「キャンプ行かない?」

 及川の誘いは、非常に唐突なものだった。なんでも大学の友人の家がキャンプ場を経営しており、そこに数日だけバイトに来れないかと声をかけられたらしい。春のキャンプツアーという企画のために人手が欲しいらしいが、希望の人数が集まらないので、どうにか頼みたいとのことだ。二泊三日と泊まり込みで、その間キャンプ場でツアーのアシスタントをするのが仕事内容である。お給料が出るのも当然ながら、バイト中の飲食、寝泊まりはただで、空いた時間は好きにしていいという待遇付きである。ツアーの日にちは及川にも珍しく固まった休みが有ったものの、折角の休日だしデートにでも行こうかと思っていたらしい。最初は断ろうかと思っていたらしい及川は、ふとある解決策を思いついた。そのバイトに港を連れて行けば、バイトもできるしキャンプという名前のデートにもなるし、飲食もただとあれば美味しい話なのではないか。そうして及川に声をかけられた港は、及川と一緒に春のキャンプツアーの手伝い行く事になり、今に至る。

「お手伝いの加古川です、カコちゃんて呼んでください!」

 ツアー担当者によるキャンプの説明が終わった後、キャンプに参加する親子と数日間一緒に過ごすということで、アシスタント達は自己紹介をしていくことになった。そんな中、この流れはまずいと港は一人、内心で冷や汗を流す。自己紹介の戦陣をきった人間が、「あだ名で呼んでください!」なんて言うものだから、後に続く全員が同じような事を口にしていく。あだ名、と言われて港の頭に思い浮かぶのは、隣に立っている及川がよく口にする「アマゾネス」というワードである。小学校でも中学でも高校でも、あだ名よりも本名で呼ばれることの多かった港には、正直に言ってこれしかない。あだ名と言うよりは、かなり陰口に近い呼ばれ方である。しかし、これを口にしていいものか……とぐるぐると悩んでいる間に、自己紹介は港の番まで回って来てしまった。先程から港が何やら悩んでいる事に気がついていた及川は、隣に立ったまま静かに様子を窺っている。ええい、もうこうなったら自棄だ! と腹をくくり、港はスンと鼻を鳴らした。

「お手伝いの有馬です。高校の頃のあだ名はアマゾネスでした。体力には自信があります、よろしくお願いします!」

 とても女のするような自己紹介では無かった。そんな港の発言に吹き出すアシスタント達、そして「アマゾネスかー!」と意味も分からず声をあげる子供達の様子からは、どうやら掴みはOKらしい事は分かった。しかし、女として何か大事なものをかなぐり捨てた感じは否めない。隣に立つ及川は、平静を装っているものの、微妙に笑いを堪えているようであった。お前それは無いわ、と及川に言われているような気はしたが、港はキャンプ開始早々に開き直る事にした。春のキャンプツアーという名の、年変わりの親睦会というものが主な目的であろう参加者の親子達。そのアシスタントとなれば、キャンプ関連の準備は当然ながら、子供達の相手が主な仕事となってくる。
 まだ日も高く、たき火の準備もまだ早時間帯。保護者達がのんびり休憩している傍らで、アシスタント達は子供達と思い思いに遊んでいた。男の子と鬼ごっこをしている男性陣に混じっている港と言えば、男の子達から「おいアマゾネス!」などと呼ばれそれなりに人気である。嬉しいような嬉しくないような……などと複雑な心境に襲われながら子供達と戯れながら、チラリと女の子達と一緒に遊んでいる他の女性アシスタント達を眺める。どうやらキャンプ場にある小さな小屋や小物使い、本格的なママゴトをしているらしい。そしてそのママゴトの輪の中に、唯一男の及川が混じっているというのがなんとも言えない。

「じゃあ、あたしがママ役だから、及川さんが旦那さんね!」
「えー! わたしがママ役したい」
「あたしも!」

 どうやら旦那の取り合いをしているらしい。彼女達のママゴトは、修羅場まで巻き起こす程のリアルさである。そして及川の、「順番にしようか」という気をつかっての言葉が、最低な男の発言にしか聞こえないのが少し面白い。

