約二週間前。及川と海に行こう、と口約束をした次の日。港は旅行までに準備するもの一覧を書き出していた。今回の旅行は、少し遠くの観光地の海に遊びに行き、一泊して帰るというものである。及川とどこかに泊まるだなんて、いつかのキャンプでバイトに行った時以来である。楽しみだな〜とのんびりと考えながら、何気なくベランダに視線を向けた時だった。
 洗濯をして干してある衣類が、風に吹かれてさらりと揺れた。そんな当たり前の光景を視界に入れ、港はふと洗濯物の中にある自身の下着に目を止めた。最近、一緒に遊びに行った友人とショッピングをした際、一緒に入った下着屋で買ったものである。あまり女っぽくない港ではあるが、女心というものか、下着は可愛らしいものが好みである。どうせ見られることはないものだし、自分がレースやリボンなんてヒラヒラしたものを身につけられるのは、これくらいのものである。大学生となり、下着選びの遠慮というものが余計に無くなった港が、自身の持っていないデザインや色の下着をカゴに入れているのを見て、友人は「あら珍しい」とある意味感心していた。可愛いものを好んでいるとばれて少し恥ずかしかったが、友人は笑顔できわどい下着を持って来て「これ着て及川君悩殺しなよ」なんてニヤニヤしながら言っていた。そんな買い物の出来事を思い出した港は、ここでやっとある事に気付いた。旅行で一泊するということは、一晩及川と同じ部屋で過ごす事になるだろう。腐っても及川とは恋人という関係、まさか部屋を別々にとるわけもない。そこで、何もない……と言い切れるだろうか。
 ゴクリ、と港は息を飲んだ。いくら恋愛事には縁遠かった港とは言え、男女の交際がどういうものであるのかはそれなりに知っている。友人から聞いた話、テレビや雑誌から得た知識、など情報源はさまざまだ。その情報に共通して言えることは、ホテルに泊まると言うだけで、カップルが何をするかは暗黙の了解だということである。一人部屋の真ん中に陣取りながら、港はじわりと赤くなる。まさか、まさか……と落ち着かなくなり無意味に立ちあがり、そして気を沈めるように再び座り込む。暫く無言のまま、メモ用紙に視線を落としていたが、勇気を振り絞るように顔を上げる。そうして港はテーブルの上に置いているパソコンを立ち上げ、恐る恐るインターネットに接続した。検索サイトの検索欄に「はじめて」「痛い」というワードを入力し、ヒットした内容に目を通してから、港は頭を抱えた。一体私は何をしているのか。そもそも及川は私とそういう事をしたいと思うのだろうか。そう思いながらネットの記事に目を向けると、日本のどこかにいるであろう女投稿者の「彼氏に泊まりに誘われたら百パーセント期待されてる」というコメントが書かれていた。思い返してみれば、一泊しようと口にしたのは及川である。しかし、夏休みだから遠出をしよう、でも折角遠出するんだから一泊しとく? といった感じの提案だった。及川の態度からは、一切下心のようなものが感じられない。やっぱり自分の思い過ごしなのかもしれない。そう思った港ではあったが、次に視界に飛び込んできたコメントにピシリと固まる。『手を出されなかったら出されなかったで、それはまずいでしょ』女として見られていないんじゃない? という辛辣なコメントに、港はサァと青くなる。及川とそんなことになったらどうしよう、と怖じけづいていたというのに、及川に手を出されなかったらそれはそれで危機的である。
 どうしよう、どうしよう……と無駄に悩み続ける事二週間程。心の準備をしきれないまま、港はついに、旅行当日を迎えてしまった。

