大学の休みを狙い、花巻はわざわざ東京にまで遊びに来ていた。花巻が最近好きになったバンドのライブチケットを、所用ができて急に参加出来なかった友人から譲り受け、棚からぼた餅とばかりに意気揚々と都会の地を踏む。宮城から東京への交通費や宿泊費など、学生にとってはそれなりに高くついてしまうものの、こんなチャンスは滅多にないので、この日の為に奮発した。駅を出てから携帯の地図アプリを頼りに、花巻はある目的地へと向かう。
 目指すは高校時代の元キャプテン、及川徹の一人暮らしの城である。宿泊費が浮かないかと思い、東京に住む及川に泊めてくれないかと頼むと、あっさりとOKをくれたものだから、花巻にとってはありがたい話である。この日の午前は所用があるらしく、駅には迎えに行けないが、昼頃には家に戻ると及川は言っていた。それならとりあえず、自力で及川の家に行くと伝え、公共交通機関を乗り継いで目的地を目指す。しかし、さすがに慣れない土地とあって迷う事も多く、花巻がやっとの思いで及川の家にたどり着いた頃には、昼がそれなりに過ぎてしまっていた。とりあえず「もうすぐ着く」とだけ及川に連絡を入れてあったためか、及川は部屋のベランダから外の様子を眺めながら、花巻が来るのを待っていた。

「マッキー久しぶりー!」

 花巻を見つけるや否や、ヒラリとベランダから手を振る及川は、高校の頃からなんら変わりない笑みを浮かべていた。そうして通された及川の部屋は、高校時代の及川の部屋に比べると随分と片付いおり、洒落た家具なんかがセンス良く置かれていた。なんというか、普通に洒落た空間で生活しているらしい及川に、花巻は妙な苛つきを覚える。なんだよコイツ完璧かよ……と眉間に皺を寄せていると、及川はそんな花巻の表情を見て急に吹き出した。

「この前岩ちゃんがうちに来た時も、そんな顔してたなぁ」
「あぁ、そう……」

 きっと岩泉も俺と同じ心境だったんだろう。及川の幼馴染みの嫌そうにしている顔を思い出し、花巻は脱力感に見舞われながら及川について歩き、部屋の真ん中に置かれたテーブルの前に座るよう促された。なんだかんだの長旅で疲れ、これ幸いとばかりに座布団の上に腰を下ろして一息つく。「飲み物準備するから待ってて」と言ってキッチンに引っ込んだ及川を見送り、花巻はテーブルの上に突っ伏した。やっと寛げる空間に付いたと脱力し、ぼんやりとしままベランダの方に視線を向ける。カーテンを開け放った先、ガラス戸越しに置かれたプランターには色とりどりのチューリップが咲いており、花巻は何気なくそれを眺める。

「及川、チューリップなんか育ててんの?」

 王子様みたい! なんて女にモテはやされる及川ではあるが、花を育てるような奴だっただろうか。そんな純粋な花巻の質問が聞き取れなかったらしく、及川は「何?」とキッチンから再度尋ねる。

「チューリップ、育ててんの?」
「あぁ、それね」

 両手にコップを持ってキッチンから戻って来た及川は、なんだか妙に楽しそうに笑っている。「はい、お茶」なんて言いながらコップを二つテーブルに置き、及川は花巻の正面にあぐらをかいて座り込む。何がそんなに面白いのか、機嫌の良さそうな及川に首を傾げたが、答えはすぐに及川の口から明かされた。

「有馬が育ててるんだよ、それ」
「……は?」

 有馬とは、高校時代の同級生で、女子バレー部元セッター、そして及川の今の彼女である。運動も得意で妙にたくましく、影でアマゾネスなんて呼ばれているような女だったはずだ。あの有馬が花を育てている、というだけでもそれなりに衝撃だったのに、それを更に及川の家で世話しているというのだから驚きである。花を育てるなら自分の家でやればいいものを、及川の家にわざわざ花を置くということは、有馬はそれなりに及川の家に通っているのだろうか。高校時代に「こいつらキスとかしたりすんのかな……」なんて考えて想像のつかなかった花巻ではあるが、まさか遠回しにそれなりにイチャついているという事を知らされるとは思いもしない。