「ゾネっさんもママゴトしてーの?」

 彼女達の様子を眺めていた事に気がついたのか、男の子の一人が唐突に口を開いた。アマゾネス、と呼ぶのが面倒くさくて『ゾネっさん』などという新たなニックネームをいつの間にかつけられていた。それに苦笑いを浮かべた港は、男の子の質問に答えようとして少し思いとどまる。ママゴトをしている及川が気になったというのが一番ではあるが、もしここでママゴトをしたいと言ったら、彼らは付き合ってくれるのだろうか。

「ちょっとしたいかも……」
「ゾネっさん何やるの?」
「ペットの狼?」
「いやボディーガードでしょ」

 ペットはまだ分かるとして狼とはどういうことなのか。そしてボディーガードが必要なママゴトとは、一体どんな家庭設定なのか。内心でツッコミを入れている間に、男の子達はママゴトをしている女の子達のところへ行き、「ゾネっさんママゴトしたいらしいから入れてあげて〜」などと中々に積極的な行動を見せる。まるで仲間に入れない可哀想な港に、気を利かせてくれたクラスの中心人物さながらの行動をとる男の子の行動に、港は頭が上がらない思いである。しかし、こうして集中する視線に、港はなんだかもう恥ずかしくて穴があったら入ってしまいたい衝動にかられた。
 午前から午後の最初にかけてはこうして普通に遊び、途中からはキャンプの準備にとりかかる。テント組み立てから火起こしなど、及川は特に女性陣から引っ張りだこである。家族でキャンプにたまに行くらしい及川は、キャンプ場の勝手を知っている為に、手伝いに呼ばれても難無くこなす。一方港は、キャンプに慣れているというわけでもないということで、適当に子供達が入るドラム缶風呂の風呂炊きに任命された。ひたすらに水温を確かめつつ薪を入れ、川から汲んできた水が温かくなるのを待ちながら、港は火を起こしている及川を遠目に眺める。及川はいつの間にか、春のキャンプツアーには参加していない、一般客の手伝いにまで駆り出されていた。

「わーすご〜い、火をつけるの上手ですね〜」

 及川の傍にしゃがみ、そう褒める女性の声が聞こえてくるものだから、港は内心面白くない。「火を起こすのなんて簡単じゃないか……」なんてボソボソと言ってみるものの、港のそんな呟きは及川にもあの女性にも伝わらない。及川が女にモテるのは旧知の事実である。それを今更とやかく言うつもりはないが、実際その光景を目の当たりにすると、妙に冷静でいられない。こういう薄暗い感情だけは女らしく持ち合わせている自分にため息をつきながら、港は洗い物を終えて水道の蛇口を締めた。高校の頃、及川が当時付き合っていた可愛い彼女に対して、クラスの女子が陰口を言っていたのを聞いたことがある。「男の前でキャラ変わるよね」なんて共感し合っていた彼女達の話を耳で拾いながら、ただの嫉妬だろうと片付けていた自分が、こうして『嫉妬』というものを抱え込む日が来るとは思いもしなかった。彼女達の言葉を借りれば「あの女大して凄いとも思ってないくせに、ご機嫌取りに褒めとこうとかいう魂胆丸見え」である。
私も嫌な女だ。

「湯加減どう?」

 港がモヤモヤとしている間に、及川は仕事を終えてこちらに戻って来た。まだ春先であるにも関わらず、既に上着を脱いでしまい、半袖Tシャツ一枚の姿でタオルまで首にひっかけている。

「もうちょっとでいい感じになりそう」
「そう。そろそろ肝試しの準備もしないといけないし、急ぎなよ」
「ああ、そっか……」

 これから希望者はドラム缶風呂に入り、その後すぐにバーベキューをして、肝試しの流れとなっている。及川も港も、二人して森の山道に隠れて脅かす役なので、明るいうちに現場の下見にしておきたいところである。慌ててバタバタとウチワで風を送り始めた港を見かね、及川も傍にしゃがんで薪をポイポイと入れ始めた。どうやら手伝ってくれるらしいが、二人で一生懸命に子供達の入る風呂を沸かしているこの状況が、なんとも可笑しい。

