大学の講義を終え、友人とカフェでお茶をした後のことだった。帰路の途中、ドラッグストアに寄りたい、という友人の言葉に頷いて、港もその店に足を運んでいた。無くなりそうな化粧品を買いたいらしい友人の後について回りながら、港は彼女が吟味する姿を眺める。高校時代は大して化粧もせず、飾り気のなかった港ではあったが、大学進学するとなると化粧品に興味を持った。最低限の身だしなみを整えよう、という理由も大きいが、何より及川の隣に立つべく努力をしなくては、と思った事が大きい。しかし、だからと言って大して詳しい訳でもなく、どういうものが良いのか分からないので、とりあえず雑誌で調べて、無難そうなものを使用するというところに落ち着いている。そんな化粧品初心者の港にとって、友人の化粧選びというものには非常に興味があった。どんなものがいいのだろう、という疑問のもと、友人にちょくちょくとどれが良いのか尋ねる。友人も数ヶ月程の付き合いで、港がどういう人なのかは既に分かっているので、商品についていろいろと教えてくれた。元々化粧品の好きであるということもあって、商品について話す友人は非常に生き生きとしている。そうして一緒にドラッグストアの棚をグルグルと回っている最中、友人がある棚から何気なく小さい箱を手に取った。それも何かお勧めの化粧品なんだろうか、と港は詳細を尋ねる。

「それもオススメ?」
「オススメというか……これは個人的に欲しいだけ」

 化粧品の入ったカゴに、彼女はその小さな箱をポイと入れる。一瞬その箱がなんなのか分からなかった港は、友人がそれを取り出したコーナーの棚に置かれたポップに目を向け、素っ頓狂な声を上げた。

「えっ!?」
「何そんなに驚いてるのよ……」

 港の様子に呆れた様子の彼女は、今度はまた別の箱を手にとり、パッケージを眺めるようにくるくると回す。何やら可愛らしいデザインだと思わなくもないが、しかし港にとって重要なのはそこでは無い。何度確認しても、港の隣に立つ友人の手に握られているのは、避妊用の薄いゴムの入った箱である。彼氏がいるんだし当然でしょ? と首を傾げた友人ではあったが、港の様子を見てふと動きを止める。動揺している港に、何か思う所があったらしい。

「……港って今の彼氏と高校の頃から付き合ってるんだよね?」
「えっ……うん……」
「付き合い始めてどれくらいになるの?」
「多分、半年くらい……」
「ふーん」

 港の言葉を聞いて数秒、友人はニヤリと口端を上げる。

「まだなんだ?」

 ぶわりと赤くなった港を認め、友人はけらけらと笑う。そして「本当に港は初ね〜」などと言いながら、先程手に取った箱をカゴの中に入れた。

「港も買っておけば? いつか使うでしょ?」
「いっ、いいよ、もう……!」

 思わず距離をとったて首を振る港に、友人は先程から非常に楽しそうである。そして混乱している港を更にからかうように、友人はその行為に関することを港に吹き込む。友人が口にする様々な言葉に、港は恥ずかしくてまともに視線すら合わせられなかった。そもそも、素肌と素肌を合わせるという行為が、港には想像すらできない。たまにほんの気まぐれで、及川に抱きしめられた時にでさえドキドキとして心臓が破裂しそうになるのに、そんなことになったら一体自分はどうなってしまうのだろう。友人の発言に「やめて!」なんて言いながら、港の脳内はほのかにピンク色に染まる。正直に言えば、考えないことも無いのだ。いつか私も、及川とそういう事をする日がくるのだろうか、と。港はぼんやりと、過去に何気なく見た映画の中で、男女が睦みあっているシーンを思い出す。映画ではたった一瞬のカットではあったが、ベッドに押し倒され、上にのしかかった男に体をまさぐられている女優の恍惚の表情は印象的で、未だにその映像のことを覚えている。反応したのは、おそらく自分の女の本能というものなのだろう。しかしそれは、港には当分、縁の無いことであると思っていた。