 一面に広がる白い砂浜。ホテルに荷物を置き、海に遊びにきた港は、買ったばかりの水着を身につけ、その上に薄手のTシャツを着込んでいた。水着を決めるのには随分と時間を要したが、結局店員さんに勧められた白い水着を買った。
 水着を前に呆然としている港は、今思えば店員さんにとっては話しかけがいのある客だった事だろう。「どんな水着をお探しですか?」「実は決まっていなくて……」「お友達とどこかに遊びに行くんですか?」「いえ、彼氏と海に」と正直に言った港に、店員さんは目を光らせた。彼氏に見せる水着ならより気合いを入れないといけないですね! と言って、店員さんはお勧めの水着をいろいろと教えてくれた。そして、港が普段女っぽい格好をしない(最近は努力している)という情報を耳にし、選んでくれたのが白い水着だった。ひらりとしたフリルのあしらわれた可愛らしいそれは、いかにも「女の子」というデザインで港は少しだけ躊躇った。しかし、折角のデートなんだから彼氏を驚かせましょうよ! という店員の言葉に背中を押され、ついにその水着を購入してしまった。面積の少ない布地の入った買い物袋を渡された時、これを着て及川の目の前に立てるのかと正直思ったが、ここまできたらもはや自棄である。自分にしては随分と女らしく、そして露出の多い格好をして、それを及川に披露するのかと思うと、口から心臓を吐き出してしまいそうだ。そうしてドキドキとしていると、港の目の前を二人組の女の人が不意に通り過ぎた。友人同士で海に遊びに来ているのだろうが、港は二人のスタイルと水着を二度見する。どちらも胸がバーンと大きく歩く度に揺れており、腰はくびれてお尻は大きく、そして身につけている水着は露出の多い際どいものである。こんな女の魅力の暴力を具現化したかのような存在は、同性の自分ですら振り返ってしまう程である。案の定、周りの旅行客も彼女達を見て驚いていたり凝視したりと、反応は似たり寄ったりである。思わず歩いて行く彼女達を視線で追うと、丁度着替えを終えた及川がすれ違うようにこちらを歩いて来た。男の性というものか、ナイスバディのお姉さん二人をチラッと見てから、及川は港の方に寄って来た。

「ねぇ今の見た?凄くない?」
「……うん」

 確かに、さっきの女の人達はスタイル水着共に凄いのだが、それを港に言うのはどうなのだろう。ハハハと笑いながら、港は上着として羽織っているTシャツの前側をぎゅっと握る。あんなインパクトの手前、自分の水着姿を及川に晒す勇気が華麗に吹き飛ぶ。

「とりあえず場所取りして、それから泳ごっか」
「……そうだね」

 港とは違い、普段通りの及川は羽織ったパーカーのポケットに片手を突っ込み、もう片方の手を港に差し出す。

「えっ……何?」
「何って、手繋ごうよ」

 さも当然、とばかりに及川の口から飛び出した言葉に、港はポカンとする。普段の及川からではとても考えられない素直な行動に言葉無く固まっていると、及川はフフンと鼻で笑いながら小首を傾げる。

「こうでもしてないと、俺女の子に声かけられちゃうからさ」
「……ああ、そう」

 確かに、こんな海に遊びに来ていれば、及川がナンパされるのも時間の問題だろう。もしかしたら、着替えを終えてここまで来る間に声をかけられたのかもしれない。だからこそ牽制として、彼女がいるというアピールは大事なのだ。それは分かっているが、こうも大っぴらに言われると面白くない。港は微妙な顔でゆっくりと及川の手に自身のそれを重ね、そして渾身の力を込めて握り返す。

「痛い痛い痛い、ちょっとお前どんな握力してんの……!」
「及川が悪い」
「ごめん! お願い許して本当に痛い」

 高校時代、体力テストで測定した港の握力は、女子生徒の中で一番の成績を残している。及川も及川で柔ではないが、流石に女の常規を逸した力は痛いらしい。

「ほんとお前……どこでそんな鍛えてくるの?」
「さぁ?」

 若干げっそりとした様子の及川を認めて満足した港は、そのままゆるりと及川の手を握る。鍛えられていると言えど、港の手と及川の手とでは当然及川の方が大きく、男と女の差は歴然である。素直に手を握り返してくれた事に安堵したのか、及川はホッと息をついて歩き始める。

「あっちの方に海の家あったから、あの辺にする?」
「そうだね、その方が便利だし」

 海の家では、食べ物を食べられる所もあるし、浮き輪なんかも貸し出してくれるし、近場にいた方が何かと助かるだろう。それに伴い、海の家周辺は人が多そうではあるが、それは様子見と言ったところだ。及川に引かれるように手を繋ぎながら歩くこと数秒、じわじわと及川が握る手の力が強くなっていく。最初は気のせいかと思ったが、次第に気のせいではなくなり、ついに限界を迎えて港は思わず声を上げる。

「痛いって及川!」
「あ、これくらいが限界?」

 どうやら、港がどれくらいの力までなら耐えられるのか実験していたらしい。クスクスと笑いながら平謝りする及川に抗議するように、港も仕返しだとばかりに再度手に力を込める。それに対抗してか、及川も半笑いで港の手を強く握り返すという小さな喧噪は、お互いに手が痛くなって一旦手を離すという結果に終わる。

