塩の味がしそうだと、及川は言った。
 港の胸元を隠すための水着の結び目、それを及川が指で遊ばせているのは、気配で分かった。このやり取りで、港は及川も同じ事を考えているのだと確信した。背中に回された結び目は、ただ一回結わえた後にリボン結びをしただけの危ういものではあるが、水着の素材感から簡単に解けるものでは無い。だからこそ、解ける事などないだろうと及川にぴたりと抱きついていたのだが、しかし。及川はあろう事か、港の水着の紐をスルリと解いてしまった。頭上から落ちた「あ」という言葉と共に胸元の締め付けが無くなった事に、港は頭が真っ白になった。そして胸を隠す布が緩んだせいで露出しそうになった肌を隠すように、港は咄嗟に及川に更にしがみついた。

「ちょっと、何してるの及川……!」
「ごっ、ごめん!」

 やはり誤ってのことなのか、及川は慌てて解けた紐を掴み、それを再度結び直した。
 しかし、及川が慌てて結び直したために、港の胸元の水着の締め付けは緩く、心元ない。

「少し緩いかも……」
「えっ……?」

 顔は見えないものの、及川の声色は明らかに動揺しているものだった。まさか注文をつけられると思わなかったのだろうが、港も港でこんな状況に陥るとも思わなかった。しかし、先程よりは水着も自身の肌にくっついているので、この後は自身でも結び直せそうである。ここでやっと港は及川から離れ、背中に腕を回して水着の紐を結び直そうとした。しかし、大きめのリボンに指をひっかけ、それをスルリと再度解いたタイミングで、不意に及川に腰から引き寄せられた。

「待ちなよ」

 及川の肩口に顔面から突っ込んだ港の耳元で、及川は文句ありげな声で呟く。

「お前何考えてるの、馬鹿じゃないの?」
「は、何が……」

 再び水着の紐が解けたことにより、またもや胸元が緩くなってしまった港は、若干赤くなりながら抗議する。及川に見られていないだろうか、とハラハラしながら、再び控えめにしがみついた。
 
「目の前でそんな事される俺の気持ち考えてよ」
「…こんな事になってる私の気持ちも考えて欲しいんだけど」
「だからごめんって」

 あーもう、と自棄気味な声を出してから、及川は再度港の背に手をやり、解けた水着の紐を掴んだ。

「…俺が結ぶから、キツかったら言って」
「えっ…」

 結局、及川が結んでくれるらしい。先程の及川の発言で、自分が及川の目の前で水着の紐を解き、それを結び直そうとした行動の軽率さに気恥ずかしくなった。これには及川も文句を言うかもしれない、と申し訳なくなったものの、及川が結んでくれるというこの状況も中々である。なんだかとてつもなく、いやらしい事をしている気分だ。

「これくらい?」
「……もうちょっとキツく」
「……こう?」
「……うん、それくらい、かも……」

 港の言葉に反応し、及川は解けた水着の紐を結び直した。今度はしっかりと綺麗なリボンを作り、及川は脱力するかのように、港の頭に頬を寄せた。

「あーもう、こんなところで何やってるんだか」
「本当にね」

 誰かに見られていたらどうしよう、と冷や冷やとしながら、港は及川越しに向こう側を見渡す。遠目に人の姿は見えるものの、こちらに気付いている人はいないようで、港はひっそりと安堵する。
 そうして抱き合う事、十秒程。
 及川は引き寄せていた港の背から、ゆるりと腕を解いた。
 及川と距離をとったはいいが、先程から至近距離にいたため、言う程離れていなかった事に二人して気付く。
 そうして気恥ずかしい空気の中で視線を合わせ、及川はやや目を細めて顔を傾けた。
 顔にかかる影に、ああキスされると理解した港も、ゆっくりと瞼を下ろす。
 しかし、触れ合うまであと数センチというところで、及川は動きを止めた。

