ラーメン屋でのバイトのシフトが終わる時間帯、偶然なのかタイミングを狙ったのか、及川が店にやって来た。それなりに人気のある店ではあるが、個人経営のラーメン屋ということもあって店内はそれほど広くも無い。故に店員と客の距離感も近く、常連ともなれば顔も覚えられるし、客も店員を覚えてしまう。及川もその例に漏れず、店に入ってきただけで大将だけでなく店員から「及川君いらっしゃい!」と声をかけられる程の知名度を誇る。これだけ目立つ男だ、忘れるにも忘れられないだろう。そして及川は慣れたようにカウンター席に座り、その向こう側に立っている港に声をかける。

「有馬、バイトいつまで?」
「丁度今終わった」
「ふーん、じゃあ一緒にラーメン食べようよ」

 ニコリと笑いながら、及川は港の答えを聞く前にラーメンを二つ注文した。断られるとは思っていない辺りが流石というべきではあるが、港も断るつもりも無ければお腹もすいていたので、さっさと厨房の奥にひっこみ着替えを済ませる。そうして帰り支度を整えて及川の隣に腰掛けた頃に、テーブルの上に丁度ラーメンが置かれた。バイト終わりにラーメンを食べて帰るのはままあるが、こうして及川と一緒に食べるのははじめてかもしれない。

「及川は部活帰り?」
「うん、今日も長い事練習やっててさぁ…もうお腹空いてて…」

 ズズッとラーメンを啜る及川を横目に、港も自身のラーメンに口をつける。もうそろそろ夏休みに入るということもあり、バレーの大会も立て込んでくるのだろう。そのために練習量が増えている及川とは、ここのところ顔を合わせていなかった。もしかしたら、自分に会うためにわざわざ店に来てくれたのかもしれない。そんな浮かれた期待をしながら、港はラーメンに添えられたメンマを摘む。

「あのさ」
「何?」
「もうすぐさ、夏休みじゃん?」
「うん」
「折角の夏休みだし、どこか遊びに行かない?」

 黙々とラーメンを啜りながら、何気なく会話が進む。

「どこか……って、例えば?」
「そうだなぁ……海とか定番でいいんじゃない?」
「海かぁ……」
「そうそう、この際遠出しようよ」

 そう言うや否や、及川はポケットから携帯電話を取り出し、旅行先について調べ始めた。その検索画面を隣から覗きながら、港は『海』という言葉から連想される景色を思い浮かべる。焼けるように熱い白い砂浜、地平線まで広がる水面、かき氷に焼きそば……とありきたりな事しか思いつかない。

「小さい離島とかでツアーやってるのもあるし、楽しそうじゃない?」
「へぇ……どんなツアーがあるの?」
「うーん……あ、これなんか良さそう」

 画面にチラリと視線を落としてから、及川はニヤリと口端を上げる。この顔をしている及川は、ろくな事を言わない。

「無人島サバイバルツアー。お前にはぴったりでしょ?」
「……それ、及川も人の事言えないでしょ」

 案の定である。

「どういう意味だよ」
「及川もどっちかと言うとゴリラの部類でしょ」
「はぁ?」

 失礼だな〜と言いながら、及川は早くもラーメンを平らげた。空腹だということもあるのだろうが、これだけの短時間でこの量を食べきってしまうくらいには、食も早ければ良く食べる。及川を見て小食だろうなとは思わなかったが、たまに引く程ご飯を食べていたりするので、港は驚く事がままある。

「この前、及川のあだ名候補思いついたの。ターザンとかどう?」
「やだよ。なんで俺がアマゾネスにあだ名合わせなきゃいけないんだよ…」

 呆れながら、及川は携帯の画面をスクロールさせ、旅行先について本格的に調べ始めた。海に行く事は決定事項なのか、海が綺麗で泳げる場所を重点的に探しているようだった。それを横目で伺ってから、港は目の前のラーメンをズルズルとすする。海に遊びに行くのは久しぶりだなぁ……と呑気に考えてからふと、港は一年前にバレー部で沢に遊びに行った時の事を思い出した。泳げるということで水着持参するようにとのお達しがあり、港はあるものでいいかと特に悩みもしなかった。中学の頃に買った水着しか持ち合わせていなかったが、今更新しい水着が欲しいとも思わなかったので、そのままその格好で行ったら及川に鼻で笑われた気がする。具体的に言葉は口にしなかったが、及川の顔にはありありと「ださい」と書いてあった。当時はそれに腹を立てただけに終わったが、今思うと恐ろしい。また変な水着を着ていったら、及川にがっかりされるかもしれない。港が顔を青くした事に気付いていない及川は「どうせなら一泊くらいする?」と何気なく聞いてくる。

「そうだね……折角遠出するんだから、一泊くらいしてもいいかも……」

 水着をどうしよう、という事で頭がいっぱいになっている港は、特に深く考えもせずに頷く。そのあっさりとした港の答えに少しだけ驚いたらしい及川にも気付かぬまま、港は近場の水着専門店がどこだったか記憶を辿り始める。

「……いいの?」
「何が?」
「……いや、なんでもない」

 再度確認をとっておきながら、及川はあっさりと身を引いて、再び携帯の画面に視線を落とす。何かを考えているのか、妙に静かになった及川に、港は首を捻った。


 夜も遅いということもあり、及川は港を家まで送ってくれると申し出た。「お前を襲う勇者なんていないだろうけど」と半笑いで言う及川の背中をバシンと叩き、港はさっさと帰路につく。送って貰えるなんて女の子扱いされているみたいで少し嬉しいのだが、それを素直に喜んでみせられない辺り、自分の余裕の無さを痛感する。及川と言えば、思いの外痛かったのか背中を摩っている。