「……私達、何やってるんだろう」
「確かに。まぁでも、面白いからいいじゃん」

 アハハと肩の力が抜けるように笑った後、及川は互いの指と指を絡めるように港の手をさらりと奪う。そのさり気なさに心ごと絡めとられたかのように錯覚し、港は一瞬息を飲む。それに目ざとく気付いたらしい及川は、ニタリと嫌な笑みを浮かべた。

「なぁに、ドキドキした?」
「してない!」

 自棄になって誤摩化すように、今度は港が及川を引っ張って歩きだす。「素直じゃないなぁ」なんて言いながらそれに素直に引かれるまま歩く及川は、随分と機嫌が良さそうだ。及川の笑い声を耳で拾い、羞恥に染まりながら歩いていたせいか、港は海の家とは微妙にそれた方向に進んで行く。それにも気付いていながら、及川は港に指摘するでもなく、そのまま後についていく。そんな中で、港はふと、視線の少し先に置かれた手作りの看板に目を止めた。

「及川、あっちでビーチバレー大会やってるらしいよ」
「え?」

 バレー、という言葉に及川も同じく反応を示す。港の指差した先、ビーチバレー大会開催中!と書かれた看板を認めて、及川も「へぇ」と反応を示す。

「ビーチバレーかぁ」
「多分、あそこでやってるんだよ。人いっぱいいるし」
「本当だ」

 歩いて看板に近寄り、誰でも参加オーケーと書かれた文言を見つける。お互いにバレー経験者、室内とルールが少し違うビーチバレーと言えど、興味は非常にある。折角なら参加したい、という二人の希望は一致し、人が多く集まっている場所へと方向転換する。しかし、ビーチバレー大会の行なわれている場所に向かった二人は、会場周りに漂う不穏な空気に首を傾げることになる。ビーチバレー大会はどうなったのか、試合で使うネットとラインだけ引かれたコートの周りには若い男と女が数人たむろし、楽しそうに飲み食いをしている。それを遠巻きに眺めながらおろおろしているのは、恐らく海の家の店員だろう。周りに集まっている観光客も何やらひそひそと話しており、とてもバレー大会の開催されている場所だとは思えない。

「…どうしたんだろう」
「……まぁ、あんまり良くないことになってるのは確かだね」

 及川は目をやや細め、立ち尽くしている海の家の店員の方に歩いて行く。それに港もついていき、店員にこの状況について尋ねた。帽子を被った気弱そうな海の家の店員は、申し訳無さそうに事情を説明してくれた。観光客も多くくるこの時期。誰でも参加できるビーチバレー大会を企画したはいいが、そこでの優勝者一行がコートを陣取り、他の人がコートを使えずに立ち往生しているらしい。この海岸に旅行で来ている6人くらいの若い男達はそれなりにガタイも良く、女性陣も気が強そうである。公式の大会ではなく、海の家にバイトに来ている大学生の企画らしく、運営もまた彼らである。そんな彼らが「他のお客様もここを使われるのでコートを明け渡してください」と頼んでも、気の強い彼らに鼻で笑われるだけで取り合ってもらえないのだという。海の家の他の店員に助けを求めに行ったが、彼らの雰囲気に気圧されて、誰も何も言えず、店長ですら困っているらしい。いつもなら頼りになる怖い男の店員がいるのだが、彼は今日休みでどうにもならないのだと、店員はぼやく。そんな彼の様子を見た及川は、暫く黙ったまま彼らに視線を送り、そして唐突に「うん」と頷いた。

「どうしたの及川」
「いいこと思いついた。有馬も協力してよ」
「え?」

 そう言うや否や、及川は颯爽と歩き出し、たむろしている男女の元へ向かって行く。それを慌てて追った港は、内心で冷や冷やしながら及川の隣に並ぶ。

「待って及川、あの人達どうにかするつもり?」
「そうだよ」
「大丈夫なの? 殴られるかも……」
「そうならないようにするから大丈夫だよ」

 それに喧嘩になっても、お前もいるしどうにかなるでしょ。本気なのか冗談なのか良く分からない事を口にしてニヤリと笑った後、及川は営業スマイルで「すみませーん」と彼らに声をかけた。

「コート使わせて貰ってもいいですか?」

 へらりとした様子の及川の登場に、女性陣は色めき立つ。流石はミスター青城三連覇の王者、見た目の良さは一級品である。それに気付いた男性陣は、仲間の女性陣の興味を一瞬で持って行った及川が面白いはずがなく、不機嫌そうな男が二人「何だよ」と立ち上がる。

