3月1日、天気は快晴。学校に登校して胸元に花をつけて貰った瞬間にやっと、今日自分は高校を卒業するのだと実感した。自身の教室に足を踏み入れると、登校して来た生徒は談笑しており、今日という日を迎えた事に対して皆さまざまな思いを語っていた。黒板に書かれた「卒業おめでとう」の文字と、思い思いに書かれた絵や落書きを眺めながら、港は自身の席についた。もう数分程で朝のHRが始まり、その後は今日のメインイベントである、青葉城西高校の卒業式である。
 卒業式の練習中は、長時間椅子に座りっぱなし、あるタイミングで起立をしたり歌ったり、港にとってはなんだか面倒なような楽なような、しかし暇な時間だった。しかしこうも本番を迎えてみると、感慨に浸る時間も長く、じわりと胸に広がるものがあった。三年間はあっという間だったなぁと過去の記憶を掘り起こしている間に、長い式典も呆気なく終わってしまい、港はなんだか変な心地のままに体育館を後にすることとなった。
 卒業式後の最後のHRも終え、帰り際になって友人達と集まり、最後の雑談や記念写真撮影などに勤しむ。
港もクラスの友人と写真を撮って貰い、今日のためにと持って来たデジカメの履歴を眺める。
友人達のように写真を多く撮るようなタイプではなかった港ではあるが、今日という日を迎えると、もっと写真という思い出を残しておけばよかったとしみじみと思う。大学生になったらたくさん写真を撮ろう……などとぼんやりと考えたが、港はそもそも志望の大学に通えるのかすら定かではない。先日受けた試験の結果は来週にならないと分からず、手放しにキャンパスライフに思いを馳せられないのが悲しいところだ。そうしてハァ……とため息をつきながら、港は教室内をそろりと見渡す。折角だし、及川とも写真を撮ろうかと思ったのだが、奴の姿は見当たらない。既に教室を出て行ってしまったのだろうか?と首を傾げていると、不意に近くで雑談していた男子達の一人が「及川は?」と港と同じ疑問を口にした。及川を探しているらしい彼は、クラス内で及川と良くつるんでいた男子グループの一員である。

「あれだよ、呼び出し」
「ああ……また告白か」

 及川にとっての日常に近い出来事に慣れたのか、彼らは及川が女子に呼び出されても大して驚きはしない。彼女である港でさえ「ああ、またか」と思う事案ではあるが、流石に不安は拭えない。及川は今港と付き合っているし、きっと断ってくれるのだろうとは思うが、それでも手放しで安心はできないのが現状である。普通彼女のいる男に告白なんてできないだろうと思う港ではあるが、自分の存在が及川に想いを寄せる彼女達への牽制にもなっていないことを、こういう時に痛感する。及川は、付き合いたいと思うのは理想や理屈では無く、港であるのだと言っていたが、周りはそうは思っていないのだ。きっと以前の港と同じように、「及川君は気まぐれで有馬さんと付き合っている」という認識なのだ。過去の及川と港が仲が悪かったことを知っていれば、なおさらにそう思うだろう。つくづく自分たちの釣り合いの取れなさを実感してる所で、先程及川を探していた男子が「及川置いて帰るか」と話しはじめた。「モテてムカツクから先に帰ろうぜ」「どうせクラスの打ち上げで会うしな」と言いながら本当に帰って行くあたり、及川の扱いの雑さはバレー部内でもクラス内でも変わらない。

「港ちゃん、そろそろ部活の送別会に行かない?」
「……うん」

 同じクラスの元女子バレー部員の声をかけられ、港は及川が教室に戻って来るのを待つ事を諦め、荷物をまとめたカバンを肩にかける。どうせ今日の夜にはクラスの卒業記念の打ち上げもあるし、写真を撮るならその時でもいいだろう。「俺と写真撮りたいの? えっと撮影料は……」とニヤニヤしながら意地の悪い事を言ってきそうな及川の事を思い浮かべながら、港は友人と一緒に教室を出た。廊下も卒業生達で溢れており、下駄箱に向かうまでの道中で声をかけられ、何度か足止めをくらうこととなったが、今日で最後となるとそれも当然の事だった。

「そういえば、及川君見かけないね」
「……告白の呼び出しくらってるらしいよ」

 隣を歩く友人の疑問に、何の気無しに答える。すると友人は不意に立ち止まり、申し訳無さそうに「ごめん」と港に咄嗟に謝罪する。失言をしてしまったのだと思ったのだろうが、港は言う程気にはしていなかったために、少し慌てた。