「なんだか、あんまりデートっぽくないね」

 バイトついでのキャンプでのデートなのか、そうでないのか今となっては曖昧である。別に楽しく無いわけではないが、どちらかというと普通に及川と一緒にバイトをしているだけのような気分だ。何気なくそう言ってクスクスと笑う港を横目で見ながら、及川は妙に落ち着いた様子で薪を弄ぶ。

「そんな有馬さんにお知らせがあります」
「何?」
「俺達の今日の寝床、一緒のテントらしいよ」
「……え?」

 バタリ、と港が扇いでいたうちわの動きが止まる。それはどういう意味なのか。
ゆっくりと及川の方に港が顔を向けると、及川は何食わぬ様子でポイと薪を火の中に放り込んだ。

「友達に彼女と一緒にバイト行くって言ったせいだと思う。二人用のテント貸すから使って、ってさっきオーナーに言われた」
「……」

 先程までバイト気分で普段通りだったというのに、急にそんなことを言われてもどういう反応を示せばいいのか分からない。てっきりバイトメンバーは男女別に固まって宿舎に泊まる事になるのかと思っていたのに、まさかそんな事になるとは思いもしない。港はここで、いつぞやDVDのパッケージ裏で見た、男女がベッドに沈むワンカットを思い出した。あの時は、及川もそういう事に興味あるのかなぁ……なんて考えはしたものの、気恥ずかしくて考えないようにしていたというのに。恐る恐る隣の男の様子を伺うと、及川は先程の表情に比べ何やら深刻そうである。まさか及川も同じ事を考えているんのか……? と港が赤くなったところで、及川はゆっくりと口を開いた。

「テントってさ、結構狭いじゃん?」
「……まぁ」
「そこに俺とお前が一緒に寝るって……」
「……うん」
「正直…お前の寝相悪そうだからちょっと怖い」
「……」

 そこかよ、と思わず内心でツッコミを入れながら、港はバシンと及川の背中を叩いた。期待した私が馬鹿だった。いや、別にそういう期待をしていたわけではないが。「だってお前の寝相悪いって女バレの間で有名だったじゃん!」と喚く及川の発言を無視し、港はドラム缶のお湯の中に手を突っこんで湯加減を確認した。



 ドラム缶風呂に入りはしゃぐ男の子達の相手に苦戦した後、バーベキューでお腹を満たし、そしてその次はお待ちかねの肝試しを行なった。キャンプツアーに参加している女の子は「怖い」という理由でほとんど参加せず、やんちゃな男の子とその保護者ばかりのメンバーだけで開催された。元気そうにキャッキャとしている男の子より、保護者のお父さんの方が顔色が悪かったりといろいろ心配な部分はあったものの、そんな肝試しもなんとか無事に終わった。後はもう風呂に入って就寝するだけということもあり、アシスタントの仕事も一日目は終了ということになった。ここからやっとプライベートな時間ではあるのものの、既に時間も遅く、一日中歩き回ったりしていたせいで体力も限界に近いため、遊び回る元気も無い。
 宿舎のシャワーを借り、着替えを済ませて寝る準備も万端。キャンプツアーの参加者達から少し離れた場所に設置されているテントの前、短い草原の上で港は仰向けに寝転がっていた。木々の少ないこの場所からは、満点の星空がよく見える。こうしてまじまじと、夜空を眺めたことはなかったかもしれない。なんて綺麗なんだろう、と思いながらぼんやりとしていると、近場で草を踏みしめる音が聞こえた。どうやら、及川がやっとシャワーから戻って来たようである。

「遅かったね」
「俺綺麗好きだからさ、ちょっとね。ところでお前は何してるの?」
「星座鑑賞」
「ふーん……」

 言いながら、及川も港の隣に腰を下ろし、ごろりと寝転ぶ。風呂から上がりたての綺麗好きが、草原の上に寝転ぶというのはなんとも矛盾している。及川は誤摩化しているつもりだろうが、なんとなく見当はついている。きっと女の人に声をかけられたりして、その対応で戻ってくるのが遅くなったのだろう。まるで漫画のモテ男のようだと、港は心の内でため息をついた。それを港に知られないようにしている及川の優しさも、じわりと胸に染み込んでいく。