「ビーチバレーやりたいんで、ここを貸してください」
「駄目だ。今俺達が使ってんだよ」
「でも、一組がここを借りて使える時間はとっくに過ぎてますよ」
「あぁ?なんか文句あんのか」

 指の骨をぼきりと鳴らし喧嘩腰になった男二人に港は内心でひやりとするが、及川は動じた様子もなくヘラリとしたままだ。彼らの反応は予想通りで、これからどうするつもりなのかと、港は及川を横目で窺う。

「提案があるんですけど」
「はぁ? …何だよ」
「俺達とビーチバレーで勝負しませんか。それで俺達が勝ったら、ここを明け渡してください」

 及川の声色が変わった。先程のへらりとした様子は形を潜め、挑発的な視線を送る及川に、指を鳴らしていた男は「へぇ」と感心したような声を上げる。

「俺達に喧嘩売ろうってか」
「喧嘩というより、バレーの試合の申込です」
「……おもしれーじゃねぇか」

 こういう人達は、正面から売られた喧嘩に弱い。そんな及川の思惑が当たってか、男は別のもう一人を呼び出し、及川と港の正面に立った。恐らくこの二人が、ビーチバレー大会の優勝者だ。

「いいぜ、相手になってやる」
「ありがとうございます」

 こうして、今回開催されたビーチバレー大会の優勝ペアと、及川と港のペアでコートをかけたバレーの試合をする事になった。しかし試合の前に、及川はおもむろに「ビーチバレーのルール詳しく知らないので教えてください」と敵チームに尋ねる。ビーチバレーのルールを知っているくせに、こんな事を言う及川の目的は、大体のところ相手の油断を招くためだろう。抜け目のない奴……なんて思いながら、港はネットを挟んで正面に立つ男を見上げる。身長はほぼ及川と同じ。体にはしっかりと筋肉もついており、とても弱そうになんて見えない。もしかしたらビーチバレー選手かもしれない彼らに、及川と自分で勝てるのだろうか。
 試合開始のコールが響き、港は慣れない砂のコートの上で構える。ルールが分かっているところで、港が経験あるのは室内バレーのみで、位置取りや構えが合っているのか少し不安である。最初は、こちらのサーブからである。ちらりと振り返った先、ボールを持った及川の姿を視界に入れた瞬間、港は「あ」と声を漏らした。一髪触発のこの状況に気をとられていたせいか、港はすっかりと及川のサーブがどんなものであったか忘れていた。高校時代も大学生になった今も、奴の放つサーブは衰えない。足場の悪い砂地を何度も確認してから、及川はボールをふわりと宙に放る。そうして少しの助走をつけ打ち出されたボールは、普段の威力には劣るものの、それなりに凄まじいサーブ勢いで放たれた。それに呆気にとられた相手チームは、サーブを見送り立ち尽くしたまま表情を引きつらせた。

「あ〜外した!」

 惜しかったなぁ、なんて言う及川の声は軽い。及川の発言によって先程のサーブがアウトだと分かったらしい相手二人は、得点を喜ぶように手を叩いたが、顔色はあまり良くない。ここで港は、相手の男二人がバレー経験者でない事を察した。運動神経は良いのだろうが、先程から見ていれば構えも動きも素人のそれである。開催されたビーチバレー大会は誰でも参加のできるものなので、恐らく初心者の中で優勝して天狗になっていたのだろう。もしかしてアイツ凄く強んじゃ……? と不安になっている彼らであるが、全く持ってその通りである。そしてその後も、バレー経験者である及川と港のプレーに相手方は目を白黒させる。いつの間にか、外野にいた連れの女性陣は、敵である及川に黄色い声を上げ始めていた。そうしてコートをかけたビーチバレーガチンコ勝負は、案の定の結果に終わった。
 試合の後、マナーとして相手チームと握手をする際、及川と港は一瞬視線を合わせた。一種の意思の疎通。お互いに同じ事を考えていたのかニヤリと笑い、相手と握手する時に渾身の力を込めて握り込んだ。港と握手をした男は、港の力の強さに「ヒッ」と声をあげて固まる。及川の相手の方は、手を握り込まれて本当に痛いのか「ギャア」なんて悲鳴を上げていた。それに対する及川の言えば「あっすみません。俺握力ちょっと強くて……」とすっとぼけていた。相手チームの女性陣は文句を言っていたが、勝ちをもぎ取り、格好のつかない優勝者一行はそのまま逃げるようにバレーコートを去って行った。最初はどうなることかと思ったが、案外なんとかなるものだなぁ、と港は安堵した。