「謝らなくていいよ。及川には良くある事だし」
「でも……」
「本当、気にしないで」

 そう言いながら、港はふと考える。及川と今後付き合っていくのなら、やはりこういう事にも慣れておいた方がいいのだろう。港が例え大学に合格して東京へ行ったとしても、及川とは通う大学も違うし、今程会う事もできなくなるだろう。その中で、あの及川が女の子に放っておかれるはずもないし、だからと言って「私が及川の彼女です」なんて簡単に出て行ける状況もない。自信を持って待ち構えるという余裕を持たなければいけない。そんなことをぼんやりと考えている港を他所に、隣を歩く友人は「でも」と口を開く。

「……でも、大丈夫だと思うよ」
「……?」

 少しだけ楽しそうな様子に切り替わった友人に首を傾げると、彼女は両手を後ろに回して港を見上げる。その可愛らしい仕草を自分もできたらいいのに、なんて一瞬羨ましく思ったことは秘密だ。

「及川君て、港ちゃんの事好きなんだなぁ……って見てて思うもん」

思わぬ発言に港が固まると、友人は予想通りの反応だと言わんばかりにクスクスと笑い出す。
及川のどこを見て、彼女がそう言ったのかは分からない。
しかし、口喧嘩をしたり、カップルらしくないやりとりが多かったであろう自分たちを見ても尚、そう言える根拠というものが気になった。
一体どこでそう思ったのか。
心の浮つきを隠せないままに友人に尋ねようとしたが、隣に立つ彼女はニンマリと笑って、港より先に口を開く。

「でも、港ちゃんも及川君の事大好きだよね」
「…えっ」

からかうような彼女の表情と発言に、港は固まったままやや頬を染める。
そんなことを真正面から指摘されるのは初めてで上手い対応ができず、更に図星をつかれたものだから格好がつかない。

「べ、別にそんなんじゃ…」
「でも及川君と一緒に、東京の大学に行くんでしょ?」

ここで再び言い返せない程の図星を突かれ、港は「ぐっ…」と唸る。
そこには触れないで欲しいというのが港の本音ではあるが、それを心得ているとばかりの鋭い切り込みに何も言い返す事ができない。どうしようもなくなって、口を半開きにさせたまま硬直していた港だったが、不意に友人の視線が港の後方に動いた事に気付く。瞬間、港の頭の上にポンと重みのあるものが乗った。

「へぇ……お前、俺の事大好きなの?」

 いつのタイミングで、そこに立っていたのかは分からない。しかし、聞き間違えるはずもない声に思わず振り返ると、港の後方に立っていたのは案の定、及川だった。荷物も何も持たず、片手をポケットに突っ込んだまま、及川は得意げな顔で港を見下ろす。

「そっか〜、及川さん照れちゃうや」
「な、に……調子乗ってるの!」

 港が思わず噛み付いても、及川は「ハイハイ」と適当にあしらう。そして喚く港をものともせず、及川はニコリと港の友人に笑いかけた。

「ごめん、こいつのこと少し借りていい?」
「……この後女子バレー部で送別会があるから、それまでだったら大丈夫だよ」
「そっか、ありがと」

 「えっ」と間抜けな声をあげた港を他所に、及川と友人はやりとりを成立させてしまった。そうして下駄箱に向かって歩いて行く友人の後ろ姿を眺めながら、港は及川に連行されることとなった。



 どこに連れて行かれるのかと思ったが、何てことはない。及川が向かったのは、先程まで自分達がいた教室だった。
どうやら及川は、自分の荷物を取りに来ただけらしい。「カバン持って行けば良かった〜」なんて言いながらそれを肩にひっかける及川に視線を向けながら、港は当然の疑問を口にする。

「……ねぇ、これ私が来る必要あった?」
「あるある、魔除けのお守り」
「…魔除け?」

港が口元を引きつらせながら疑問符を浮かべると、及川は視線だけを教室の外に向けた。それに釣られるように港も教室の出入り口に目を向けると、そこにはそわそわとした様子の女子生徒が立っていた。
緊張の面持ちを浮かべた彼女の隣には二人の女の子が立っており、三人がこそこそと相談している姿を見ただけで、流石の港も目的が何なのか分かった。

「及川さんモテちゃって本当に困るんだよね〜」
「……そうですね、及川君はおモテになるようですね」
「でも流石に、お前が隣にいちゃ話しかけ辛いでしょ」

 ここで港は、及川が「魔除け」と言った事の意味を理解した。成る程、どうやら自身の虫除けのために港をわざわざ連れてきたらしい。卒業式ということもあり、女子生徒何人から声をかけられたのかは分からない。しかし、よく見てみれば及川のブレザーのボタンはひとつも無い。

