離ができてしまったように思う。それを寂しく思いながら、港がオレンジジュースを飲んでいると、松川が「聞きたいんだけど……」とおもむろに口を開いた。

「及川とはどうなの?」
「ゴホッ!」

 恐らく聞かれるだろうとは思ってはいたが、すっかりとそんな事が抜け落ちたタイミングで尋ねられ、港は不意を打たれた。あやうくオレンジジュースを吹き出しそうになったものだから、斜め向かいに座っていた温田が楽しそうにニヤニヤとしている。及川の座る席からは正反対の場所に座っていた事が災いし、港の周りに座る人間が興味津々とばかりに身を乗り出す。あまりに注目されたものだから、港は居心地悪く、自身の取り皿に視線を落とした。

「……私より、静香に岩泉との事聞きなよ」
「岩泉からは、惚気話よく聞くからいいんだよ」

 松川の何気ない言葉に、静香は「えっ」と声を上げ、みるみる赤くなっていく。あまりにもさり気なく、岩泉が松川に惚気ているという事実を知る事になり、静香は箸で摘んでいたミニトマトを皿に落とした。

「及川は東京にいるし、あんまり話聞く事ないからさ。で、どうなの?」
「どう……と言われても……」

 及川とどんな感じなのか。そう聞かれて港の脳裏に過るのは、2週間程前に海に旅行に行った時の事である。その中で特に印象が強く残っているのは、当然というべきか、仕方が無いというべきか、初めて体を重ねた事である。人生の中で、あれ程までに及川に全てを晒し、甘え、そして愛してもらった事は無い。それを思い出したせいか、正面に座る静香と同じように、港もみるみる紅潮していく。それを目にした松川や温田は、一瞬固まった後に「へぇ」と感心したような声を上げた。

「ラブラブなんだ」
「ち、ちが……」
「違うの?」

 港の脳裏に、熱い息を吐きながら「可愛い」と囁く及川が過った。そしてそんな及川の首に腕を回し、もっと言って欲しいと言葉無くねだったあの時の自分の行動も、芋づる式に思い出してしまった。

「…………」
「凄く顔赤いけど、酔った?」

 港がソフトドリンクしか飲んでいない事を知っていながら、松川は真顔でそんな事を聞いてくる。分かっていてやっているな、と普段は鈍い港でさえも分かった。「及川と有馬さんって、普段どんな感じで恋人っぽいことしてるのか想像つかなかったけど、成る程ね」とマイペースに呟いた松川は、視線だけを奥の方に向けた。奥の席では、及川と岩泉の二人が普通に会話をしている姿が確認出来る。まさかこんなところで、港が尋問を受けているなどとか、及川は夢にも思わないだろう。

「及川もさ」
「えっ?」
「なんだかんだ、有馬さんとの惚気話してたよ」

 松川一静という男は、存外意地の悪い人なのだと、港は今になって思い知った。先程、岩泉からは惚気話を聞いたことがあるから、普段聞かない及川の話が聞きたいと言ったのはこの男だ。てっきり及川からは何も聞いていないものだと思っていたのに、とんだ詐欺である。そして松川の標的が港に向いているというのを良い事に、静香も興味津々とばかりにこちらの話を聞いているようだった。先程取り落としていたミニトマトは、既に皿の上からなくなっていた。
 「それでさ……」と尚も話を続けるつもりの松川に、港はついに羞恥の限界を迎えた。高校時代を知る男に、及川との事を詮索される、このいたたまれなさは何だろう。ちょっとお手洗いに行って来る、と適当な理由をつけて席を立った港は、動揺していたせいで通路に出て早々に床のタイルに躓いた。反射神経だけは良く、転びはしなかったものの、丁度港の正面から歩いてきていた男性客にぶつかってしまった。

「すっ、すみません!」
「いえ、大丈夫ですか?」

 転んでいないわりに大きな声をあげてしまい、周囲の視線が少しだけ集まった。申し訳なさと恥ずかしさ、先程から引きずっている余裕の無さもあり、港の対応は鈍臭い。ぶつかってしまった男の人は気さくそうな人で、ぶつかった港を軽く抱きとめ、笑って港の事を許してくれた。それをありがたく思いながら、港は自分がトイレに向かっているという本来の目的を一瞬忘れてしまった。松川からの質問に耐えきれず、逃げ出す為の理由づけのためのものでしかなかったというのもあるが、港はそのまま数秒その場に立ち尽くした。それに首を傾げた男性客ではあったが、港の姿をまじまじと確認してから、何かを思い出したかのように「あれ」と声を漏らした。