「いやでも、いいところ教えて貰ったね」

 岩場に座り、沈みそうな赤い太陽を見ながら、及川はそんなことをポツリと呟いた。バレーコートを取り返してくれたお礼にと、二人は海の家の店員に焼きそばとジュースを貰い、そして穴場なのだというこの岩場を教えて貰った。近くに生えている木のおかげで日陰はあるし、海に入るには丁度良い浅瀬もあるし、眺めも良い。釣りにも良いスポットらしいこの場所で泳ぐこと1時間程、そろそろ引き上げ時である。海の家で借りた浮き輪をかかえ、海から上がった港も夕日の方に振り返る。

「本当、夕日が綺麗」

 楽しい時間と言うものは、あっという間に過ぎ去るものだ。バレーコートを取り戻した後、及川も港も暫くビーチバレーに夢中になってしまい、気がつけば泳ぐ時間は随分と少なくなってしまっていた。海岸の少し先にある小さな島まで泳ごう、と旅行の移動中に二人で話していたというのに、それができなかったのが少し悔しい。

「そろそろホテルに戻る?」
「そうだね、シャワーも浴びたいし、お腹空いたし……」

 海水に浸かっていたこともあり、及川も港も体中がべたべたとしている。このまま日に焼けたら塩焼きになれるなぁ、なんてくだらない事を考えながら、港は帰り支度をはじめる。カバンに荷物を入れ、ゴミを袋にまとめて港は岩場から立ち上がろうとした。しかし、未だに岩場に座ったままの及川に腕を引かれ、港は中腰のまま体の動きを止めることになった。

「ちょっと待って」
「何」
「……あのさ」

 もの言いたげな様子の及川は、じとりとした目で港を見上げる。及川をこの角度から見下ろすのは新鮮だな……と思いながら首を傾げると、目の前の男はゆるりと腕を上げた。そうして、港が上着として着ているびしょぬれのTシャツの裾をツイとひっぱる。

「それ、脱がないの?」
「……えっ」

 それ、とはどこからどう見ても、及川が摘んでいるTシャツの事である。結局、羞恥が勝って水着の上に着たTシャツを脱がぬまま海水浴を楽しんだ港は、ここにきて及川に指摘されると思わず、若干赤くなる。

「い……今言うの、それ?」
「だってもう帰るんでしょ?」

 今を逃したら見られないじゃん、とあっけらかんと言い放つ及川に、港はぐっと息を飲む。どうやら、港がいつ水着姿になるのか待っていたらしい。及川はこんな事を真正面から言う男だっただろうか、と現実逃避をはじめた港にうっすらと気付いているのか、及川は再度口を開く。

「お前の水着、ちょっと楽しみにしてたんだから見せてよ」

 何も、こんな事を素直に言わなくてもいいものを、正面切って下心があるという発言をされ、港は暫し固まる。どうしようどうしよう、なんて悩む事十秒程。
 及川にこう言われてしまっては弱い港は腹をくくり、気をひきしめるように、細く長い息を吐く。
 そんな彼女の奇行に、及川は微妙な顔をする。

「……えっ、何?」
「ちょっと待って……今呼吸整えてるから」
「えぇ……」
 
 そんな儀式がいるのか? と言いたげの及川を無視し、港は自身が満足するくらいに深呼吸をして息を整え、ついに自身のTシャツに手をかけた。途端及川も黙り込み、まさに服を脱ごうとしている港を凝視する。そうして再び二人の間に沈黙が流れ、一瞬時でも止まったのかと錯覚するくらいには動きを止める。たかが水着を見せるだけ。確かに肌の露出は多いが、海に来れば見慣れた格好である。ただそれを見せるだけなのに、心臓が異常にうるさいのはどういう事だろう。

「似合ってないとか言わないでよ」
「言わないって」
「スタイルとか良く無いかも……」
「大丈夫だって」
「あ、あんまり期待しないで」
「それは無理かなぁ」

 少しだけ引いていた様子の及川であったが、羞恥に染まって不安になっている港が可笑しくなったのか、次第に声色も柔らかくなり、クスクスと肩を震わせはじめる。及川に穏やかな目で見られていると、なんだかむず痒くて恥ずかしく、その視線にあてられているだけで縮こまりたくなる。磯の匂い漂う岩場に似合わない、甘ったるい空気を纏いながら、港はスッと息を止めた。そうして一思いに、Tシャツをまくり上げ、港は水を含んで滑りにくくなったそれを悪戦苦闘しながら脱ぎ捨てた。水着だなんて良く言ったものだと心底思う。見方を変えれば下着となんら変わらないこの格好は、胸元を大きく晒している上に、腹部も、そして太腿さえも剥き出しである。及川ととても目が合わせられず、俯いたまま何故か岩場に正座している港をじっくりと見ながら、及川はフッと息を吐き出す。

