大学の試験を三日後に控え、港は黙々と最後の追い込みに取り組んでいた。試験日が近づくにつれて、今更あがいたところでどうかなるのだろうか……と悟りに似た現実逃避をしながら、こたつに入りぬくぬくと過ごしていた。今日は両親共に帰りも遅く、兄は友達と夕飯を食べて帰って来ると言っていた。
夕方のいい時間帯でお腹もすいてきたし、そろそろ気分転換も兼ねて何か食べよう。冷蔵庫に何があっただろうか思い出しながら港がこたつを抜け出した時、タイミング良く棚の上に置いていた携帯から着信音が鳴り響いた。誰からだろう、と思いながら港が手に取った携帯のディスプレイには、思わぬ人物の名前が表示されていた。つい数日前のバレンタインに会ったばかりの人の名前を凝視したまま数秒固まった後、港は我に返ったように慌てて応答した。

「もしもし!」
『もしもし、有馬?』

 電話の向こう側から聞こえる響く落ち着いた声に、耳が痺れるような心地がした。電話越しに及川と話した回数は数少ない。殆どが簡易的なメッセージの送り合いで要件を済ませてしまっていたから、なんだか新鮮だ。

「どうしたの?」
『どうしたって言うか……今、お前の家にいる?』
「うん」
『そう、なら良かった』

フフンと鼻で笑うように、及川は続ける。

『今、俺お前の家の前にいるんだけど』
「……はっ?」

 思わず自室の窓に緯線を向けた後、港は携帯を耳にあてたままに窓により、カーテンを開けた。夕方とあって空は既に薄暗い。そんな薄暗闇の中、門の前には確かに及川の姿があった。「何でここに……!」と港が言うよりも早く、及川はブフッと吹き出した。

『お前、その格好なに?』

 クスクスと携帯から笑い声が聞こえ、ここで港はハッとして自身の格好を顧みる。機能性を重視しただけのださい部屋着に、下は中学のジャージのスボン、そして今日は冷え込んでいるとあって、更にその上に半纏を着ている始末である。この格好で外を出歩けるか? と言われたら、それは勿論否である。
そんな服装を及川に見られてしまったことに港はたらりと冷や汗を流し、さっと部屋に引っ込んだ。
最悪である。

『あはは、何、恥ずかしいの?』
「う、うるさいなぁ!」
『そんな心配しなくても、お前が家でバッチリ着飾ってるとは思ってないから安心しなよ』

 「まぁ、なんでもいいから外に出て来てくれない?」という及川の楽しげな声を聞き、港はとりあえず半纏を脱ぎ、適当にパーカーを羽織った。流石に中学時代のジャージも着替えて、携帯電話を耳にあてたまま慌てて階段を下りる。玄関に向かい、ドアノブを握って開けるのに少し勇気が必要ではあったが、そうしてやっと及川と対面した。港がバン! と勢い良くドアを開けたタイミングで、及川は通話を切って携帯電話を耳から離した。

「やっほー、勉強頑張ってる?」
「……今、頑張ってたところなんだけど」

 自転車に跨がったままの及川は、へらりとした顔で片手を上げる。完全におちょくられている。そう気付いたところで、港は何の言い訳もできないところがとても悔しい。

「……何か用?」
「特に用があったわけじゃないんだけど」
「うん」
「差し入れ持って来た」

 はい、と言って及川が差し出してきたのは、ほかほかと温かそうな紙袋だった。白地にオレンジ色のお店のロゴマークが入ったそれを受け取り、港は紙袋の口をガサリと開く。予想通りというかなんというか、中に入っていたのは肉まんだった。

「……これって、駅前のお店の肉まんだよね」
「そうそう、ちょうどいい時間にあの辺にいてさ。お前にもお裾分け」
「……そっか、ありがとう」

 あのお店の肉まんは人気があって、丁度蒸し上がった時間帯にはすでにお客さんも集まっていて、売り切れていることが多い。それを偶然にでも購入できたらしい及川の自転車のカゴには、白い紙袋がもうひとつ入っている。きっと自分用なのだろうが、このまま港の家から及川の家に帰るまでにはそれなりに時間がかかる。折角の温かい肉まんが冷えてしまうのではないか、と思いながら、港は自身の手にある紙袋の口を一度閉じた。

