港の通う大学の同じ学科に、横尾という男がいる。高校生の頃少しだけモデルの仕事をした事があるらしく、顔も整っており、スタイルもスラリとしていて、一般的に言う好青年に属する人間である。その上人懐っこく、初対面の人間とすぐに仲良くなれるのが彼の良いところであり、女子人気というものを更に助長させている。モテる分、軽い男であるという噂もあるが、実際に話してみるとそんな雰囲気もなく、好印象を抱く男である。その彼が最近、港に親切にしてくれるのも、きっと彼の心根の一部なのだと思っていた。

「ねぇ、あれ横尾君じゃない?」

 慣れない他大学の校内をいくらか迷い、やっと目的地である体育館の応援席に辿り着いて数分。隣に座る友人が口にした横尾の名前に、港は「え?」と間抜けな声を零す。先程から体育館内を見下ろし、及川を探す事になって夢中になっていた港には、本当に不意な発言だった。

「横尾君……?」
「あれ見なよ、港」

 ピッと友人が指差した先、港達の座る席の斜め前方の応援席に、件の横尾が腰掛けていた。携帯にじっと視線を落とし、画面を片手でいじっている姿が見て取れる。

「何で横尾君がここにいるんだろ」
「……さぁ」

 友人と顔を見合わせ、港も一緒に首を傾げる。横尾は大学でバレー部に所属しているわけでもないし、興味があるという話も聞いた事がない。更にここは、港の通う大学から電車で数駅程離れた、及川の通う大学である。今日は何校かのバレー部が集まっての練習試合があるらしく、「暇なら応援に来る?」なんて及川の誘いにのり、港はこうして赴いた次第である。そして、一人で応援に行くのを心細く思い、隣に立つ友人を誘ってみると、意外にもOKを貰えて今に至る。「スポーツマンの彼氏が欲しいんだよね」とあっけらかんと言い放った彼女の目的は、この時なんとなく察したというのは余談である。

「横尾君、このバレー部に友達いるんじゃないの?」
「……まぁ、それくらいしか考えられないけど…」

 うーん、と唸った後、友人はチラリと港の方に視線を向ける。スポーツマンの彼氏候補をあわよくば捕まえたいと言うだけあって、今日の友人は服装も化粧もばっちり整っている。元々綺麗な顔立ちをしている友人ではあるが、そんな彼女にじっと見られてしまうと、同性ながら港もドキリとしてしまう。そうして港の事をじっと眺めた後、もの言いたげにしていた友人はゆるりと口を開いた。

「前から思ってたんだけどさ……横尾君って、港に気があるんじゃないの?」
「……はっ?」

 あまりにも予想外の発言に、港は一瞬何を言われたのか分からなかった。理解しても尚、何をもって彼女がそう思ったのか逆に聞きたい、という港の空気を察して、友人は言葉を続ける。

「最近横尾君、なんだかやたらに港に話しかけにいってない?」
「……そうかな?」
「そうだよ」

 例えば、と言って友人は港に分かりやすく事例を挙げる。ここの所、必修講義で港の座る席の近くに頻繁にやって来ること。校内ですれ違うと必ず声をかけてくること。昼休みに食堂で出くわすと、近くの席に腰掛けて話しかけてくること。友人の挙げた例を聞き、ここで港も「確かに」と納得する。個人的には男の友達ができた、という認識だった港は、その中に「異性に対する好意」というものが含まれているとは思いもしない。

「逆になんで、アンタはそれを分かってて好かれてると思わないの?」
「そりゃあ嫌われてるとは思わなかったけど…私今までモテ事ないし……」

 何せ、高校時代にアマゾネスというあだ名をつけられていた女である。高校に入った頃は、免疫のない港は男友達ができただけて少し嬉しかった。仲が良い=色恋に発展するかもしれない、と思わなかったと言えば嘘になる。しかし港の場合は『ただ仲良くなった』止まりなのだ。男子と仲良くなっても女としてモテた試しもないし、期待するだけ無駄だと気付いたのは高校二年の頃だった。