「可愛いじゃん、流石俺の彼女」

 可愛いじゃん。流石俺の彼女。そんな事を言って褒めてもらえたのは初めてで、港はもの凄い勢いで顔を上げる。正座している港の正面に座っている及川の表情は酷く穏やかで、纏う空気は凪いでいる。目を細め、慈しまれているのではないかと思ってしまう視線に、港は全身が沸騰しそうになった。

「折角だし写真撮っておこうよ」
「えっ」

 おもむろにグイと港の肩を抱き、自身に引き寄せてから、及川はカバンの中に入れていた携帯を取り出した。携帯のカメラを起動し、自分たちが画面に写るように撮影モードを切り替えてから、及川はそれを高く掲げた。及川の携帯の画面には、当然ながら水着姿の及川と港が写し出されている。画面に映る及川は相変わらず整った顔をしていて、肩を引き寄せられた港の方は少し恥ずかし気である。引き寄せられた事で及川の裸の肩と自分の肩が触れ合い、じわりと人肌の温かさを感じ取る。

「ほら、写真撮るから笑って」

 耳に響く声は、酷く心地が良い。及川とこんな風に遊びに来て、こんな風に記念撮影をする日が来るとは思わなかった。そんな事をぼんやりと考えながら、港は無意識に及川の肩に頭を預けた。それに一瞬息を飲んだ及川に気づき、港はおまけに及川の腕に自身の腕を絡ませ、控えめにピースサインを作ってみせた。携帯の画面に映る自分たちは、さながらカップルのようである。本当にカップルなのだから当然ではあるが、改めて実感すると感慨深い。パシャリ、と携帯から撮影音が聞こえた後、二人して画面を覗き込む。画面の中に写し出された自分たちのイチャつきっぷりに、二人して恥ずかしくなる。

「……何これ」
「めちゃくちゃ恥ずかしい……この写真誰にも見せないでね」
「見せないよ」
「……でもそれ、私も欲しい。頂戴」
「分かった。後で送る」

 言いながら、及川は港を更に自身に引き寄せ、緩く抱きしめる。音も無く、流れるように及川の肩口に口元を埋める事になった港の鼻孔を、及川の纏う磯の匂いがくすぐる。

「及川、誰かに見られるかも、」
「いいよ、見せとけば」

 ハァと息を吐きだし、港の頭に頬を寄せて、及川は港を更に自身に引き寄せる。及川と抱き合った事が無いわけではない。しかし、水着という露出の多いこんな格好で密着したのははじめてで、慣れぬ温かさと感触に目眩がしそうだ。妙な熱にでも浮かされているのか、及川に抱きしめられてすぐに、港は及川の首元に腕を回し、より密着するように抱きついた。体の全てが触れ合ってしまえばいいのに、なんて思いながら及川にすり寄り、港はうっすらと目を開けて視線を落とす。及川に押し付けたせいでより強調された自身の胸元、女の象徴である胸の谷間を、上から見下ろす及川の目に晒してしまっているかもしれない。それにぼんやりと思い至り、ドキドキとしながらも港はゆっくりと目を閉じた。及川になら、見られてもいい。 薄い布切れの下、何も纏わぬ自身の肌を、晒してしまってもいい。触れられてもいい。この男に、抱かれたい。

「及川」
「……何」
「見たい?」

 何を、とは言及しなかった。先程の及川の「水着を見たい」と言った発言のお返しに近い。しかし、港の普段とは違う声色と雰囲気に、及川は彼女の発言に含まれた意味を汲み取った。

「……見たい」

 及川の手が港の剥き出しの背を滑り、スルリと撫で上げる。触りたい。無言の意思表示に、港は背筋をゾクリとさせた。背中に添えられた及川の大きな手は、港の胸を覆う水着の下に入り込み、たった二本の紐で結ばれただけの水着の結び目を、指で遊ばせる。

「塩の味がしそう」

 一体何が? なんて、港に聞く度胸は無かった。

ごちそうはきっと塩味

back