「……ホテルに帰ろっか」

 どうやらキスはお預けらしい。ここまでしておいて何故止めたのか、と不満を過らせた港ではあったが、及川のなんとも言えぬ表情を見てハッとする。視線を逸らしている及川を見上げながら、来るところまで来てしまったのだと、港は察してしまった。



 ホテルに戻った二人は、預けていた荷物を受け取り、宿泊する部屋に入った。普段通りを装ってはいるが、港の心臓は先程から忙しなく、口から内蔵を吐き出してしまいそうである。畳にベッドが並ぶ、和と洋の要素を組み合わせた部屋の中、二人は妙に落ち着かない。二つ並ぶベッドを目の前に「どちらがどちらのベッドを使うか」などと言ってジャンケンをしてみたものの、脳裏に張り付いた「どうせ一緒のベッドで寝るのでは」という思考は拭いきれなかった。そうしてこの後どうするか相談し、部屋で夕飯を済ませてから、お風呂へ入ろうという話になった。ホテルのスタッフに連絡し、夕食を運んで貰ってから、のんびりと食べ始めた時には、二人の調子は普段通りのものに戻っていた。「そのお刺身が欲しい」「じゃあその天ぷら頂戴」などとお互いに気に入った料理を交換しつつ、食事も進めば会話も進む。まるで海であった、ピンと張りつめた際どい出来事など忘れ返る程の和やかさで、二人は食事を終えた。その後まったりとテレビを見てから、時間も丁度良い、という事で風呂へ入る段取りとなる。 部屋には備え付けのバスルームがあるものの、折角なので、二人はこの宿の目玉である大浴場に行くことにした。まさか一緒に風呂に入ろうなどと、この時の二人は思い付きもしない。そうしてタオルや着替えを抱え、大浴場の前にやって来た二人は、そのまま男湯と女湯で別れ、風呂から上がったら売店前のスペースで落ち合うことになった。
 湯船に浸かり、湯船から望む海という素晴らしい景色が広がっているにも関わらず、港は一人別の事を考えていた。どうしよう。お風呂に入っているのとは違う意味で、港は汗をだらだらと流す。この後部屋に戻って暫くすれば、寝るには丁度良い頃合いである。やはり今日、及川と同じベッドに沈むような事になってしまうのだろうかと、期待なのか不安なのかどっち付かずの感情に支配される。海で抱き合ったあの時、港は「及川にならいい」と思ってしまった。「抱かれたい」と思ってしまった。しかし、あの時に腹は括っていたはずなのに、いざその時が近づいて来ると怖じ気づいてしまう。及川が港の背中を這う手は、間違いなく港の肌の感触を楽しむようなものだった。普段の及川からはあまり、下心だとかそういう厭らしい雰囲気が感じられなかったものだから、港には相当に衝撃的だった。及川は、自分に触れたいと思うのだろうか。その答えは、YESだっだ。
 ああ、もう! こうなれば、女は度胸というものである。そう言い聞かせてから、港は勢い良く湯から上がり、再度体を洗い直した。これから及川に見られることを考えると、何度体を洗っても心元ない。自分の裸を見て、及川に幻滅されたくない。お風呂から出たらボディークリームも塗り込んで、それからそれから……と煮え立つように考え込む。そんな事を考えていたせいか、顔が真っ赤になっていたようで、港の隣で体を洗っていた老婦人に心配されてしまった。
 温泉から上がり、様々な準備を整えた港は、手荷物を持って女湯の暖簾をくぐった。突き当たりを曲がり、開けた広いスペースには待ち合い用の椅子が置いてあり、視線の少し先には売店もある。港が準備に時間をかけてしまっているので、及川が先に風呂から出ているだろうと、港はきょろきょろと辺りを見回す。あの男の事だ、どこかの旅行客の女性にナンパでもされていないだろうか。少しだけ不安になりながら、どこにいるのだろう、と探し始めて数秒。部屋の隅に置いてある大きいマッサージ椅子に沈み込む及川を見つけ、港は脱力しそうになった。疲れているのか、眠いのか。目を閉じたまま、マッサージ椅子の振動に揺れる及川を見下ろし、港はマッサージチェアの力調整を強める。