「……結構綺麗に星が見えるね、ここ」
「うん…。なんだか、宮城が懐かしいや」
「はは、確かに」

 あっちではよく見えてたからね、なんて何気ない会話をしながら、及川はゆるりと右手を上げる。あれが獅子座、あれが乙女座、なんて星座の名前を言い当てはじめるも、星座に詳しく無い港にはいまいち分からない。そもそも、何故そんな事に詳しいのだろう。

「なんでそんなに星座のこと知ってるの?」
「男が星座の事詳しかったら、なんかロマンチックでしょ。キャー素敵〜ってならない?」
「……それを聞いたら全然そんな感じにならない」

 女を落とすテクニックの一環として覚えているのか、なんて奴だ。ある意味感心しながら苦笑いを浮かべると、及川は「だよねー」と棒読みで返す。「及川だって分かってるんじゃないか」と港が口を開こうとしたタイミングで、突然二人の思わぬ方向から声が発せられた。

「あー! お兄ちゃんとお姉ちゃんイチャイチャしてる〜!」

 驚いて二人して慌てて上半身を起こすと、丁度視線の先辺りの小道に、見慣れた男の子がお母さんと一緒に立っていた。どこからどう見ても、一緒のキャンプツアーの参加者である男の子は、お母さんにしっかりと手を引かれている。夜の時間とあって、お母さんにトイレに付いて来て貰い、どうやらその帰りらしい。コラッと慌てて息子を諌めた母親は、申し訳無さそうにぺこぺこを頭を下げて、港達の前からそそくさと去って行く。草原の上でくつろいでいるところを見られ、第三者に「いちゃついてる」などと指摘され、二人して妙な気恥ずかしさに襲われる。ただ寝転がって星空を見ていただけだったのだが、あの男の子にはカップルのそれに見えたらしい。それがほんの少し嬉しかったような、そうでないような複雑な心境に襲われながら、港はちらりと隣を窺う。この事を及川に言えば、この男は一体どんな反応をするだろう。そんな視線を身に受けているとは気付いていない及川は、ぽりぽりと首裏を掻いた。

「……そろそろ寝る?」
「そうだね…」

 明日、あの男の子に会った時にどんな反応を示されるのかと考えると、恐ろしくもある。しかし、こんなところで寝転がっていた自分たちが悪いのだと反省し、テントの中に入っていった及川の後に港も続く。テントの中に持ち込んだランプを及川がつけたのを確認し、港は外に置いたランプの明かりを消し、テントの入り口のジッパーを下ろそうとして、ふと動きを止めた。
 丁度港達のテントの前方辺り。このキャンプ場所に遊びに来ている人々のテントがポツリポツリと立っており、どこのテントにも明かりがぽつりと灯っている。そんな中の一つのテントで、何やら二人の人間が重なり合った影が一瞬見えた。
テントの中に置いているランプの光のせいで、中にいる人間が何をしているのかシルエットが浮かび上がり、外から中で何をしているのか丸見えなのだ。それが明らかに抱き合っている男女の影だと確信し、港は慌てて目を逸らし、テントの入り口のジッパーを勢い良く下げた。カップルで二人きりとあれば、そういう事をしてもおかしくはない。おかしくはないのだが、今このタイミングで港がその光景を目にしてしまったことが問題である。このテントの中には及川もいるというのに。そうして一人で勝手にドキドキとしていると、及川が寝転んだであろうボスリという物音が聞こえた。本当に眠いのか、及川は普段よりも低い唸り声のようなものを上げる。

「あ〜……結構疲れた」

 テントの中は、思っていたより狭く感じた。前にキャンプをした時、寝床の居心地が悪くてなかなかに寝られなかったが、今夜は別の意味で寝付けそうにない。思いの外快適な寝床の上に体育座りをし、妙に緊張している港に対し、及川はごろりと転がって動かない。気が抜けてくつろいでいる様子の及川は、仰向けに寝転んだままゆっくりと目を閉じる。