「まぁ魔除け以前に、アマゾネスが隣にいちゃ怖くて話かけ辛いだろうけど」
「は?」
「ほらね」

 肩を竦めながら歩だした及川につられるように付いて行った港だったが、自身の「は?」という抗議の意思表示の言葉を、及川を待っているらしい女子生徒に聞かれてしまった。途端にビクリと肩をはねさせた彼女の手には、何やら小さめのシンプルな紙袋が握られている。しまった! と自身の失態に気付いて立ち止まろうとした港だったが、及川はさり気なく港の背中を押し、歩くように促す。

「ほら、さっさと行くよ」

 立ち止まるな、と暗に言う及川にされるがまま、二人はあっさりと教室を後にする。教室から遠ざかりながら、港はクラスの入り口付近で立ち尽くしてしまっている女子生徒をちらりと伺う。

「……いいの?」
「いいのも何も、どうせ答えなんて決まってるからね」

 当の及川は、普段と何ら変わらぬ様子でスタスタと歩いていく。その隣で複雑な心境に陥りながら、港は内心でホッとしている自分がいる事に気付く。こういうところだ。こういう風に、及川が他の誰かに目を向けていないと確信できると、どうしようも無いくらいに浮かれてしまって、自分はこの男の事が好きなのだと思い知る。港がそんなことを悶々と考えている事に気付いているのかいないのか、及川は廊下から見える生物室の方に目を向け「最後にあそこ見ておこうかなぁ」などと言い出した。及川の言うあそことは、恐らく生物室の裏庭のことだろう。言うが早いか、さっさと歩いていく及川についていき、二人は生物室の向こう側にある空間に足を運ぶ。
 生物室の裏には、ちょっとした畑のようなものが広がっている。人もあまり寄り付かず、たまにここで友達と集まってたむろして喋ったり、告白のスポットだったりで有名なスペースである。港は何度か友人とここに来た事もあるし、いつだったか、及川と一緒に昼ご飯を食べたこともある。及川としては、きっと告白目的で呼び出された事が多い場所だろう。

「ここにさぁ、去年チューリップの球根植えたんだよね」
「……そうなの?」
「先生の手伝いでね。でも、咲いたところは見られそうにないかな」

 そう言いながら、及川はしみじみと花壇に視線を落とす。その様子がなんだか寂しげに見えたのは、きっと気のせいではないのだろう。長年通ったこの学校を去り、東京に行くことで多くの友人達とも別れることになる及川だからこそ、侘しさに浸っているのかもしれない。そんな事を思いながら、花が咲くにはまだもう少しといったばかりの花壇の様子を、港もぼんやりと見渡した。

「……あのさ、及川」
「何?」
「……東京に行ったら、チューリップ育てようよ」
「……は?」
「そしたら、咲いたところ見られるでしょ」

 及川は、チューリップが咲いているところを見られないから寂しく思っているわけではない。それは分かっているが、他に何か良い言葉も思いつかない。こういう時、もっと頭の回転が速ければと心底思う。

「私も、チューリップの世話手伝うから」

 港がぼそぼそとそう言うと、及川はやや目を見開いて数秒黙った。そうしてじっと港を見下ろしていた及川は、ブフッと吹き出すように笑った。

「……それは、大学に合格してから言いなよ」

 お前まだ試験の結果出てないじゃん、と事実を指摘され、港はぐっと息を飲む。確かにそうなんだけど、そういうつもりで言ったわけでは……と自分の中で言い訳をしていると、及川はおもむろに港の方に向き直った。

「有馬」
「……なに、」

 名前を呼ばれて顔を上げた瞬間、及川に緩く右腕を掴まれた。何だろう、なんて呑気に考えていた思考は、しかし、及川が不意に背を丸めたことで動きを止めた。音も無く顔にかかった影、ただの一回、体の一部が触れ合っただけの事だった。一瞬だったのか、数秒間そうしていたのかは分からない。ただ、及川の息づかいをこんなにも近くに感じたのは初めてだった。

「……もうちょっとさぁ、いい顔できないわけ?」

 及川は呆れた様子で文句をつけてくるが、港は先程何が起こったのかを未だに飲み込めずにいた。キスというものは、とてもドキドキとして何故だか甘いものなのだと漫画に書いてあったが、そんな事を考える余裕も無かった。呆気なく終わってしまったファーストキスというものにドキドキしているのか分からないまま、唇は先程触れ合った感触をじわじわと思い返している。