「うわっ」

 急にマッサージチェアの力が強くなった事に驚き、及川はビクリと飛び起きた。そうして力調整のつまみに手を乗せている港を見上げ、呆気にとられていた及川は、じとりと目を細める。

「……何やってるの?」
「驚くかと思って」
「驚くからやめてよ」

 全く、とため息をついた及川ではあるが、のんびりとマッサージ椅子に座ったまま、一向に動く気配がない。もうちょっとこの椅子に揺られていたいのか、再度目を閉じた及川に視線を落としてから、港も隣に置かれているマッサージチェアに目を向ける。そうして及川と同じように港もマッサージチェアに座り、電源を入れた。背中で動くローラーが少しだけ痛いような気もするが、成る程、案外居心地が良い。

「やばい、寝そう……」
「ここで寝るのは流石にまずいでしょ」
「だよね……」

 そんな事を言いながら、マッサージチェアの機会音を子守唄にうとうとする事数分。少し離れたところから「あのカップル寝てるのかな?」という、恐らく自分たちのことを指している会話が耳に入った。それに反応したのか、及川がゆるりと起き上がる気配を、港は目を閉じたまま感じ取った。

「そろそろ戻る?」

 どこに? なんて心の内で呟いた港は、うっすらと自分が現実逃避をしている事に気付いた。この後戻る場所は当然、宿泊している自分たちの部屋以外に無い。そんな事は分かっている。しかし、部屋に戻ってから、恐らく待ち構えているだろう事を考えると、港の心臓の鼓動は痛いくらいに早くなるのだ。海での、及川と抱き合ったあの出来事の後、何もないという方がおかしい。及川もそういう風に思っているのだと、あの時はっきりと実感してしまった。そうして考え込み、黙り込んだ港が何を考えているのか、見当がついていたのかもしれない。その思考を汲み取るように、及川は横目で港の様子を伺ってから、力を抜くように穏やかに笑う。

「そういえばさ、ラウンジにいい感じの足湯があるんだよ」
「……足湯?」
「行ってみない?」

 誘いながら、及川はマッサージ椅子の電源を落とし、ゆるりと立ち上がった。普段見慣れない浴衣姿の及川に港がぼんやりと見蕩れている間に、及川は港の座るマッサージチェアの力調整のつまみをさりげなく回した。途端、港の背中にもの凄い衝撃が走り、港は反射で椅子から上半身を起こした。

「お返し」
「……」
「ほら、行くよ」

 お返しと言われてしまっては何も言えない。そうして無言のまま椅子に浅く腰掛けている港の手を掴み、及川は港を立たせるように引き上げる。まるで「現実に戻って来い」と言われたような気がして、港は気恥ずかしさで視線を少しだけ逸らした。
 及川が連れて来てくれたラウンジは、なかなかに雰囲気のあるものだった。まるで縁側のように張り出したスペースの上に、座布団が置いてあり、その先には温かな湯が広がっている。湯の先にはちょっとした日本庭園のような岩や植物があり、風情がある。カップルなどが多く腰掛け、庭の眺めを肴に談笑している中、空いているスペースに港と及川も腰掛ける。自分たちもそのカップルのうちの1組なのだと思うと、港は不思議な高揚感に包まれた。
 
「は〜……あったかい」

 早速湯に足を突っ込んでいる及川は、まるでお風呂に入ったおじさんのような声を出す。そのおっさん臭さに笑いながら、港も浴衣の裾を上げ、ふくらはぎから下を湯の中に入れた。