「これでやっと一日目が終わりかぁ…」
「……」
「……何、どうしたの」
「いや、何でも…」

 まさか先程、カップルの睦み合いを間接的に見てしまったから気まずい、などと言えるはずも無い。ははは、とぎこちなく笑ってみせる港に気付いて、及川は再びゆっくりと瞼を上げる。少しだけ怪しんでいるようであったが、それより疲労感が勝ったらしく、再び目を閉じて腹の上で指を組んだ。

「……今度さ」
「え?」
「バイトとかじゃなくて、普通にキャンプ行こうよ」
「……うん」

 素直に頷いた港に対し、及川はクスクスと笑う。それは良かった、と安堵の息を付いた及川を見下ろしながら、港はふと思い至る。

「……もしかして、悪かったな〜とか思ってる?」

 このキャンプのバイトに誘われた時、及川は「デートにもなるしいいんじゃない?」なんて言っていた。それが蓋を開けてみれば、子供達の面倒を見ることがメインで、デートなんて言葉はすっかりと抜け落ちてしまっている。恐らくその部分の事を気にしての発言だろうという港の予想は、どうやら当たりらしい。

「ちょっとね」
「バイトなんだから仕方ないよ」
「まぁ、そうなんだけど……」

 睡魔にじわじわと侵食されているのか、及川の口調はだんだんと緩慢なものになっていく。これはそろそろ寝てしまうんじゃ……と様子を窺いながら、港は狭いテントの中を移動して、自身の荷物の口を開ける。明日の着替えやタオルを取り出し、朝の準備を整えておこうとゴソゴソとカバンを漁る。ついでに携帯電話も取り出し、目覚ましでもセットしておこうかと画面をつけたところで、耳元を何かがかすめた。

「あのさ」

 温かい息が近い。それを耳伝いに感じ取り、不意の事に港は息をつめて固まった。妙な静けさがテント内を漂い、二人の間で数秒の無言が続く。先程まで横になっていたはずの及川が音も無く起きだして、港のすぐ背後にいる。それも触れそうな程に近い場所に。いつの間に……と港がゴクリと息を飲んだ音が、もしかしたら聞こえてしまったかもしれない。

「恋人っぽいことする?」

 及川から吐き出された言葉は、酷く甘美な誘いのように聞こえた。この男は見た目が整っていることに気をとられがちになるが、その落ち着いた声までも妙に色っぽいのだ。惚れた弱味というものもあるかもしれない。しかし、この男がたまに吐き出す、本音の混じった真剣な声色は本当に心臓に悪い。

「……恋人っぽいことって何?」
「うーん、そうだなぁ……」

 及川は、港が内心で狼狽えている事に気付いている。そんな様子の恋人は、肩を震わせるように笑いながら、やや楽しそうに考える素振りを見せる。

「とりあえずさ、こっち向きなよ」
「……」

 膝の上に置いた手が無意識に握りこぶしを作る程度には、港は動揺で静止する。そんな事を言われて、素直に振り向けるはずがない。振り向いたらどうなるのかなんて、流石の港にも分かりきっている。

「……」
「……いや、振り向けよ」
「嫌です」
「そんな取って食ったりしないからさ」
「本当に……?」
「俺もそこまで雑食じゃないから」

 それはどういう意味だ、とツッコミがてら振り向きそうになり、港は慌てて体の動きを止める。一応にも彼女相手に、雑食じゃないからなどと言うのはどうかと思うが、ここで振り向いたら及川の思うツボである。私は絶対に振り向かないぞ……! などと頑固にも及川に応じない姿勢をとると、及川は諦めたのか、暫くしてため息をついた。