「イケメンの彼氏いるくせに何言ってるの?」
「いや、それはまた特例というか……」

 及川に対しては、何故だか『自分がモテた』とは思えないのだ。及川自身も「不可抗力」と以前言っていたし、これは港が男に好かれるということとはイコールにならない気がするのだ。そう考えながら苦い顔をした港を他所に、友人の話題は再び横尾に戻る。

「港、横尾君と何かあったんじゃないの?」
「いや……特に何も思い当たらないんだけど」

 好かれる理由が心底分からない、といった様子の港に呆れたのか、友人はハァ〜とあからさまなため息をついてみせた。

「何かあるでしょ。ほら、何かの話題で盛り上がったとか……」
「それは俺も興味あるなぁ」

 友人の発言に紛れ込むように、不意に第三者の声が背後から落とされる。一瞬そのまま話しだそうとした友人ではあったが、自分たち以外の声にハッとして、勢い良く後方に振り向いた。港と言えば、聞き覚えのありすぎる声に誰が背後に立っているのか察し、友人より少し遅れてゆっくりと振り返る。一体いつからそこにいたのか。港と友人の座る席の後ろに、及川は悠然と腰掛けていた。急な事に体を固まらせた友人に気づき、及川は安心させるように笑いかける。

「急に話しかけてごめんね。びっくりさせちゃったかな」
「い、いえ……!」

 ブンブン、と挙動不審気味に首を振る友人の反応は、仕方がないと思う。及川は背も高いし見た目は良いし、はじめて近くで見た時はキラキラとしたオーラを纏って見えたものだ。絶対に及川にはこの事を言うつもりはないが、そんな男が真後ろから不意に話しかけてくるというのは、それなりに心臓に悪い。「こんにちは。有馬の彼氏の及川です」と友人に自己紹介をする及川の発言にむず痒さを感じながら、港は何とか口を挟む。

「及川……何でここにいるの?」
「ん〜。誰かさんが俺を探してるみたいだったから、俺から出向こうと思ってさ」

 ニヤリと笑う及川に図星をつかれ、港は気まずげに視線を逸らす。港が及川を探しているところを、どこかから見ていたのかもしれない。そりゃあ及川の応援に来ているんだから、当然といえば当然であるが、真正面からそう言われるとなんとも居心地が悪い。そんな港の心境を分かっていて、及川は楽しそうに笑ってから「ところで」と友人に尋ねる。

「横尾ってどいつ?」
「ちょっと……!」

 港が慌てて待ったをかけるも、自分のペースを取り戻したらしい友人は、さらりと「あの人です」と横尾を指差す。横尾は未だに携帯を操作しており、こちらの様子には気付く気配はない。横尾の姿を捉えた及川は、少しだけ目を細めて観察した後に「ふーん」と呟く。

「有馬、あいつと仲良いの?」
「えっ……いや、仲良いという程じゃないと思うんだけど」

 そんなに特別話をする仲ではないはずだ、などと自分に言い聞かせて確認している港の様子に、及川は呆れたような顔をした。港の発言は信用ならないと判断したのか、今度は友人に「どうなの?」と尋ねる。

「好きなのかは分からないですけど、横尾君が港を意識してるのは確かだと思いますよ」

 友人の発言に、及川はやや目を伏せて、その後にもう一度横尾に視線を向ける。そうして再度彼の姿を確認した及川は、特に何の変わった様子も無くニコリと笑う。

「それじゃあ俺そろそろ戻るから、応援よろしくね」

 横尾もモテる部類の男だと思うのだが、及川は敵ではないと判断したらしい。そのままスクリと立ち上がり、手をひらりと上げてから及川は颯爽とこの場を後にしていった。あまり時間の無い中、及川はわざわざここまで足を運んでくれたのかもしれない。しかし、この短い時間の中で交わした会話が、横尾の話題というのはどうなのか。