「及川ってさ、お風呂に入って『ああ〜』とか言っちゃうタイプでしょ」
「たまにね」

 まるで毎回はこんな事を言わない、というアピールをする及川は、話を誤摩化すように足を動かし、湯を蹴り上げた。うっすら緑色に見える透明な湯のしぶきが、ライトアップの光に反射してキラリと輝き、静寂を纏ったまま水面に落ちた。こんな赴きのある場所で、夜にライトアップされた庭を二人で眺めながら、目の前には温泉が広がっているこの景色。なんてロマンチックなのだろう。港はそんな事をぼんやりと考えながら、ふと過去の自分の事を思い出した。そして今の光景と、自身の過去の行動、思考を重ね、ふと思い至る。こんな風に思う事は少なからずあったが、それを及川に伝えるような事はなかった。しかし、二人だけの旅行というはじめての出来事の中、雰囲気のせいか、港はそれを及川に言いたくなった。

「……及川」
「何」

 ばしゃり、と今度は港が湯を蹴り、しぶきを飛ばす。まるで場の空気を持たせるように少し落ち着かなくなった港は、そのままザブザブと足を揺らす。

「ちょっとした、昔話みたいなものなんだけど」
「うん」
「私、小学生の時から運動とか力仕事が得意だったんだ。それに昔は乱暴で、男子からは『怪獣』なんてあだ名で呼ばれてた」
「今も乱暴じゃん」

 乙女の気分で昔話をしている港にすかさず茶々を入れる及川の背中を、港は乙女チックにバシンと叩いた。気持ち的には彼氏の背中を愛情込めて叩く彼女ではあるが、叩かれた及川の背からは思いの外鈍い音が響いた。「いった!」と声を上げる及川を無視して、港は再び自分の世界に浸る。

「怪獣、ってあだ名はあんまり好きじゃなかった」
「……普通そうだろうね」
「でも…怪獣って呼ばれるけど、男の子に構って貰えるのは嬉しかったんだ」

 港のボソリと落とした言葉を聞き、及川は少しだけ静止した後、港の方にゆるりと視線を向けた。

「小学生って言っても、やっぱり学年が上がってくると好きな人とかできるじゃない? それで下駄箱にラブレターを入れたり、告白したりとかそういうのもあったりしてさ」
「……まぁね」
「そういうのって、やっぱり女の子らしくて可愛い子とか、凄く喋りやすくて元気な女の子が男の子からモテるでしょ。間違っても、怪獣とか言われる女がモテるわけないし」
「……」
「だから、男の子に怪獣って呼ばれても、そうやって構って貰えるのなら悪く無いと思ってた。…今になって思うけど、正直憧れてたんだと思う。恋とかそういうのに、私も」

 男の子と喋っていれば、いつか素敵な恋に発展するのではないか、という期待があった。しかし怪獣には、とても縁の無い事だった。だからこそ、憧れはしたが、己の性格的にそれを表に出すのは恥ずかしくて出来なかった。あいつ怪獣のくせに恋愛したいらしいぜ、なんて言われてしまったら、傷ついてしまう。過去の自身の事をはっきりと覚えているわけではない。しかし、今になって思い返すときっとそうなのだろうと、推測できる。様々な経験をしたおかげなのだろうが、こうやって過去を振り返る事ができるのは、恐らく隣にいる男のおかげである。

「中学生の頃は、私も少し落ち着いたから怪獣って呼ばれる事は無くなったけど、やっぱりモテはしなかったなぁ」
「そんなにモテたかったの?」
「モテたいというか……彼氏に憧れてた」
「……成る程」

 及川には、港の発言に心当たりがあった。まさしく、及川と付き合うという事を決めた港の心境がこれだった。及川と付き合ってみたいなどと、考えつきもしなかった当時。「付き合ってみる?」なんて声をかけられ、港が及川と付き合いはじめたのは、彼氏への憧れだった。それを及川に指摘されたのは、付き合い始めてすぐの事だった。彼女らしくなりたいんだったらまず、彼氏の事を好きになる努力をしたら?なんて事も及川に指摘された。その時の港は良く分かっていなかったが、今にして思えば理解できる。及川の事は、嫌いではなかった。しかし、及川という存在を意識し、良いところも悪い所も、新しい発見をしていくうちに、一緒に過ごしているうちに楽しくなって、そうして好きという感情に至った。彼女らしくなるというのは、相手の事を思いやるようになる事なのだと、港は知った。