「……どう?」
「……えっ?」
「キスの感想は?」

 真顔でとんでもないことを聞いてくる及川に、港はビシリと固まる。真正面から及川をまじまじと眺めて、やっとキスをしてしまったのだと実感してきた時に、そんな事をストレートに聞かれるとは思いもしない。

「……よく分からなかった」

 素直に思った事を白状すると、及川は微妙な顔をした。そんな顔をされても、分からなかったものは分からないのでしょうがないじゃないか。そう抗議しようと口を開きかけた港ではあったが、少しだけムスリとした表情の及川が再び至近距離に迫り、リベンジとばかりに再度口を塞ぐ。
 おいかわ、と名前を呼ぶ時間さえ与えられず、ぎこちなく触れる唇に意識を全てを根こそぎ持っていかれる。ただ唇同士が触れ合っているだけなのに、だんだんドキドキしていくのは何故だろう。キスなんてこれまでの人生で一度もしたことが無かったし、どういう反応をすればいいのかも分からない。そんな事を考えながら、ガチガチに固まってしまっている港の緊張を和らげるように、及川は行き場を失った港の両手首を緩く握る。そうして何度か角度を変えて唇を重ね、最後には港も、及川の手を指と指を絡ませるように握った。

「……これで分かった?」

 流石の及川も恥ずかしいのか、港から視線を逸らして尋ねる。未だ至近距離に立ったままの及川を凝視しながら、港は呆気にとられたままなんと答えようかと思案する。「恥ずかしいなら止めればいいのに」なんて言葉は口にできなかった。そうさせたのはまぎれもなく、港の中の「やめないで欲しい」という芽生えて日の浅い、恋情による欲のせいだった。

「……分からない」
「……はぁ?」

 港のぼそりとした答えに、及川は流石に呆れたような反応を示す。察してよ、と言いたげな表情に、しかし港は上手く応えられない。

「ちょっと、俺にどれだけ無理を強いるんだよ。流石に恥ずかしくて死にそうなんだけど」
「……そんな事言う余裕があるんだから大丈夫でしょ」
「……お前さぁ」

 二人の間に漂う甘めの雰囲気が薄まり、普段のくだらない会話をする自分たちのペースに戻りかける。そうすることで、この居たたまれない空間から逃れられるのだとお互いに理解しているが故の、無意識の行動である。人の気も知らないで、とぼやいた及川を見上げながら、港は自身の唇がいやに乾いていくのを感じていた。

「……分からない、から」
「……?」

 言おうか言わまいか悩んでいる最中に、自身の口は既に動いていた。自分らしくも無い事を言おうとしているという、自覚はあった。

「もう一回、教えて欲しい」
「………」

 気恥ずかしげに視線を逸らしていた及川も、港のこの発言には虚をつかれたらしい。は? と間抜けな声を出した後、今度は俯いた港を及川が凝視する。言ってしまった……! と冷や汗をだらだらと流している港が何を言いたいのか、察しの良い及川が分かないはずがない。その証拠に、数秒後に頭上からクスクスと押し殺すような笑い声が聞こえてきた。

「……一回でいいの?」

 慈しみを孕んだ、穏やかな声色だった。目の前の男は、きっと意地の悪い事を聞いている自覚がある。そうしてするりと港の頬に手を滑らせて、流れるような動作で俯いている港を上向かせる。見上げた先にいる及川は予想通り、酷く楽しそうな笑みを浮かべていた。

「お前、物覚え悪いからなぁ……」
「そ、んなことない。運動には自信あるよ」
「これ運動なの?」
「……」
「流石アマゾネス、何でも力技でねじ伏せようとするところは本当に尊敬するよ」

 やれやれ、といった様子で、及川はゆるりと目を伏せる。「あ、キスされる」と、この時ばかりは港にも分かった。そうして唇が合わさる瞬間にあわせて、自然と目を閉じてから、港は触れる柔らかさに酔いしれる。キスというものが、少しだけ熱くて柔らかく、ドキドキとこんなにも胸が高鳴るものだとは思わなかった。

「……で、どうなの?」
「え?」
「キスの感想は?」
「……わ、悪く無いかも……」
「なら良かった」

 ぼそぼそとしながら、あまり可愛げのある事を言えない港の頭を、及川は可笑しそうにくしゃりと撫でた。

目覚める春の序章

back