「もしかして……怪獣?」
「え?」

 港もここで、ぶつかってしまった男の人の顔を確認し、ひっかかりのようなものを覚える。この顔は、どこかで見たことがある気がする。そして彼が口にした「怪獣」という懐かし過ぎるワードを聞き、港は小学生時代の事を思い出した。小学校六年生の時、確か何回か隣の席になった事のある……なんだったっけ?

「今野だよ、今野」
「……あっ、コンちゃん?」
「そうそう、コンちゃん」

 懐かしいなぁ、と言って笑う彼は、小学生の時は運動神経抜群で、女子からは随分と人気があった。彼の隣の席になった時は友達に羨ましがられたような気がする。そんな彼と会うのは実に六年振りくらいになるのだろうが、昔の面影を残したまま、随分と男の人らしく成長していた。あまりの懐かしさに、二人は暫く話に花を咲かせる。今は何をしているのか、同じクラスだったアイツは今どうしてる……などと話し込むこと数分。不意に今野のポケットからバイブ音が響き、彼は慌ててポケットから携帯を引き抜いた。そして表示された画面を確認してから「やべっ」と声を漏らす。何やら、急ぎでこの店を出なければいけなくなったらしい。

「じゃあな、怪獣! いつか飲みに行こうぜ」

 去り際、ニシとからかい気味に笑う彼の笑顔は、まるで子供のような爽やかさがあった。「怪獣」と小学生時代の蔑称を言われても特に何も思わないのは、今野に毒気がないからなのかもしれない。そして同時に、港はふと及川の事を思い出した。
 二週間前。海に旅行に行った帰りの別れ際、及川は「じゃあね、アマゾネス」ととても彼女に向かって吐く言葉とは思えない発言を、別れの言葉として港に投げた。きっと第三者が聞いていれば、女の子にそのあだ名は失礼なのでは……と眉をひそめることだろう。しかし、港は及川にそう呼ばれるのは、正直に言うと嫌ではない。高校時代は憎まれ口に近かったそのあだ名も、付き合っていくうちに、その言葉が孕む意味合いが変わっていく。及川は気付いているだろうか。柔らかく、穏やかな口調でそう呼ぶあの男の表情は、まるで甘い口説き文句を吐く人間のそれだ。ここだけの話ではあるが、マイハニーとでも呼ばれている気分である。及川にはこんな事、とても言えたものではないけれど。きっとそのせいもあるのだろう。怪獣だなんて呼ばれても、何だか嫌な風には思わなかった。
 そうして今野と別れ、当初の目的をついに忘れてしまった港は、お手洗いに行く事なく自分の席に戻った。港と今野の一部始終を見ていたらしい松川達に詳細を聞かれ、その時に自分がトイレに行っていない事を思い出す始末である。もしかして及川にも、先程のやり取りが見られていたのだろうか。そう思いながら、港はそろりと及川の座る奥の席に視線だけを向ける。及川は相変らず、岩泉達と談笑していて、こちらを気にしている様子はない。それに安堵しつつ、港はお手洗いに行っていないという事実から目を背け、松川達からの質問攻めを甘んじて受けた。



 バレー部の同窓会と言っても過言ではない飲み会は、案外早い時間でお開きということになった。駅前でメンバーと別れ、帰路につこうとした港は、視界の端で彼女と帰っていく岩泉をとらえる。きっと彼女を家まで送って行くのだろう。あの二人も相変らず仲が良いなぁ……などと眺めていると、港の頭上に何かが乗った。固く冷たいこの感触は、缶ジュースか何かではないだろうか。

「家まで送ってあげようか?」

 ニヤリ、と笑いながら偉そうにこちらを見下ろす及川の態度は、相変らずだ。その手に握られているのは、予想通りキンキンに冷えた缶ジュースである。

「及川の家から遠回りになるから、いいよ」
「……気遣いは嬉しいんだけどさ、そこは素直に甘えときなよ」

 ハァ、とため息をついた及川は、缶ジュースを港に渡してから、さっさと歩き始めた。そんな及川のもう片方の手にも、同じ缶ジュースが握られている。方向的に港の家のある方、肝心の港を置いて歩き出すのが及川らしい。その後ろ姿を慌てて追いかけた港の足取りは、誤摩化しようがないくらいに弾んでいた。