「こういう所に……好きな人と来るの、憧れてたんだ」

 好きな人、と港が口にした時、及川が微かに揺れた。

「だから、叶えてくれてありがとう、及川」

 好きな人と想いを通じ合わせ、素敵な場所へデートへ行くのが夢だった。しかし、なんだかこうやって改まってお礼を述べるは、どうなのだろう。普段の自分らしくないとは思うが、何せこの旅行自体が普段の自分達らしくない。ただの喧嘩仲間から恋人なったが、こうして二人の間に甘やかな空気が横たわる事が日常ではない、今という関係。なんだか気恥ずかしく、むずむずとしてしまうのは、こんな雰囲気に慣れていないせいだ。

「どういたしまして」

 及川の穏やかな声が、頭上から降ってきた。酷く楽しそうな様子が伺える口調に、及川が笑っているのが表情を見なくても分かった。羞恥で顔を上げられない港に気付いていて、及川は港の頭に手を乗せ、ポンポンと叩く。

「お前さ、随分女の子っぽくなったよね」
「……本当?」
「うん」
「……からかってない?」
「ちょっとからかってる」

 おずおずと顔を上げたばかりの港ではあったが、見上げた先にある及川の意地悪そうな表情に虚を突かれる。女の子っぽくなったと言われて嬉しかったのに、及川のこの突き離すような発言に、港の口元は微妙に引きつる。

「そういう、すぐに信じちゃうところ、可愛いと思うよ」
「……それもからかってるの?」
「さぁ、どっちかな」
「……」

 随分と楽しそうにしている及川をじとりと睨んでみたが、及川がそれに動揺するはずもない。愉快愉快、とばかりに一人でクスクスと笑っている及川の振動で、足を浸けた水面も一緒にちゃぷちゃぷと揺れる。そうして笑いが収まったらしい及川は、口元を緩めたまま腕を伸ばし、港の頬を柔く摘んだ。どうやら「こちらを向け」という及川の意思の現れらしいが、頬を摘むのはどうなのだろう。もっと頬に手を添えるとか、優しい所作で振り向かせてほしいというのが本音である。好きな子に意地悪をする小学生か、と心の中で呟いてから、港はその意味を深く考えて、一人で勝手に赤くなる。

「女の子って、恋をすると変わるって言うでしょ?」

 赤くなっている港を視界に捕えながら、及川はあえてそれを指摘しなかった。

「だから、お前がそういう風になるのは、俺のおかげってことだよね」
「……認めたく無いけど」
「ここは素直に認めるところでしょ、ほんと、可愛くない」

 先程から矛盾している事ばかり言う及川に、港呆れたように隣の男を見上げる。からかっていると言ったと思えばからかっていないと言ったり、可愛いと言ったと思えば可愛く無いと言ってみたり、及川も忙しい男である。

「アマノジャク」
「……でも、俺がどう言いたいのか分かってるんでしょ、アマゾネスさん」

 クツクツと肩を震わせてから、及川は自身の膝に肩肘をついてから、港の表情を伺うように見上げる。その表情は酷く穏やかで優しく、どこか包み込むような慈愛に満ちており、港はドキリと胸を高鳴らせた。

「そろそろ、部屋に戻ろうか」

 もう待てないのだと、言葉無く伝えられた気がした。ちゃぷりと揺れるお湯の音を聞きながら、港は唇を引き締めてから、ゆっくりと頷いた。



 部屋に戻ったら、まずどうすればいいのだろう。そんな直ぐには事に及ばないだろうし、テレビを見てからだとか、少し二人でお茶をしてから、自然とそんなムードになっていくのだろうか。そういえば、今日この時間くらいに面白そうなテレビ番組もあったし、部屋に備え付けてある冷蔵庫には名産品の飲み物があった。そうだ、きっとそういう流れに違いない。そうして勝手に一人で納得し、いざ戦場へ! とばかりに部屋に戻った瞬間、背後から及川に抱きしめられ、港の心臓の時は一瞬静止する。ふわりと鼻孔をくすぐったのは、きっと及川がお風呂で使った石鹸かシャンプーの匂いだ。爽やかな落ち着く匂いに癒されるようで、心臓に悪いこの状況で、港はぎこちなく体を硬直させる。