「……有馬が花を育ててるって、なんか意外だな」
「だよね。アイツが水やってる姿見てて、俺もなんだか変な感じするもん」

 「有馬は花を育てるというより食ってそう」と続けて言う及川の発言は、とても彼女に向けるようなものでは無い。イチャついているのかと思えば、この甘さの欠片も見られないような言葉を口にする及川に、花巻はどこか懐かしさを覚えた。高校を卒業して数ヶ月しかたっていないのに、まるで随分昔の事のように思えてしまうから不思議だ。
 そうして花巻はぼんやりと、及川とその彼女の、高校時代の印象のある出来事を思い出し始めた。



 年度末、学校で大掃除をした時だった。ゴミ捨てから戻って来た花巻は、通りかかった6組の前で何やら話し込んでいるバレー部員達を見つけた。一人は我が部の元主将、女子バレー部の元セッターである及川の彼女、そして同じく元女子バレー部で巨乳の長谷川さん、そして温田である。集まって何をしているのかと花巻がその集団に近寄った時、その輪の中にいた温田がふいに何かを取り出した。それが何なのかは分からないが、長谷川さんは温田から受け取ったそれをしばらく見つめた後、恥ずかしそうにそれを頭にくっつけた。ここで花巻はやっと、温田が何を持っていたのか気付き、緩やかに輪の中に入る。

「何してんの?」
「うわっ、びっくりした……マッキーか」

 あからさまに肩をびくつかせた及川は片手に箒、もう片方の手には何故だか二本の長い耳のついたカチューシャを握っていた。何でそんなものを及川が持っているのか聞きたいところではあるが、とりあえずは目の前の長谷川さんを見るのが先決である。巨乳で可愛いと人気のある長谷川さんは、頭に三角形の耳のついたカチューシャを被っているのだが、それが恐ろしく似合っているから目の保養だ。

「長谷川さん、ネコミミ似合うね」
「そ、そうかな……? ありがとう」

 少し照れくさそうにしている長谷川さんを眺めた後、花巻は本題とばかりに、この集団が今何をしているところなのか尋ねる。そもそもなぜこんな所にネコミミとウサミミのカチューシャがあるのか、そしてそれを何故長谷川さんが素直に頭につけたのかが気になるところだ。
 曰く、温田が自分のロッカーの中を整理していたら、おふざけで持ちこんだネコミミとウサミミのカチューシャが出て来たらしい。そういえば一度部室にそんなものを持ってきて、岩泉の頭につけようと格闘していたなと思い出す。あの時のものが未だにロッカーに置き去りにされていたらしく、終業式を控えた今日発掘したのだという。
そしてノリで長谷川さんに「つけて!」と頼んだら、良く分からないままに長谷川さんも頭につけてくれたらしい。長谷川さんて意外にノリ良いんだな……と思いながら、花巻は及川の手にあるウサミミに視線を落とす。

「で、及川がそれつけんの?」
「まさか、そんなわけないでしょ」

 冗談はやめてよ、なんて言う及川ではあるが、正直似合う気がしないでもない。しかし、最高に腹立たしくなる気がしたので花巻はそれを口にすることなく、及川の隣に立っている港に視線を向ける。そしてここでふと、花巻は妙な事を思いついた。

「有馬つけてみれば?」
「えっ」
「は?」

 不意を打たれたらしく、及川と有馬は驚きの声を上げる。二人揃って「何で私?」「何で有馬?」と不満げな顔をするカップルに対し「つけてみなよ!」と勧めるのが温田と長谷川さんの天然コンビである。そうして少しの問答があったものの、最終的に有馬がウサミミをつけることになった。恐る恐るウサミミカチューシャを手に取り、有馬はゴクリと息を飲む。そこまで緊張しなくても……とは思ったが、有馬はこういうものをつけてみるという機会が無かったのだろう。影でアマゾネスと呼ばれている程なのだから、それも分からなくはない。そんな普段慣れない事を勧められた有馬も驚いたのだろうが、内心では少し「やってみたい」と思わないでも無かったのかもしれない。おずおずと頭にウサミミのカチューシャをつけた有馬は、この後どうすればいいか分からずに少し俯いたままである。有馬がやや羞恥が混じっている事に気付いているだろう長谷川さんは、「港ちゃん似合ってるよ〜!」とニコニコしている。それにウンウンと頷いた温田は、ふと話を派生させる。