「わざわざ差し入れを持ってきてくれるなんて、及川やっさし〜」
「まぁね、誰かさんが東京に行くために一生懸命に頑張ってるみたいだし、多少はね」
「……」

 普段はそんなに優しく無い及川に半笑いでからかったつもりの港だったが、逆に痛いところをつかれて無言になる。及川の言う通り、港は東京に行く為に試験勉強を頑張っている。それは何故かと簡単に言ってしまえば、港が及川のいるところに一緒に行きたいということなのだ。確かにその通り、港だって悔しながらに認めて、及川本人にも勇気を出して伝えたことではある。しかし、こうも面と向かってそれを指摘されるのは、とてつもなく居心地が悪い。無言のまま、緩く口元を引きつらせた港を眺めながら、及川は非常に満足そうである。

「まぁ頑張ってよ、俺とのキャンパスライフのために」

 全くもって及川の言う通りではあるが、そんな言い方をされては港はどういう反応をすればいいのか困ってしまう。売り言葉に買い言葉というべきか「そんなんじゃない!」と咄嗟に言い返しそうになるが、これではまるで子供のままであると港とて理解している。二人の関係性は、去年のクリスマスにはっきりと変わった。お互いがお互いの事を好きであると、港も及川も分かっている。やりとりこそ不断通りであれど、ここで感情的になって嘘を口にするのは適切ではないと、港も最近学習した。しかし、恥ずかしがるのはなんだか負けた気がするので、港は半ば自棄になって及川に切り返す。

「頑張るから、待っててよ」
「……」

 そして今度は、及川が無言になった。港が意地になって言い返してくると踏んでいたようだが、思わぬ素直な発言に咄嗟に言葉が出なかったらしい。
及川の呆気にとられた表情を認めて、港はニヤリと口端を上げる。ざまぁみろ、と港が内心で勝ち誇っている事に気付いたのか、及川もすぐに言い返す。

「お前本当、俺の事好きだね」
「まぁね、及川が思ってるより好きだよ」
「は、俺の方がお前の事……」
「……」
「……ちょっと待って、タイム」

 やっている事は口喧嘩に近いが、端から見ればただのイチャつくカップルのそれである。さながら試合中の監督のように、手でティー字をつくる及川は無表情ではあったが、心の内では動揺している事が良く分かる。どちらかというと恥ずかしい事を言ったのは港ではあったが、タイムを要求してきた及川に対し、港は何故か「勝った!」と勝ち誇る。子供のように幼稚なままでは駄目だ、と先程まで自分に言い聞かせていたくせに、一周回って港は勢いだけ小学生時代に回帰している。そんな港が調子に乗る事数秒、タイム空けの及川は港に応戦しようと「素直でストレートな言葉」を次々に繰り出す。流石頭の回転の速い及川というべきか、今度は港の劣勢で事が進む。口喧嘩に似た何かがいつの間にかヒートアップし、照れた方が負けの応酬を繰り返しているタイミングで、近所に住むお姉さんがクスクスと笑いながら道を通り過ぎていった。ここでやっと我に返った二人は、自分たちがとてつもなく恥ずかしいことをやっていることに今更気付いた。負けず嫌いというのも、考えものだ。