「何……及川」
「……何って、それ聞く?」

 分かってるんじゃないの?と耳元で囁きながら、及川は楽しそうな様子で、港の頭の上に自身の顎を乗せた。

「恋人同士のスキンシップじゃん」
「……頭付きするよ」
「舌噛んじゃうから、今はやめて」

 ムードを壊すなよ、と文句を言いつつ、及川は背後から港の体に手を滑らせる。腰辺りにある帯の結び目をなぞってから上昇する大きな手は、港の胸の膨らみを包み込み、やんわりとその感触を堪能しはじめる。浴衣越しとは言え、胸を揉まれるなんて初めての事に紅潮し、更にその光景を直視してしまった港は、漂いはじめたムードというものに怖じ気く。

「おいか、どこ触って……」

 振り向き様に及川に抗議した港ではあったが、待ち構えていたといわんばかりの及川に唇と共に呼吸を奪われる。はじめは軽いキスの応酬だったものが、相手を貪るようなものに変わり、同時に何度も何度も胸を触られた。

「柔らかい」

 それは港の唇の事なのか、及川が先程から揉んでいる胸の事なのか。行為の最中に及川が吐き出した言葉を耳にして、そんな事を考えていた港ではあるが、上がった息と共に気分も上昇し、そのまま何も言わずに及川にキスをねだった。背後から抱きしめられている体勢からくるりと振り返り、及川に首を回して唇を重ねる。雰囲気に流されている、というのは自分でも分かった。しかし、この雰囲気に飲まれてしまいたいと思うくらいには、港は及川に心酔している。ぎこちなかったキスも、次第に熱と慣れで噛み合っていく。ぼうっとしていく意識の中で、及川と触れ合う部分だけが異常に熱っぽい。部屋の入り口付近に立ち、お互いにかき抱くように密着し、ひたすらに唇を貪り合う。港の頬を包み、しっかりと顔を固定するように添えられた及川の大きな手にすり寄り、港はうっすらと目を開いた。目の前に広がるのは、当然ながら整った及川の顔である。伏せられた長い睫毛を羨ましく思いながら、息継ぎをするために一旦唇を離す。瞬間、及川も目をやや開いて、至近距離で目が合った。及川との付き合いはそれなりに長いが、こんなに艶っぽいこの男の顔を見たのは初めてだ。過去の自分に散々嫌味を吐き出し、ニヤリと馬鹿にするような笑みばかりを向けていた及川が今、港の目の前でこんな顔をしている。そのあまりの差、ギャップとも言えるものに、港はぞくりとする。

「お前のそんな顔、初めて見た」

 港が考えていた事と同じような発言をする目の前の男が、自分の良く知る及川徹だと思えない。そして港の腰に添えられていた手が、浴衣の帯の結び目に緩やかに滑る。ピッと帯の端を引かれた瞬間、自身の浴衣が緩まり、港は目を見開いた。

「及川、」

 待って、という言葉は唇を塞がれたことで音にはならなかった。更に口内に舌を入れられ、それに意識を奪われている間に、肩から浴衣が滑り落ち、港の曲げた腕辺りにひっかかる。 自身の下着姿を及川に晒すなど、当然ながら初めてである。しかし、見せるにしても明かりを落とした部屋の中でだと思っていた。こんな明るい場所で、裸を見られるのはたまったものではない。その意思を伝えるべく、港は及川の肩をバシバシと叩いた。