「ちょっと本当……港の彼氏かっこいいじゃん……どうやってあの男捕まえたの?」
「……」

 興奮気味の友人の発言を聞きながら、港はなんとも言えぬ気持ちを抱えたまま、苦笑いを浮かべた。

 試合中の及川は、高校の頃と変わらずそれはそれは活躍していた。一軍チーム以外は学年毎にまとめられているのか、三軍くらいの一年生の多いチームに入っていた及川は、その中でもよく目立った。以前レンタルビデオ屋で見かけたバレー部仲間も同じチームに属しており、特に得点に貢献しているようだった。及川が活躍すると、応援席から黄色い声が飛んだりするものだから、港は自然と高校時代を思い出す。高校の頃も、放課後に体育館にやってきた及川を応援する女子生徒がたくさんいた。それに対して、及川はサービス精神旺盛で律儀に手をふってみたりして、彼女達を湧かせていたものだ。それを見て面白くない、と思うのは付き合う前も付き合う後も、そんなには変わりはない。前者は気に食わない男がモテはやさているのが腹立たしい、後者は恋人が女にモテるのが気に食わない、という違った感情からのものではあるが、結果としてはどちらも同じである。今はまた少し違って、好きな男が他の女に好かれていて不安だ、という心境である。及川に対する気持ちの変化というものに、自分は未だに振り回される。そんな港の隣で、友人は大声で「キャー! 及川くーん!」とノリノリで歓声を送っていた。
 そして試合の最後、及川のチームのスパイカーが得点を決めた事により勝敗が決した時、隣の友人はニヤリと笑って港の腕を引いた。突然の事に首を傾げたものの、「いいから」と言う友人に釣られるままに立ち上がり、港は正面にある手すりを掴んだ。この手すりの向こう側には、選手達がプレーをする体育館が広がっている。そして港達が立つ応援席の丁度真下辺りに、及川達のチームが固まって片付けをはじめようとしていた。その一段の中にいる及川に、隣に立つ友人は「及川君かっこよかったよ!」と大声で言い放った。それにギョッとした港を他所に、友人の発言に釣られるように、応援席近くに座っていた女性陣数人も及川に声をかける。それに対し、及川といえばニコリと笑って手を振り、すぐさまチームメイトに背中をバシンと叩かれていた。「いった!」と及川という及川の声と共に、チームメイトの「むかつくわ〜」という言葉が聞こえた気がした。そのやり取りがまるで、高校時代の及川と岩泉を思い出させ、港は少し可笑しくて笑ってしまった。相変わらずなんだなぁ、なんて港がぼんやりと及川を眺めていると、ふと目が合った。瞬きを数回繰り返した後、港は健闘を讃えるようにニッと笑って、及川にピースサインを送る。彼女なんだし、これくらいしたっていいだろう。そう思っての港の労いの合図に、及川も笑ってピースサインを返してみせて、再度チームメイトに背中を叩かれていた。



 練習試合も終わり、他大学の生徒が引き上げて行く姿を眺めながら、港は玄関傍の植え込みに腰掛け、及川が出て来るのを待っていた。一緒に応援に来ていた友人といえば、いつの間にか他大学のバレー部の男と親しくなっており、流れで彼らと一緒にカラオケに行くことになっていた。少し話しただけで、一体どうやったらそこまで初対面の男の人とお近づきになれるのかは港には到底理解できない。理解できていれば、港にだって彼氏の数人くらいいたものだろうが、それでも彼女の手腕の凄さには圧倒された。「港は及川君と帰りなよ」という言葉を残し、キラキラ笑顔を浮かべて男と去って行く彼女は、今日の第二の目的を達成したらしい。
 そうして一人残された港は、とりあえず及川が体育館から出て来るのを待っているのだが、主催校の部員とあってなかなか姿を現さない。待っていたとしても、及川はこの後予定もあるかもしれないし、一緒に帰れるとは限らない。何だかここにいるのは無駄な事のような気がしないでもないが、最悪少しでも話がしたくて行儀良く座っている港は、内に抱えた乙女心を持て余していた。及川がバレーをしているところを、こんなに近くで見るのは久しぶりだった。相変わらず、相手を挑発して弱点をついていく様は上手く、見ていて腹立たしい程の策士ぶりだった。相手を出し抜き、憎らしい笑みを浮かべる及川は、さながら悪人のようではあったが、なんだかそれが及川らしくて港は目が離せなかった。ああ、好きだなぁ……なんてしみじみと思ってしまったのは、ここだけの話である。そんな事を考えながら、目の前に広がる大学の大きな建物をぼんやりと眺めていると、不意に近くから地面を踏む音が聞こえて、港はハッと顔をあげる。ここで港に近づいて来る男といえば、十中八九及川しかいないという港の考えはしかし、不意を打たれる。