「お前……叩くにしてももうちょっと手加減しなよ……」
「及川が叩かれるような事言うのが悪いんでしょ」
「いやまぁ……そうなんだけどさ……」

 これはもう反射なんだよ、と意味の分からない理由を口にしながら、及川はポケットに手を突っ込んだ。そうして帰路につきながら話す事と言えば、先程の旅行に関するものだった。とりあえずいろいろ調べてみてから行き先を決める事。日にちはいつがいいか。海に行くの久しぶり。何気ない話をするまま、途中で全く別の話に脱線することもあったが、それもいつもの事である。高校の頃、修学旅行での移動の時に、バスで隣同士になってしまった時は、移動の一時間程ひたすらに口喧嘩をしていた。あれに比べると随分と穏やかになったものだと、常々思う。

「それで、私の友達が友達の彼氏に技をかけて失神させちゃったらしくて」
「お前の友達どうなってるの?」
「それで破局しそうになってるらしいんだけど、どうしたらいいと思う?」
「状況がイレギュラー過ぎてなんのアドバイスも浮かばないんだけど……」

 そうしてくだらない会話をしている間に、港の住むアパートに到着した。ドアノブに鍵を差し込み、解錠してから玄関に入って、港はくるりと振り返った。

「及川、ここまでありがとう」
「いいよ別に。それじゃあ、おやすみ」

 そう言ってドアから離れた及川を視界に入れて、港はふと思いつく。何故こんな事をしようと思ったのかと聞かれると、自分でもよく分からない。港の中の女の部分と、ただの悪戯心、そして少しの別れがたさに突き動かされるままに、港は及川の胸ぐらを掴んだ。それにギョッとした及川は、港のこの行動から殴られると思ったらしい。「なんで!?」と疑問を真っ先に口にした及川が可笑しくて、港はニヤリと笑いながら殴り掛かるふりをする。それに反射的に目を瞑った及川を見計らい、港は振り上げた拳を下ろして、及川の唇に自身のそれを重ねた。胸ぐらを掴んだまま、背伸びをしてキスをする光景は、恋人の甘いやりとりなのかそうでないのか、第三者が見たら首を捻るようなものだった。

「……何これ」
「あはは」

 港が唇を離すと、少しだけ赤くなった及川が不満そうに口を尖らせる。つい一ヶ月前は、自分からキスをすることにすら怖じ気づいていたというのに、回数を重ねるとそれにもためらいが無くなってきた。こうして、恋人とのあれこれに慣れていくのだろうか。先に進んでいくのだろうか。

「それじゃ、おやすみ」

 及川の不意を打って満足した港は、ドアを開け放ったままニヤリと笑う。もっと可愛くニコリと笑うくらいできないのか、という及川の心の嘆きになど気付けるはずも無かったが、港の機嫌良さそうな様子には毒気を抜かれたらしい。

「うん、おやすみ……」

 そう言って一歩下がった及川を確認し、港はゆっくりと押し出したドアを引く。しかし、ドアが半分ほどしまったタイミングで及川の手が不意に伸び、ガン!という音を立ててドアの動きを止めた。「えっ」と港が間抜けな声を漏らしたと同時に、及川はドアを押しのけて港の立つ玄関に一歩踏み込む。そうして後ずさった港の腕を掴んで引き寄せ、身を屈めて港の唇を奪う。強引に押し切るようなキスに港は思わず目を見開き、目の前いっぱいに映る及川を凝視する。キスをするとたまに思う。この男は本当に顔が整っているし、こんな至近距離で目でも合うと、気恥ずかしくて視線を合わせていられない。及川と自分がキスをしている。慣れたものだと思っていたのに、その事実を今更思い知って、港は視線を逸らすように目を閉じる。唇をただ合わせるだけのものではなく、お互いに柔く食むような口づけをする事が多くなった。はじめてしたキスはどんなものだっただろうか。ただ単に唇同士をぶつけたような、ただ触れ合うようなものだった気がする。それが今では、もっと侵食したい、奪いたい、とでも言うようなものに変わりつつある。いつだったか「キス上手くなったね」なんて及川がクスクスと笑いながら言っていた。あの時は「及川のせいでね」なんて可愛くない事しか言えなかったが、その裏でゾクリと震えた事をよく覚えている。
 及川に作り変えられていく感覚。そしてそれに、妙な喜びを感じてしまっていることには、薄々と勘付いていた。いつだって、及川が港を女にしてくれる。そして及川もまた、変わりゆく港に目を細めるのだ。

「……こんなことしてさ、俺も大概勇者だよね」
「え?」

 勇者、という聞き覚えのある単語について思考を巡らせている間に、及川はするりと港から離れ、ポケットに手を入れる。ただそこに立っているだけなのに、及川は妙な色気を纏ったままクスクスと笑う。港は呆気にとられたまま及川を見上げ、キスの名残で光る口元に視線を奪われる。

「海、楽しみだね」

 そう言って小首を傾げ笑ってから、及川は今度こそドアを閉めて「じゃあね」と言って帰って行った。

君を頂く勇者よ

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