「……ねぇ、もうやめよう。これ端から見たら俺達ただのバカップルだよ」
「うん」

 バカップルという言葉は、自分たちには程遠い言葉だと思っていた。しかし、成る程、別に素直に愛を囁き合わなくてもバカップルの定義には収まるらしい。

「あーもう……肉まん冷めちゃうよ」

 チラリと自身の自転車のカゴに入れた紙袋を確認する及川を見ながら、港も自身の肉まんに視線を落とす。

「今食べちゃえば?私も丁度お腹すいたし」
「……ここで?」
「嫌なら、うちに上がる?」

 今私以外誰もいないし、と続けると及川は苦い顔をした。家に上がった方が落ち着いて食べられると思うのだが、どうやら及川はそれが嫌らしい。

「家に上がるのは遠慮しとく。気はつかわせたくないし……」
「じゃあここで立ち食いね」

 さっさと紙袋から肉まんを取り出し、港はむしりと白く柔らかい生地にかじりつく。そしてふわふわとした生地の中にある熱い肉などの具材を味わっていると、及川は微妙な顔で港に視線を向けた。

「お前さぁ……」
「何?」
「いや、いいよもう……」

 何か一言言いたかったようだが、諦めたかのように肩を脱力させてから、及川も肉まんを袋から取り出した。そして及川も、自転車に跨がったままバランスをとり、片手で肉まんを持ってかじりついた。

「あ〜……家に帰ってゆっくり食べようと思ってたんだけどなぁ」
「でも美味しいでしょ?」
「そうなんだよ……。というか、これ買って来たの俺なんだけど、何でお前が偉そうなわけ」
「まぁまぁ」

 呆れたように港に目を向けながら、もぐもぐと肉まんを食べる及川のペースは早い。お腹がすいていたのか、肉まんを楽しみにしていたのか、港よりも先にぺろりと平らげてしまった。肉まんを包んでいた紙をぐしゃりと小さくまとめた後、及川はぼそりと思った事を口にした。

「……喉乾いた」
「確かに……」

 口の中に広がる生地と餡を堪能していた二人ではあるが、濃いめの味つけに体は水分を欲している。

「ジュース買いに行く?」
「……この辺に自動販売機あるの?」
「あるよ、ちょっと歩くけど」

 港が自動販売機のある方向を指差すと、及川は「あったかな…?」と必死に記憶を辿っているようだった。港の家から一番近いところにある自動販売機は、ここから歩いて百メートルくらいの所にある。古めかしい建物の傍にひっそりと設置されているから、自動販売機は建物の影に隠れてしまって、あまり目立ちはしないのだ。及川はこの辺りにはあまり来た事がないだろうし、記憶に無かったとしても何ら不思議ではない。

「案内するから、買いに行こうよ。及川のおごりで」
「何でだよ……」
「あはは、嘘だって。ジュースくらい私が奢るよ」

 こんなところまで肉まんを差し入れに持って来てくれた、ささやかなお礼である。お礼にしては港の方が割安な気もするが、もし及川が「不釣り合いだ」とごねたら2本くらいジュースを奢ればいいかと、ポケットの中に手を入れる。前にこのパーカーを羽織ったまま自販機までジュースを買いにいった時のおつりが残っているか探り、ジュースが買えるだけの金額があることを確認する。

「お金あるから大丈夫だよ、行こう」

 まぁでも及川は、人気の肉まんとジュースでは不釣り合いだなんて、ごねたりしないだろうけど。

「はいはい。それじゃ、後ろ乗って」
「……え?」
「少し歩くんでしょ、乗りなよ」

 そっちの方が楽でしょ、と言って自転車の荷台の方を顎で指す及川に、港は一瞬固まった。後ろに乗れというのか聞き返そうかと思ったが、聞くまでもなく及川の言いたいことはこれで間違いではない。固まっている港を他所に、及川は片足をペダルにかけて、漕ぎだす準備は万端である。自転車に二人乗りをするということなのだろうか、これじゃまるでカップルみたいじゃないか。そんな今更な事を考えて静止した港ではあったが、なんとかその考えを振り払って腹をくくる。何をそんなに意識する必要があるのだろう。私たちは恋人なんだから、そんなに気にすることではないはずだ。そろりと自転車の荷台に視線を向け、跨がろうかどうしようか悩んだが、港の中のなけなしの「乙女」の部分が、ここで女の子らしく座れと指示を下した。ゴクリと息を飲みながらも、自転車に跨がった及川の後ろにおずおずと座ると、当然ながら地面に接地しているタイヤのゴムが少し潰れた。跨がることなく横向きに座ったまま、行き場を失った両手を膝の上に乗せて、港は居心地悪そうに縮こまる。なんだろう、凄く恥ずかしい。