「やっほー、有馬さん。来てたんだ」

 港の正面に立ち、ヘラリと笑って見せた男は、今朝の話題の人物、横尾だった。ここで港は、横尾がもしかしたら自分に好意を持っているかもしれない、と言った友人の発言を思い出す。そんなことを言われなければ、港だって「やっほー横尾君」と軽く挨拶ができたものだが、意識してしまった途端に上手い対応ができないのは、男慣れというものをしていないせいである。

「えっ、や、やっほー……」
「どうしたの?」

 挙動不審な港を笑いながら、横尾はさり気なく港の隣に腰掛ける。花壇の植え込みに浅く座り、長い足を開き気味にして、膝の上に肘をついて指を組む様はそれはそれは絵になった。しかし、港といえば「何故そこに座るのか」という言葉で脳内を埋め尽くされる。自分の事を好きかもしれない相手に、どういう態度を取るのが正しいのか分からない。普段通りでいいのだろうが、その普段通りというものをすっかりと忘れてしまった。よりによってこんな時に、最悪である。

「実はさ、有馬さんがここに来てたの知ってたんだけど、声かけるタイミングなくて」
「そ、そう……」
「最近バレーに興味湧いてさ。友達がバレー部で、応援がてら見に来てたんだ」
「へぇ……」
「有馬さんは、誰かの応援に来てたの?」

 いつもの調子で話す横尾に対し、ぎこちない対応しかできない港はここで、彼の上げた話題にピンと思いつく。及川の応援に来ていました、と言えば、横尾は身を引いてくれるのではないか。早とちりに、自分が好意を持たれているという前提で、港は勢い良く口を開く。

「彼氏の! 応援にきてたの!」
「あっ、そうなの?」

 有馬さん彼氏いたんだ〜と続ける横尾は、大して動揺した様子はない。あれ? と首を傾げた港ではあったが、相変わらずにニコニコしている横尾に拍子抜けする。もし自分の事が好きなのなら、ここで横尾は少なからず何かリアクションをとるはずである。それが無いということは、やはり勘違いなのではないか。ああ、私はなんて恥ずかしいことを……と一人脳内会議で頭を抱えていると、横尾は予想外の事を口にした。

「まぁ、関係ないけどさ」
「……」

 関係ないとは、どういう意味だ。純粋に疑問符を浮かべた港に気付いたのか、横尾は少し楽しそうに吹き出した。その笑い方がどこか及川に似ているような気がしたが、彼の考えていることがまるで分からず、港は得体の知れない恐怖に近いものを感じた。

「有馬さんて、あんまり男に慣れてないでしょ」
「えっ」
「反応とか見てたら分かるよ」

 クスクスと笑いながら、横尾はすっと目を細める。何かを企んでいるような思惑を抱えた視線に、港はコクリと息を飲む。

「そういうところ、可愛いと思うよ」
「は、」
「初々しい女の子、俺結構好きだなぁ」

 何を言われているのか理解できぬまま、港はビシリと硬直する。これはもしかして口説かれているのだろうか、とだらだらと冷や汗を流しながら、港はなんとか言葉を紡ぐ。

「そうかな……そんなこと言われたのはじめてだから……良く分からないや。あはは……」
「そうなの? おっかしいな〜」

 そういうの良いと思うんだけどなぁ…と続けて口にする横尾は、心なしか港との距離を詰めている。迫られている。咄嗟にそう思った港は、人生で一度も経験した事のない事態に混乱し、思わず自身の前に両手を上げて距離をとった。この後何かを言おうとしていたらしい横尾は、港が自分との間に手で壁をつくったことには流石に驚いたようで、一瞬固まる。そんな彼の様子に気付き、港は先手必勝! とばかりに口早に言葉をまくしたてた。