「まぁいいや……。明日も早いし、そろそろ寝ようよ」

 ゴソゴソ、と布団の中に入り込むような、布ズレの音が後方から聞こえた。
それにホッと息をついた港ではあったが、ここでなんだか勿体ない事をしてしまったのではないかと今更後悔の念に駆られる。素直に振り向いて、及川の言う『恋人っぽいこと』とやらをした方が良かったのではないか。普段なかなかに甘い空気にならない自分達の、恋人らしくなれる貴重なきっかけを、自身の意固地さで無下にしてしまった。またやってしまった……と毎度ながら呆然とし、港は軽く頭を垂れる。いい加減に素直にならないと、いつか及川に捨てられそうだ。そうして妙な危機感に包まれたまま、港は就寝しようとしぶしぶ振り向いた。すでに自身の尻の下敷きにしている布団の中に潜り込もうと思っての、なんのためらいもない行動だった。しかし、港が振り向いた拍子に、後方にあった柔らかさのある何かにぶつかり、驚きで思考は一瞬停止する。予想外のことに慌て、ぶつかったものから顔を上げると、港のすぐ傍では未だ及川が片膝を立てて座っていた。何で、布団に入ったんじゃ…?と唇を震わせた港の様子を認め、及川は至近距離で満足そうに不敵に笑う。

「バーカ」

 詰めが甘いんだよ。妙に優しい蔑みの言葉の後、及川は目を伏せ、顔を傾けて流れるように港の口を塞いだ。久しぶりに触れ合った唇の柔らかい感触に、港はほんのりと紅潮する。唇と唇を合わせるだけのこの行為は、何故こんなにもドキドキとするのだろう。まるで他人事のようにぼんやりと考えながら、港もゆっくりと目を閉じる。数秒互いの呼吸を奪い、一度唇を離して視線を交えた後、言葉もなく何度も唇を重ねる。はじめは音もなく触れるだけだったものが、幾度もか繰り返すうちに可愛らしい水音をたてるようになり、港はガチリと背筋を伸ばした。ちゅ、という音が自分と及川の間で生み出されているという事実に、体温は上昇していく。

「……待って、及川」
「やだ」

 熱っぽさのある声色で断られ、港は羞恥やらなにやらで脳内での処理が追いつかず、何だか泣きたくなってしまう。思わず、縋るように及川の寝間着のTシャツを握り込んでしまっている港に気づき、及川も内心で口端を上げる。そして、背筋の伸びた港の背中に腕を回しぐっと引き寄せ、抱き合うようにキスを交わす。薄い布越しに伝わって来る及川の温度は心地よいはずなのに、酷い熱さに襲われているように錯覚させられる。
 はぁ、と息を合間で整えながら、ぼんやりとした思考で港が目を開けた時、及川越しにテントを照らすランプが視界に入った。オレンジ色の程よい明るさを発する、キャンプには欠かせないその必需品を眺めながら、港はテントの入り口を閉める前の事を鮮明に思い出した。先程、このテントの丁度正面辺りにあるテントの中で、男女が抱き合っているであろうシルエットがランプの光によって浮かび上がっていたのでは無かったか。それじゃあ今、テントの中で明かりをつけたままこんな事をしている自分たちも、周りに筒抜けなのではないか。そう思い至った瞬間、港はサァと顔を青冷めさせた。

「及川、本当に待って」
「……何で」
「明かり消さないと…何してるか周りにバレバレ…」
「……あぁ」

 港が言わんとしている事が伝わったのか、及川はやっとキスの応酬をやめ、光に照らされテラテラと反射する自身の口元を親指で軽く拭った。その妙に色っぽい仕草にドキリとした港は、どちらの唾液とも言えない程にまざりあっているそれが自身の唇をも覆っているのだと思い知り、沸騰しそうな程に茹で上がる。何やら、とんでもない事をしていたのではないか。唖然とする港の両手は、未だに及川の服を掴んだままである。そして目の前に座っている及川と言えば、先程の熱っぽさが少し抜け、普段通りの冷静な様子で、気が抜けるような事を口にした。

「……本当だ、見られてたらどうしよう…」
「……」


 翌日。キャンプツアー参加者の男の子二人が港と及川の目の前にやってきて、二人の目の前でキスの真似事を披露する事件が起こる等、この時の二人は考えたくも無かった。


イン ザ トライアングル

back