「……なに女の子らしく座っちゃってるの?」
「うるさい、早く出発!」

 及川に指摘されたのが恥ずかしく、やや振り向き気味の及川の背中をバシバシと叩く。そういう事は気付いても言わないものだろうと思うのだが、及川はわざと発言して港の羞恥を煽っている節があるのだ。「ハイハイ」と仕方無さげな返事をしてから、及川はペダルに乗せた足に力を入れた。最初はふらついたものの、スーと滑り出した自転車の荷台に腰掛けながら、港は懐かしい感覚を思い出した。幼稚園に通っていた頃、母親の乗る自転車の荷台に設置した椅子に乗せて貰っていたっけ。自転車の荷台に乗る、あの妙な浮遊感に似た感覚が好きで、よく自転車の後ろに乗せてとねだったものだ。しかし、今港の前方に見えるのは母親でも父親でもなく、及川の広い背だ。こうして改めて及川を観察してみると、及川は身長もある分、ガタイもいい。港は女子の中でも背は高い方に分類されるが、それでも自分と及川とでは体格に大きな差がある。これが男と女の違いと言うものなのだろう。それを今更ながらに実感して、港はそろりと及川から視線を外す。何故こんなにも、及川との違いを知ってドキドキしてしまうのだろう。これが、女の本能というものなのだろうか。

「ねぇ、そこの突き当たりはどっち?」

 自転車を漕ぎながら、及川は何気なく港に投げかける。港が後ろに乗っていることにまるでなんの戸惑いもなく、さらりと尋ねて来る及川は、特に何も思う事はないのだろうか。

「……ねぇってば」

 突き当たりに差し掛かろうとしているのに、港が先程の及川の質問に答えないものだから、及川は再度質問を投げかける。それでも港が口を開かないものだから、及川は突き当たりに差し掛かったところで自転車を漕ぐのをやめた。そうして後ろに乗る港の方に及川が振り返ろうとした時、港はトンと及川の背中に身を寄せ、もたれかかった。瞬間、及川は息を詰める。及川が動揺した様子が窺えて、港の緊張は少しだけ和らぐ。

「及川」
「……何」
「ドキドキする?」

 私だけが心臓を高鳴らせているなんて、恥ずかしいじゃないか。及川も道連れにしようという思いと、及川も揺さぶられていればいいという希望のまじった行動に、及川は暫く黙り込む。なんと言うべきなのか悩んでいるのだろうが、きっと及川は「馬鹿じゃないの」なんて言って誤摩化すのだろう。いつもの及川ならば、そういう対応をするだろうと予想はついていたが、少しだけ、いつもと違う事を言ってくれるのではないかと期待した。触れ合った場所が、ほかほかと温まっていくような心地がした。そうして及川の広い背に耳を寄せて、心臓の鼓動が聞き取れないかと港が目を閉じたタイミングで、及川はゆっくりと口を開いた。

「……ドキドキする」

 ストンとまるで落ちて来るように投下された言葉は、港の胸にじわりと染み込んでいく。まるで今日会った時にやっていた、素直な言葉の言い合いの延長戦かのような発言だ。しかし及川の背中に寄せた耳は、この男の心臓の鼓動の早さを聞き取っってしまって、港もたまったものではない。ドキドキしているという言葉は、どうやら嘘ではないということを思い知る。
 嬉しい、恥ずかしい。それに何故だろう、先程よりも喉が渇いていく。

「……いいから、自販機はどっちだよ」

 突き当たりの手前で停止したまま、及川は羞恥に耐えきれずに、片手で顔を覆ってしまった。

ドウキする心臓

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