「ごめん横尾君、私彼氏がいて……」
「え?」
「その、今の彼氏以外の人には答えられないというか……」

 告白をされてもいないのに、好意を断るというのはどうなのだろう。言った後で後悔したところで既に遅く、港は羞恥で赤くなる。これでもし、横尾が自分の事を好きでなかったらどうしよう。とんだ自意識過剰じゃないか、と涙目になっている港に気付いて、横尾は数秒の無言の後、おもむろに笑い出した。

「あはは……待って有馬さん、すげー面白い」
「……」

 お腹を抱えている様子の横尾に、港はサァと青くなる。ああこの反応は、港の勘違いなのではないか。慌てて「ごめん!」と謝ってはみたものの、横尾は未だ笑ったままである。かなり失礼な事をしてしまった、という申し訳なさと、自身の自意識過剰さに穴があったら入りたい思いに襲われる。どうしようどうしよう、と慌てていた港ではあったが、事態は更に港の予想外の方に傾く。

「勘違いしてくれるのは良いんだけど、まさかこれくらいで振られるとは思わなかったなぁ」

 笑いが収まったらしい横尾は、ぼそりとそんな事を口にした。先程の楽しそうな様子から一転、妙に静かになった横尾は、口元が笑っているのに目が笑っていない。空気が少しだけ変わった事を感じ取り、港は心の内で「あれ……?」と首を傾げる。未だ花壇の植え込みに腰掛けていた横尾は、様になる座り方をしたまま、穏やかに笑ってみせた。

「俺別に、有馬さんのこと好きなわけじゃないよ。ただ嫌がらせしたかっただけ」
「……えっ」

 嫌がらせ、とはどういうことなのか。まるで好意とは真反対の言葉に不意を付かれた港は、隣に座っている横尾の得体の知れなさに口元を引き結んだ。途端に不穏な空気が漂い始めた二人の間を、空気の読めない爽やかな風が吹き抜けていく。

「俺さ、この前までこの大学に彼女いたんだけど、フラれたんだよ。好きな奴できたって」
「……」
「その好きな奴って、誰だと思う?」

 淡々と話す横尾に、港は何も言えない。確かに港は恋愛事にも、男にも慣れていない。しかし横尾の話の流れの先が分かって、愕然とするしかない。悲しいかな、恋人が及川とあって、悪意には少しだけ慣れてしまっているのだ。

「有馬さんの彼氏だよ」

 脳裏で、楽しそうに笑う及川の姿が思い浮かんだ。

「腹立ったから、アイツの彼女にちょっかいかけてやろうと思っただけ」

 ああ、だから最近やたらに私に話しかけていたのか。静かに開き直る横尾の話を聞きながら、港はぐっと唇を噛み締める。友達だと思っていた人物に、好意を持たれるどころか恨まれていたのだ。正直に言えばショックである。しかし、この話を聞けば及川も悲しむだろうと思い至り、港の目に薄い水の膜が張る。

「でさ……ここで有馬さんにキスでもしたら、アイツ凄くショックだと思うんだよね」

 泣きそうになっている港にすら容赦はない。ただただ、自身の彼女を奪った男への報復を優先する横尾は、ガシリと港の右手を掴んだ。その発言で何をされるのか理解した港は、咄嗟に渾身の力を込めて手を振り払った。男と女では力の差がある、と思っていたらしい横尾は、港の予想外のパワーに押し切られ、掴んでいた手を振り払われて驚いていた。同じ学科の仲間と言えど、港が異常にたくましい女だとは知らなかったらしい。それに横尾が呆気にとられている間に、港は腰掛けていた植え込みから立ち上がる。横尾から距離を取らなければ、と後退をした港ではあったが、数歩後ずさったところで何かにぶつかった。感触で人にぶつかってしまったのだと気づき、港は慌てて振り向いて、そこに立っている人物を確認して目を見開く。「すみません」という言葉が出かけたものの、言葉にはならなかった。そうして港がぶつかった人物は、するりと港の肩に手を置いて、驚いた様子の横尾に言葉を投げかける。