「……何」
「明かり消して」
「……」

 既に上半身は下着のみになってしまっている港を見下ろし、及川は何度か瞬きをした後、何故だかクスクスと笑いはじめた。もしかして、こんなヒラヒラふわふわした下着を自分が身につけているのがおかしかっただろうか。そんな不安を過らせた港ではあるが、及川は至極楽しそうに肩を震わせ、港の額に自身の額を擦り合わせた。

「今更でしょ」
「そんな事ないよ。私、見せるの初めてだし……恥ずかしい」
「……あぁ、違うって、そういう意味じゃなくてさ」
「……?」

 首を傾げた港の口元を親指でなぞり、及川は目を細める。

「今の格好の話。下着も水着も、結局隠してるところは一緒じゃない?」
「……まぁ、そうだけど」
「今日なんてさ、俺の目の前で水着の紐解けちゃうし。あの時は本当に、どうしようかと思った」

 言いながら、及川はさり気なく港の背中に腕を回し、そして何の躊躇いもなく下着のホックを外した。一瞬何をされたのか理解できなかった港は、既視感のある胸元の緩みに、ガチリと固まる。海での出来事をなぞるかのような及川の所作。しかし、目の前の及川の表情は、あの時のものとは全く違う。

「もう、結び直さないよ」

 獲物を前にした狡猾な獣のように目をギラつかせた及川に、港はグッと息を飲んだ。食われる。そう本能で感じ取った瞬間、及川は不意に身を屈め、港の膝裏を掬い上げた。そのまま背後に倒れそうになった港の背中に手を回し、そして横抱きにして持ち上げる。慌てて及川の首にしがみつこうとした港ではあったが、自身の下着のホックが外れ、胸元が筒抜けになっていることを思い出し、慌てて胸を腕で隠した。そんな彼女に視線を向け、及川は港の反応を窺う。港と言えば、及川に見られているというあまりの羞恥に頭が回らなくなり、同時に脳裏に過った全く別の事を口にした。

「お……」
「お?」
「……お姫様だっこされたの、初めて」
「……だろうね。何せ、お前の初めての彼氏は俺だし……」

 呆れたように言いかけて、及川は不意に言葉を止める。そして一瞬何かを言おうとして口を開きかけたが、再度口を閉じ、港を抱えたままの体勢で、及川は壁についている照明スイッチに肩を当てた。同時に室内の明かりが落ち、室内は急に真っ暗になる。

「お前のはじめても、俺になるしね」

 先程の言葉の続きをぼそりと呟いて、及川は暗闇の中をズンズンと進んで行き、抱えた港を辿り着いたベッドに下ろした。そしてそのまま港をベッドに押し倒し、港の首筋に顔を埋めてから、及川ははぁと息を吐いた。のしかかる及川の重みと温かさに、港も息をつく。

「俺もさ、昔の話していい?」
「……?」
「昔と言っても、高校3年の夏くらいだったと思うんだけど」
「うん……」
「俺さ、岩ちゃんに相談した事があるんだ」
「……相談?」

 これから一体、何の話が始まるのだろう。首筋にくすぐったさを感じながら、港は暗闇に慣れた目で、自身を組み敷く及川を見上げる。

「俺、彼女とかできてもあんまり長続きしないんだ、何でなんだろう…、って」
「……へぇ」
「そしたら岩ちゃん、面倒くさがって話聞いてくれないんだ。それで適当な事言って、俺の事スルーしようとすんの」
「……」
「でもその時、最後に岩ちゃんが言ったんだ。及川には、有馬みたいな女がお似合いなんじゃねーの、って」

 そう言われた時、正直ありえないと思った。何を好き好んで、あんな仲の悪い女と付き合わなければいけないのか。自分はもっと可愛げがあって、か弱く守ってあげたくなるような女の子が好みである。しかし、続いた岩泉の言い分に及川は少しだけ、ほんの少しだけのひっかかりを覚えてしまった。