「おれさ、ネコミミとウサミミだったらウサミミ派なんだけど…」

 腕を組みながら、うーんと唸った温田は、そのまま隣に立っている及川に視線を向けながら、有馬と長谷川さん二人を両手で指差した。

「及川はどっちが好み?」

 温田はただ、ネコミミかウサミミ、どちらがいいか聞きたいだけなのだろうが、質問の仕方が悪かった。これではまるで『ネコミミをつけた長谷川さん』か『ウサミミをつけた有馬』のどちらが良いか、尋ねているようなものだ。カチューシャをつければと提案しておいて申し訳ないが、もうちょっと聞き方を考えろよと花巻は慌てる。これが岩泉だったならば、特になんのためらいもなくサラリと自身の彼女を指して「こいつが好み」などと宣うだろう。ネコミミだろうがウサミミだろうが、つけている人間がそもそも好きな女であれば、岩泉に迷いは無い。ついでにそれを聞いた彼女の栗原さんは、赤面して顔を覆い、膝から崩れ落ちる可能性がある。それに対し、こんな人前でそんな事を言われた及川は、幼馴染みのような開き直ったことができるはずも無い。「あいつの事別に好きとかじゃないし」と散々悩んだ結果、ちゃっかり付き合い始めているくらいには有馬の事が気になってるくせに、それを正直にできないのが及川の不憫な部分だ。しかし、この時の及川は珍しく迷ったようだった。
 一瞬だけ彼女の有馬に視線を向けた後「うーん、そうだねぇ」なんて言って流れるような所作で腕を組んだ。いつもの調子なら、即答で「長谷川さんかな」なんて答えて、有馬と微妙に険悪な空気になるのが常だ。即答しなかっただけ、及川も内心で「どうしよう」なんて思うくらいには有馬の事を気にしている。及川も徐々に変わってきてるんだな……と花巻が感慨深く思っているタイミングで、及川は「長谷川さんかな!」と明るく言い放った。ネコミミでもなくウサミミでもなく、長谷川さんの名前を呼んだ辺りが意識し過ぎだ。本当にこいつは期待を裏切らない。しかし、この及川の発言に対する有馬の反応は、いつもと少し違った。

「まぁ、そうだろうね」

 いつもなら「でしょうね」と苛ついた様子で及川に睨みをきかせているというのに、今回はその勢いにキレが無い。「分かってるよ」と開き直っているような有馬さんではあるが、及川の発言に少しだけ落ち込んでいるような、そんな気がした。それを感じ取ったのは花巻だけでなく、発言した当の本人である及川もだった。一瞬固まった及川を他所に、温田は「ネコミミ派か」と呑気な発言をし、選ばれた長谷川さんは可愛い顔で及川を軽く睨んだ。

「こら、なにしてるんだお前ら」

 そしてこのタイミングで、六組の担任の先生に見つかった。動物の耳のついたカチューシャをつけていた女子二人は慌てて、頭につけたものを取り外し、誤摩化すように掃除をしに教室に戻っていく。カチューシャの事は流石に追及されるんじゃ……と思ったが、なんだかんだで先生は特に深く突っ込まず、掃除しろよ!と注意するだけだった。教室に戻って行った3人を他所に、及川だけは廊下に残り、箒片手にハァとため息をつく。こうして掃除に戻ったはいいが、及川は未だに、居心地悪そうに教室内の有馬の様子を窺っていた。明らかに気にしている及川に、花巻は思わずため息をつきたくなった。

「…そんな気になるなら、あんな事言わなきゃ良かったのに」
「……」

 花巻の言葉が痛いのか、及川は緩慢な動作で箒を握り直し、ゆっくりと口を開く。

「マッキーは教室に戻らなくていいの?」
「俺のクラスもうほぼ掃除終わったから」
「早くない……?」

 はぁ……とため息をついた及川は、箒を持ったまま、教室内でせっせと机を運んでいる有馬に視線を向ける。他に机運びをしている女子に比べ、移動させるペースが早いのが彼女らしい。