「何してるの」

 酷く凍えるような声色だった。一体いつからそこにいたのか。港の肩を抱いた及川は、流石に焦った様子の横尾に冷たい視線を向ける。

「何って……少し喋ってただけだよ」
「そうには見えなかったけど」

 及川が怒っている。それに気付いたのは港だけでなく、横尾も同じだった。きっと及川に、先程のやり取りの一部を見られていたのだ。どうしよう、と体を固まらせた港を他所に、横尾の方は開き直ったようだった。見られていたのならしょうがない、とばかりに、横尾は何故港にちょっかいをかけたのか、明け透けに及川に言い放った。お前に自身の彼女を横取りされたから腹が立った。だからお前の彼女に手を出してやろうと思った。先程港に話した事をほぼそのままに伝えた横尾の発言に、及川は眉を潜める。

「お前の八つ当たりを、何で俺の彼女が受けなきゃいけないわけ」
「だから言ってるだろ。お前が全部悪い」
「……馬鹿じゃないの。そんなのだから振られるんでしょ」

 ハッと吐き捨てた及川は、女子に「王子様」と言われる人物とは到底思えない程の底冷えさを纏っている。

「安心しなよ。俺は別にお前の元彼女に興味ないし、付き合うこととかないから」
「はぁ? ……お前、ちょっと顔がいいからって調子に乗るなよ」
「話題を逸らして逃げるのやめなよ」

 でも、と及川は一旦言葉を切ってから、フッと鼻で笑うように言葉を続ける。

「モテてごめんね」

 凄まじい煽り文句を口にする及川に、港の方がひやりとする。比較的事なかれ主義である及川が、相手の何かを爆発させようと挑発している様は、まるでバレーの試合中の奴のようである。相手が何を言われたら腹が立つか、観察力の優れた及川は良く分かっているのだ。しかし、分かっていながらそれを避けるではなく、真正面から浴びせるところに及川が「性格が悪い」と言われる部分が現れる。これには流石に横尾も腸が煮えくり返ったようで、思い切りその整った顔をしかめてみせた。
しかし、及川が港の肩から手を離し、ゆっくりと横尾に近づいていったことに、横尾は少し怖じ気づいたようだった。何せ及川は、成人男性の身長を悠に越える高身長である。そんな図体の大きい男に至近距離で凄まれては、流石に恐怖心が湧いたらしい。更に、口調は笑っているのに目が笑っていない及川に気付いたのか、横尾は言い返そうとして黙り込む。怯んだという事もあるのだろうが、きっと何と言い返すか、上手い言葉も思いつかないのだろう。最終的に「そんな怪力女相手にマジになって、馬鹿じゃねーの」なんて吐き出した後、横尾はこの場からそそくさと退散していった。嵐が去って行ったような静けさの中、及川と港の間に、少しだけ気まずい空気が流れる。

「……ごめん」

 そして、先に口を開いたのは及川だった。先程の冷たい声色は少しだけ和らいではいたが、どこか申し訳なさの含まれた口調に、港は慌てる。

「別に及川は悪く無いでしょ」
「俺のせいでしょ。どこからどう考えても」

 「あーもう……」と零し、及川は片手で顔を覆った。何やら唸っているようだったので、港は及川の正面に回り込む。今回の件は、及川のせいだというにはあまりにも酷だ。

「嫌になった?」
「……え?」
「こんな嫌がらせ、普通だったらされないよ」

 暗に、自分と付き合っているからこうなったのだと、及川は言いたいのだろう。それに対し、港は「あぁ」と内心でぼやく。こんな時に言うべきではないのかもしれない。しかし、言ってしまいたい衝動にかられた港は、そのまま馬鹿正直に思った事を口にした。