「飲み会楽しかったね、なんだか凄く懐かしいというか。まだ卒業して、数ヶ月なのに……」
「そうだね……。俺達今は東京に住んでるし、余計にそう思うのかも」

 今日はどんな話をしたか、お互いに報告するように帰路につく。高校の時のクラスメイトは今なにをしている、なんとあの人結婚したらしい、等と話す内容は先程の飲み会の時とほぼ変わりない。しかし、宮城を離れていた分、二人は周りの級友達よりも知る事は多かった。たった数ヶ月、されど数ヶ月。これだけの期間でこんなにも知らない事が増えるのかと思うと同時に、港は及川と同じように上京して良かったとひっそりと安堵した。

「そういえばさ」
「うん」
「今日お前が抱きついてた男、誰?」

 あまりにも自然な流れでそう言われ、港はさらりと、今日再会した小学生時代の友達の名前を口にしようとした。しかし、少しだけ刺の含まれた「お前が抱きついてた男」という言葉に気づき、港は足を止める。

「抱きついてないよ、私が躓いてぶつかっちゃっただけで……。というか、見てたの?」
「お前が間抜けに転ぶところを偶然、ね」

 フン、と鼻を鳴らした及川は、港が故意にそうなったわけではないと分かっているようだった。もしかして、怒っているのだろうか。確かに、事故でも及川が誰か女の人と抱き合ってしまうのは、港も良い思いはしない。これ以上なんと弁解したものか、と港が考えていると、数メートル先まで歩き進んでいた及川は、立ち止まっている港の方に振り向いた。

「で、誰?」
「小学生時代のクラスメイトだよ」
「……そう」

 ふーん、と感情の読めない顔をする及川は、ポケットに手を突っ込んで軽く首を傾げた。もしかして、疑われているのだろうか。港の異性交遊の少なさなんて、及川が一番知っているはずなのに。そう思い至った瞬間、港は心の内でハッとした。及川は恐らく、港の事を疑っているわけではない。別の理由、それはもしかしなくても、ヤキモチというものなのではないだろうか。港もたまに、女の人に声をかけられる及川に対して抱いてしまう、わりと身近な感情。港と同じように、及川も妬いてくれるのだろうか。港がヤキモチを妬いた時、及川はいつもどうしてくれるだろうか。

「何も変な事は無いよ。懐かしかったから、少し話してただけだし」
「……」
「なぁに、及川君ヤキモチ?」

 ふざけた態度で煽ってくるふりをして、港の思考を逸らしてくれる及川の真似事だった。こう言えば、及川も腹が立って別の事に意識が向かうのではないか。嫌な思いをせずにすむのではないか。そう思っての港の行動はしかし、予想外の反撃をくらう。

「そうだよ」

 あまりにも真直ぐな言葉に、港は息を詰めた。相手の思考を逸らそうと思って及川をわざと煽るような発言をしてみたくせに、港の方が足下を掬われる。まさか素直に認めるような事を言われるとは思わず、港はこの後どうするべきなのか分からなくなってしまった。敵わない。心の内で敗北だけを噛み締めた瞬間、及川はゆるりとポケットから手を抜いた。
 
「お前は、誰の彼女だよ」

 言ってみろ、と言外に匂わす及川は、ゆるりと両腕を広げた。それに目を見開いた港の脳裏に、飲み会前に港達がナンパから逃げていた時の出来事が過る。お酒はまだ飲める歳ではない。飲んですらいない。しかし、この時の港は間違いなく酔っていた。音も無く足を踏み出し、港は数メートル先に立っている及川の胸に飛び込んだ。まるでドラマのワンシーンみたいだと心の内で笑いながら、港は及川にぴたりと身を寄せる。そんな港を、及川は優しく抱きとめた。

「……最初からそうしてればいいんだよ」

 あーむかつく、と言いながら、及川は片手に持ったままになっていた冷たい缶を港の首筋にあてた。突然のひやりとした感覚に港が飛び上がると、及川は少しだけ笑って、より自身にしがみついてきた港の頭に頬を寄せた。

モチはモチ屋で妬けばいい

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