「有馬と居る時のお前、割と気楽そうにしてるじゃねーか」

 気楽。まるで意識していなかった事を指摘され、及川は頭を少しだけ殴られたような心地がした。女の子に告白されて、付き合うか付き合わないかの判断基準というものは、相手は可愛いか、いい子か、デートとかしてみたいか、そういうものだった。一緒にいて気が楽だから、という理由で女を選んだ事が無ければ、今までそういう相手に遭遇した事もなかった。まるで寝耳に水、とばかりにポカンとしている及川を置いて、岩泉はその時はさっさと退散して行ってしまった。別に大して気にするような事ではない。そう思っていたはずなのに、及川はふと港と自分の関係について考えてしまった。そして、犬猿の仲であると思っていた港ではあるが、お互いに思った事をストレートに伝え合うせいで、及川は港相手に建前を使わなくて良いという事に気がついた。港を目の前にすると、及川は思っていることをスラスラと口に出す事ができた。言われた港も港で、めそめそと怯える女らしさなどなく、異様なタフさで及川に立ち向かってくる。及川が酷い事を言っても、折れずにそこに立っている女というのは、言われてみれば有馬港が初めてだった。そう意識してしまった瞬間が、全ての終わりであり、始まりだった。それから、妙に港の事を気にしてしまうようになり、自分でも「もしかして」と思いはしたが、それをとても認める気になれず、及川は頭を抱えたらしい。あんな女、別に好きだとかそういうものではない。絶対に認めない。しかし、意識しないようにと意識をすればする程に、港が気になるという袋小路に入っていく。意識しないように努めるのも意識する事と一緒なのだと、自分でも分かっているくせに、それを直視したくなかった。

「……ねぇ、それって私に失礼じゃない?」
「そう?」
「そうだよ。だって、私の事好きだって認めるの、嫌だったんでしょ?」
「そうだけど……お前だって、俺の事好きだって認めるの、嫌だったでしょ」

 及川に指摘され、港はギクリと肩を揺らす。嫌、と言うと語弊がある。ただ認めたく無い、なんだか負けたような気がする。そんな意地の張り合い、ただの一人相撲で暫く悩んだが、結局諦めてしまい、及川事が好きなのだと降伏してしまったのはいつだっただろうか。きっと及川も、港と同じ心境だった。似た者同士、私たちってお似合いなんじゃない? ……なんて。

「でも、認めたらすごく楽になった」
「……うん」
「お前に、付き合おう、って言う事もできたし」
「……」
「前よりもっと、有馬のこと……」

 ベッドの上に投げ出された港の手首を辿り、及川は港の手を握り込んで、シーツにその手を縫い付けた。こちらの様子なんて見えていないはずなのに、器用な男だと思いながら、港は及川の柔らかい髪に頬を寄せた。ドキドキする。心臓を吐き出してしまいそうな程に。しかし、とても居心地が良い。恐ろしい程に魅力的な矛盾を孕んでいるこの状況の中、港は恍惚の息を漏らした。そうして及川は港の剥き出しの首筋に顔を埋めたまま、ドクドクと煩いそこをぺろりと舐めた。それに言葉にならない悲鳴を上げた港の耳元で、及川はぼそりと呟く。

「しょっぱい」
「……嘘、私お風呂でいっぱい体洗ったのに」

 海に入ったものだから、塩水のべたつきが残らないように念入りに体を洗ったつもりだったのに。おかしいなぁ、と首を捻った港の様子に、及川は吹き出す。

「嘘だよ」
「……」
「……ほんと、馬鹿だなぁ」

 馬鹿、なんて言いながら、及川の言葉は酷く優しい。そして港の手を握っていた及川の手が移動し、じわじわと港の体を辿り始める。それに身じろぎする港を逃がさないようにベッドに押しつけ、及川は港の肌を暴いていく。それにわずかな抵抗をしてみる港ではあるが、それはもはや抵抗ではなく、ただの男女の営みの一環でしかない。

「こんなに好きになるなんて、思わなかった」

 最中、及川が熱い息と共に吐き出した言葉を、港はきっと一生忘れる事はない。

「俺の彼女になってくれて、ありがとう」

 今から二人の愛を、確かめようか。

マイスイート

back