「……言うんじゃなかった」
「今更後悔してんの?」
「まぁね」

 流石の及川も後悔しているらしい。少し落ち込んでいたらしい有馬の様子が突き刺さっているのか、妙に大人しくなっている及川を横目に、花巻は罪悪感に襲われる。ウサミミをつけた有馬を見たら及川はどんな反応をするんだろう、なんて少しの好奇心での自身の発言が、最終的にこんな結果をもたらしてしまった。悪い事をしたなぁと頭を掻き、花巻は一転して及川のフォローに回る。

「まぁでも、そこまで及川が悪いとは思わねーよ。人のいる場所であんなこと聞かれて素直に答えたら、それはそれでからかわれるし……」

 及川が妙に静かなものだから、何だか調子が狂う。どうしたものか……と花巻が様子を伺っていると、及川は箒の柄に両手をかぶせて、遠くを見るようにその上に顎を乗せた。

「あいつさ、気にしてるんだよ」
「……何を?」
「釣り合うとか、釣り合わないとか」
「……あぁ」

 及川の発言を聞き、花巻はぼんやりと及川の過去の彼女達を思い出す。中学の頃の事は知らないが、高校生になってからの及川には数人の彼女がいた。どの子も憎らしい程に可愛くて、ぶっちゃけ羨ましいと思う部分もあった。しかし成る程、今回有馬と付き合い始めた及川に対して特に何も思わないところを考えると、及川の言いたい事はなんとなく分かる。有馬も及川の元彼女達の事は知っているだろうし、だからこそ及川の相手が自分でいいのか不安なのだろう。

「ゴリラのくせに、そういうところ女の子らしく悩んじゃうみたい」
「へぇ〜……俺はゴリラ同士、お似合いだと思うけど」
「……失礼だな」

 自分で有馬の事をゴリラと言っておいて、他人にそう言われると不満らしい。いや、今のは自分がゴリラと言われた事に対しての文句なのかもしれない、と一瞬脳裏を過ったが、なんとなくそうではないのだと花巻は察した。お前は面倒くさい女かよ、と内心でツッコミながら、花巻はもたれ掛かっていた手すりから背中を離す。流石にそろそろ教室に戻っておかないとまずい頃合いである。

「もっと自信持っていいのに……」

 及川が、そんな事をボソリと呟いたような気がした。そんなこと俺に言ってどうする、とあの時の俺は言ったのかそうでなかったか、今となってはハッキリと覚えていない。



 ベランダに置かれたチューリップをガラス戸越しに眺めてから、花巻はお茶の入ったコップを煽る。何であの時の事をこんなに覚えているんだろうとは思う。多分、及川の異常な静けさが珍しくて、印象深かったからだろう。「ああコイツ、有馬の事好きなんだな」と花巻でさえ一瞬で理解してしまった程である。あの後、及川は有馬に何か謝ったり訂正したりしたのかは、花巻の知るところではない。しかし、こうして未だに交際を続けている辺り、大事には至らなかったという結果だけは分かった。

「つーか及川、腹減った。なんか食いもんねぇ?」
「さっきラーメン出前したから、そろそろ来ると思う」
「マジでか」

 ここまで迷いに迷いながら歩いて来たものだから、空腹はもはや限界に近かった。早く出前来ねぇかなぁ……とラーメンを待つ事ほんの数分、及川の部屋のインターホンが室内に響いた。

「来たみたい」
「うっし、俺が出る」

 早くラーメンにありつきたいと意気揚々と立ち上がった花巻を認めて、及川もクスクスと笑いながらゆっくりと腰を上げる。廊下をさっさと歩き、ドアのチェーンを外し解錠し、勢い良くドアを開ける。しかし、ドアの先で待っていた人物の顔を見た瞬間、花巻は予想外の事に一瞬動きを止めることになった。てっきりラーメン屋の店員が来ると思っていたのに、花巻の目の前には見覚えのある人物が立っていた。

「……えっ、花巻?」
「おお……有馬久しぶり、何で……」

 言いかけて、花巻は有馬が手に持つ岡持に気付いた。『ラーメンゆみ屋』と書かれた銀色の箱、そして動きやすそうなポロシャツに、小さめのエプロンを身につけている有馬は、どこからどう見てもラーメン屋の店員だ。