「正直な事言ってもいい?」
「……何」
「私、及川に助けて貰えて嬉しかった」
「……何それ」

 顔を覆っていた手を少しずらし、及川は正面に立つ港を見下ろす。それに気付いた港は、続けて先程の己の気持ちを素直に打ち明ける。

「なんだか、大事にしてもらえてる彼女みたいで嬉しかったから、大丈夫!」

 漫画やドラマでしか見た事の無い事を、自身が体験できるとは思いもしなかった。己のたくましさから、か弱い女の子のように守ってもらえることなんて、ほぼ無いに等しい。そんな自分の肩を抱き寄せ、横尾に対して怒っている及川を見上げて、場違いにもときめいてしまったのだ。熱くそんな事を語る港の発言に毒気を抜かれたのか、及川は先程の気まずいような表情から、呆れたような表情に変わる。そういうことではないだろう、と言いかけた及川ではあったが、港が鼻息荒く喋るものだから、その気すらどうでも良くなった。

「……俺も悪いけどさ、これでもその……お前を大事にしてるつもりだよ」
「分かってるよ」
「……本当に?」

 分かってるのお前? なんて言いながら、及川は港の頬をむにりと摘む。何やら抗議に近い物を感じたが、港は頬を摘まれながらコクコクと頷く。皮膚がひっぱられて少しだけ痛かったが、「なら良かった」と呟いた及川は、ここでやっと少しだけ笑った。それに港も嬉しくなって笑みを浮かべたのだが、ふと及川の後方辺りでこちらの様子を伺っている一団の姿を確認し、硬直する。何を話していたのかは聞こえてはいないだろうが、先程の自分たちのやり取りの様子を見ていたのだろう。及川と同じジャージを着ている一団は、何処からどうみても及川の所属するバレー部のチームメイトである。野次馬よろしく、堂々とこちらの様子を伺っているメンバーの中に、見覚えのある人物の姿もあって、港は羞恥に襲われる。

「どうしよう及川……さっきのやり取り見られてたかも」
「だろうね。まぁ内容は分からないだろうからいいんじゃない?」

 ここ人目がつくし、しょうがないでしょ。言いながら、及川は港の手をさらりと攫い、ゆるりと歩き出した。手を引かれるままに慌ててついて歩いた港ではあったが、後方から上がった「ヒュー!」とはやし立てる声を耳にし、少しだけ赤くなる。

「及川、」
「お前、今日この後どうせ暇でしょ。うちに来れば?」
「え?」
「何かごちそうしてあげるよ」

 ごちそう、という言葉を聞いて、港は分かりやすく目を輝かせた。少し悔しい部分でもあるが、及川は料理が上手いのだ。初めて及川の手料理を食べた時、「この男何でもできるのか……」と嫉妬もしたが、美味しいご飯を食べられるというのは港にとってありがたいことだった。それも及川と一緒に食べられるのだから、尚更である。

「行く!」
「そっか。それじゃ帰りにスーパーにでも寄ろうか」

 明らかに機嫌の良くなった港に気付いて、及川は呆れたように笑った。そうして二人で手を繋ぎながら、大学校内を抜けて行く二人の間には、普段通りの空気が流れ始める。

「でも、私怪力女で良かったよ」
「え?」
「怪力女だったから、さっきキスされそうになったけど逃げられたし!」

 腕っ節の強さをアピールするように、港は自身の二の腕をパンを叩いてみせた。その辺の女のように柔ではない!と及川を安心させるための発言ではあったが、それを聞いた及川はすっと目を細めた。

「は? キスされそうになってたの?」
「……あっ」
「殴っとけばよかったな、アイツ……」

 チッと舌打をした及川に、港は慌てる。怒らせるつもりはなかったのだ、とフォローを入れるようにあたふたする港を見下ろし、及川は脱力するかのように息を吐き出した。

「……お前が彼女で良かったよ、ほんと」

 家に着いたら抱きしめても良い?なんて聞いてくる及川は、安心したような様子ではにかんだ。

溶け込む思慕の地固め

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