「ねぇどうしよう、続きめちゃくちゃ気になる」
「……はぁ」

 友人とドラッグストアに寄り道した後、港は及川の家に立ち寄っていた。友人にあんなことを言われはしたが、及川とは既に約束があったので家に行かないというのも憚られた。まさか港がほんのりいかがわしい事を考えているとは思いもしない及川は、大学の友人に借りたらしい漫画をベッドの上で読んでいた。及川の手には、最近人気アイドル主演で映画化される事が発表された少女漫画が握られている。確か以前にドラマ化もされていた作品であり、根強い人気があるのだろう。その漫画に何やら感動したらしい及川は、ベッドに仰向けに転がったまま、漫画を抱いて浸っていた。果たして、この男と自分がそんな色っぽい事になるのだろうか。そもそも及川は、港にそんな気を起こすのだろうか。港の自問自答の答えは、限りなく否に近い。

「少女漫画読んだのはじめてなんだけど、結構面白いね」
「……まぁ、男の及川はそうだろうね」
「……映画公開されたら見に行こうかなぁ」

 その漫画が余程気に入ったらしい。そもそも、その漫画を誰に借りたのかと尋ねると、同じバレー部の黒尾だと及川は言う。以前レンタルビデオ屋で会った黒髪の男だと港も思い至るが、あの彼がこんなファンシーな漫画を自分で買っているのかと思うと、なんだか意外である。

「黒尾も高校の頃に友達に貸して貰ったんだって。で、漫画に出てくるキャラの中で、同じ苗字の黒尾さんが好きらしい」
「へぇ」

 割とどうでもいい黒尾の情報を聞きながら、港も興味本位でテーブルに置かれた漫画を手に取る。巻かれた帯には、映画化決定! と大きな文字が印刷されていた。

「お前も読めば? 少しは参考になるかもよ」
「……何の?」
「女らしさについての」

 フッと鼻で笑う及川を、港はじとりと睨む。それはどういう意味なのか、などと聞かなくとも港は察する。己があまり女らしくないことなど、港だって良く分かっている。

「……へぇ、じゃあ女らしくしようか」
「……え?」

 手に取った漫画をテーブルの上に置き、港はゆらりと立ち上がる。特に女らしい仕草や行動など思いつかないが、立ち上がって寄ってくる港の様子に、及川は少なくとも動揺しているようだった。女らしくすると言った港が、一体何を仕出かすのかと不安らしく、及川は身構える。しかし、こんな事を言っておいてあれだが、港は特に妙案も思いつかない。どうしよう……などとかなり今更な事を考えながら、女らしさ溢れる行動について思考を巡らせていたせいか、港は足下に落ちているビニール袋に気付かなかった。そして考え事をしているままにビニールを踏み、それが滑った拍子に港は体勢を崩した。そしてそのまま、港はベッドに転がっていた及川の上にボスリとのしかかった。転んだ港が乗りかかった衝撃に、及川は「グエッ」とカエルのような声をあげる。

「……何、これが女らしいこと?」
「……」
「ねぇ……重いんだけど」
「ご……ごめん…」

 何故こんなにも格好がつかないのだろう。慌てて起き上がろうとした港は、及川の上から退こうとしたが、体が思うように動かない。何だ? という港の疑問は、しかし、すぐに答えが出た。及川が上に乗りかかった港の腰に腕を回し、動けないように固定していることに気付いて、港は一瞬固まる。

「……重いんじゃないの?」
「うん、重い」

 クスクスと笑いながら、及川は港の腰に回した腕を解こうとはしない。一体何のつもりなのかと計りかねている港は、自重のせいで及川に密着している事に気付いてハッとする。服は当然着ているものの、薄い布越しに及川の固い肌の感触を感じ取り、港はほんのりと赤くなる。

「何、照れてるの?」
「べっ……別に照れてなんか……」

 ニヤニヤとして港の表情を下から伺っている及川に言い返すも、及川はただ楽しそうにしているだけである。あからさまに動揺しているのがバレバレである事に気付いているが故に、港はぐっと口元を引き締めた。及川の上に乗りかかったまま、港はとてつもない羞恥心に襲われる。そして今更至近距離に及川の顔があることに気付いて、港は思わず及川の胸元に顔を押しつけた。及川から顔を隠すつもりでの行動ではあったが、及川には思わぬの二次被害をもたらした。