「早かったね」
「……誰かさんが、急ぎでラーメン注文するからね」

 フンと鼻で笑って見せた有馬は、勝手知ったる及川の家に上がり込み、岡持をテーブルの上にガンと乗せた。テーブルが傷つく!と慌てる及川を他所に、有馬は久しぶりに会った花巻に顔を向け、この状況の説明をしてくれた。なんでも、有馬のバイト先の大将が及川の事気に入っていて、そのせいで彼女である有馬が及川宅の出前を任せられる事が多いらしい。及川はすでに常連化しており、更には常連特権でたまに割引もして貰えるために、有馬のバイト先にも現れるし、こうして出前を注文することもそこそこだとか。「こき使われるし、からかわれるしで困る」と有馬は愚痴を零すが、それ単に及川が有馬に会いたいだけじゃね?と花巻は心の内でツッコミを入れる。及川も及川で、相変わらずであるらしい。

「花巻が来てるんなら教えてよ」
「いや、びっくりするかと思って」
「びっくりしたよ、もう……」

 言いながら、有馬は持って来た岡持を開け、ラーメンの入ったドンブリを二つ取り出した。溢れないようにとラップをかけられている熱々のラーメンは、透明なビニール越しにも食欲をそそる。それをテーブルの上にトンと置いている有馬を眺めながら、花巻はふと有馬の髪についているヘアゴムに視線を奪われた。有馬は髪をひとまとめにしており、その髪をまとめているゴムにはウサギの形をした木の飾りがついている。ウサギというモチーフがあまりにも先程思い出していた過去の出来事とマッチしていて、花巻は思わずじっと有馬を凝視する。そしてこのタイミングで、及川は何故だかキッチンの方に引っ込んだ。

「……何、花巻?」
「いやさ…さっきちょっと思い出したんだけど…有馬、高校の時ウサミミつけてたことあったよな?」

 ここまで尋ねて、花巻はしまった!と自身の軽率な発言を反省する。多分あの時の事を覚えていたとしても、有馬にとっては苦い記憶だろう。余計な事を思い出させてしまったかもしれない、と一瞬青くなった花巻だったが、尋ねられた有馬本人は暫く無言になった後、何故か顔を赤らめた。え? と首を傾げる花巻と、固まった有馬が視線を交える事数秒。我に返ったらしい有馬は、慌てて周りを見渡し、及川がキッチンの方に行っている事に気付いてホッと息をつく。何が何だか分かっていない花巻は、未だに疑問符を浮かべたままである。そしてそんな花巻に気付いて、有馬はもう一度この場に及川が居ない事を確認し、俯きがちに「うーん」と悩んでから、花巻にこそりと耳打ちをする。

「実はこのヘアゴム、及川に貰ったの」
「……は?」
「猫と兎で悩んだ、って…貰った時に妙に力説してたんだけど…」

 あれは、そういう意味だったんだ。ポツリと零した有馬の呟きに、花巻はなんだか甘い空気にあてられた心地がした。まさかこの二人のそんなものを浴びせられるとは思っていなかった花巻は、唖然としたまま有馬を見下ろす。機嫌良さげな有馬は、そのまま花巻を置いて及川のいるキッチンの方に歩いて行く。
 呆気にとられたまま、花巻は有馬の髪にくっついているウサギのモチーフを見送り、目の前で何が起こったのかやっと理解した。それはあれか、及川は猫派ではなく兎派で、しかしそれは二重の意味を持っていて、それを遠回しに有馬に伝えたかったということなのか。

「……何だそれ」

 あの時の及川の有馬に対するフォローが、まさか今この時に判明するとは思いもしない。宿代が浮くからと、及川の家に来るんじゃなかったと後悔するくらいには、今の花巻は現実が飲み込めない。

「及川、今日はおまけで飴あげるよ」
「は? それラーメン屋にいつも置いてあるやつじゃん……」
「美味しいんだからいいじゃん」
「……まぁいいけど。というか有馬、お前この前水筒忘れて帰ってたよ」
「えっ」
「ほら、洗っておいたから持って帰って」

 キッチンから聞こえてくる会話を聞きながら、花巻は現実逃避すべくテーブルの前に座り込む。一体、何がどうなってこんなことになったのか。そんなことを尋ねたところで、誰も教えてはくれないのは分かっている。これは宮城に帰ったら、高校時代の友人達を集めて報告する必要がありそうだ。そうして花巻は一人、届けられたばかりのラーメンを一人でズルズルと啜りはじめた。

チューリップだけが知っている

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