「ちょっ、くすぐったい……」
「……」

 首に港の髪がかかっているためにくすぐったいらしく、及川は頭の下にある枕に沈み込むように、気持ち港の髪から遠ざかろうとする。
それに気付いた港は数秒後、口端をニヤリと上げて、及川の首筋にぐりぐりと頭を押し付けた。
先程のお返しだとばかりに擦り寄ると、及川はくすぐったさに笑いながら「やめて!」と喚く。
「やめて」などと言いながら、港の腰に回した腕を解かない及川に、港はひっそりとドキドキする。
そうして暫くそんなやり取りを続けながら、港はぼんやりと今の空気の甘ったるさに気付く。
及川の上にのしかかって、自分から擦り寄っているこの状況はよくよく考えると、相当に大胆な事である。
スキンシップもそこそこに、冷静になった港は及川に擦り寄るのをやめ、ゆるりと顔を上げる。

「…そろそろ、離してくれませんか」
「え〜……」

 我に返り、再び羞恥にかられている港の様子に、及川は愉快そうにクツクツと笑う。先程くすぐったさに笑っていたせいか、及川の目は少しだけ潤んでいる。

「こうしてたら、お前凄く恥ずかしそうな顔するし、結構眺めもいいんだけどなぁ……」
「……悪趣味」
「知ってるよ」

 ニコリと微笑んでから、及川は港の腰に回していた手の片方を動かし、港の頬に手を滑らせる。身長に比例していることもあるが、バレーをしているが故に大きな及川の手は、港の顔半分を簡単に覆い隠してしまえる程に大きい。そんな手が港の頬を丁寧に触り、重力に従って下に伸びた港の髪を掬って、耳にかける。瞬間、港は息を詰める。及川の指先に「好きだ」と言われた気がした。

「まぁでも、それを彼氏にしてるお前も悪趣味……」

 言いかけた及川の口を、自身の唇を重ねる事で塞ぐ。自分から及川にキスをしたのは初めてだった。及川も流石にこれには驚いたようで、目を見開いたまま、口づけてきた港を視界いっぱいに確認する。ほぼ衝動でキスをしてしまった港は、唇を合わせている間こそ熱に浮かされていたが、酸素を吸おうと唇を離した瞬間、己の行動にハッとする。更にポカンとしている及川を確認し、港はこの場から逃げ出したい衝動にかられた。

「今のナシ!」
「は?」

 何言ってるのお前、と言いたげな様子の及川は、呆れたような顔で港を見上げる。港といえば、今度は顔を青ざめさせて、再度及川の腕から抜け出そうと奮闘する。しかし及川は相変わらずの馬鹿力で港を自身に引き寄せたまま離す気配もなく、抵抗も虚しく港は再び及川の胸元に顔を埋める。

「……お願いです離してください」
「面白いからやだ」

 及川の表情はここからでは見られないが、口調から愉快そうにしているしている事が良く分かる。何故私はこんなにも翻弄されているのだろう、などとぎゅっと唇と引き結んでいると、頭上から呆れたようなため息が落とされる。

「本当、一人で楽しそうだね、お前」
「……」
「欲求不満なの?」
「違う!」

 欲求不満。その言葉に、港の脳裏に友人とのドラッグストアでのやり取りを思い出す。聞いてもいないのに、友人が港をからかうために口にした言葉の数々をまるで走馬灯のように思い出し、港は一人で茹で上がる。『恥ずかしいけど、あぁ、私愛されているんだ……って実感できる』そうニヤついて言った友人の言葉が蘇り、港はコクリと息を飲んだ。何を考えているんだ、私は。これではまるで。
 ガバリと起き上がって抗議した後、固まってしまった港を見上げて、及川は何か言いたげな顔をした。しかし何を言うでもなく、妙に静かになった及川は、港を自身に引き寄せていた腕を唐突に外した。これには港も虚をつかれたが、これ幸いとばかりに上半身を起こす。しかし港が体を起こしたタイミングで、及川も同じように起き上がり、流れるように港の背中に手を滑らせた。そうして港を緩く引き寄せながら、及川は港の耳元で囁く。身震いしてしまう程の甘さを漂わせながら、穏やかな声で言葉を耳に吹き込まれるこの感覚には、未だに慣れない。

「……それは残念」

 一体、何が残念なのか。ヒュッと息を飲んだ港に気付いて、及川はひそりとほくそ笑んだ。

存分に意識せよ

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