クリスマス前日。学校と受験勉強の合間を縫って進めていた編み物を手に、港はやりきった表情でため息をついた。

「できた……!」

 自室で思わず一人言を呟いてしまう程の感動に、港はしばらく浸る。編み上がった落ち着いた深みのある赤いマフラーを広げ、港は達成感を感じていた。よく見てみると手編みした感じが分かってしまうが、初めて編んだにしてはなかなかの完成度ではないだろうか。幅も太すぎず細すぎず、そして長さも丁度良いくらいだろう。珍しく己を褒めてしまいたいくらいに舞い上がり、港はそれを持ってリビングに向かう。そして明日の朝食の下ごしらえをしている母に、完成品のマフラーを見せてしまうくらいには興奮していた。「良くできてるじゃない!」と拍手をした母の声につられ、自室にいた兄や父までがリビングにやってきて、夜遅くであるにも関わらず、有馬家は妙な盛り上がりを見せた。
 あとはこれを、クリスマス当日に渡すだけである。ギフト用のビニールにマフラーをしまいながら、港は自室のクローゼットの方に視線を向ける。港当人よりも「及川君を逃してたまるか!」と気合い充分の家族からお小遣いを貰い、そのお金で購入した服やカバン、小物などがその収納スペースには収められている。それらの買い物には、友人に付き合って貰った。背伸びしすぎず、かと言って女らしさを漂わせる服や小物達は、友人おすすめのデート服と装備である。なんだか今回は、もの凄く頑張りすぎていないだろうか……と若干気恥ずかしくはあるが、こういう機会がないと自分は「女らしさ」というものを忘れてきてしまいそうなので、正直ありがたい。
 準備は万端、気合いも充分に整っている。そうして明日にクリスマスを控え、港は密かな決意を固めていた。ひとつは、手製のマフラーをちゃんと及川に手渡す事。そうしてもうひとつは、自身の素直な気持ちを、及川に伝えることである。このもうひとつの決意を実行に移すには、かなりの気力を要することになるだろう。しかし、遠回しとは言えど、及川だって港に「好き」だと伝えてくれたのだ。だからこそ、港もその気持ちをきちんと返したいと思うし、そこでやっと、本当の意味で恋人になれる気がするのだ。気合いも不安も期待もないまぜになった感情を抱えながら、港は来るべき決戦の日に備え、この日は早くに就寝した。

 そして翌日。待ちに待ったクリスマス。
 早起きして身支度を整え、港が待ち合わせ場所に向かうと、そこにはすでに及川の姿があった。シックなコートにタイトなズボン、落ち着いた色合いのマフラーを巻き、壁沿いに立っている及川は、身なりも顔も、立ち振る舞いも整っている。何をやっても様になるんだよなぁ…なんてぼんやりと考えながら、港は左手に持った紙袋に視線を落とす。この日のために一生懸命に編んだマフラーの入ったそれを再度確認し、息を整えて気合いを入れる。今日はこれを及川に渡して、そして自身の気持ちをちゃんと伝えるのだ。フンと鼻息を鳴らし、港が片手を上げて及川に声をかけようとした、丁度その時。「及川」と港が発声する前に、不意に及川の前を通りかかった女の子が足を止めた。綺麗な白いコートを纏った可愛らしい女の子は、振り向き様に及川に声をかけたように見えた。それに顔を上げた及川は、少し目を見開き驚いた様子で口を開く。何を話しているのかまでは聞こえないが、港はとっさに柱の影に隠れて二人の様子を窺う。ナンパだろうか…? と疑問に思いながらも、ひっかかりを覚える。なんだろう、あの女の子をどこかで見た事がある気がする。どこだったっけ……? と港が記憶を辿っている間に、及川と話していた女の子はくるりと回るように、及川の隣に並んだ。カバンを持った手を背中に回し、嬉しそうに及川に話しかける女の子は同性から見てもとても可憐である。その横顔をじっと眺めていた港は、ついに彼女の正体を思い出した。あの女の子は、学年でも指折りの美女と名高い、及川の元彼女ではなかっただろうか。
 それに気づいた瞬間、港の心臓も表情も凍り付き、一瞬頭の中が真っ白になった。柱の影に身を潜める港を怪しげに見る人達のことすら視界に入らず、港は息を止めたまま二人の様子を眺める。何だか楽しそうに話しているように見えなくもない二人に、港は完全に出て行くタイミングを逃してしまった。腕時計を確認すると、待ち合わせの時間まで、あと五分しかない。しかし、恋愛事には充分な経験もなく自信のない港は、あんな可愛い女の子のいる前に堂々と登場する勇気が中々に湧かない。港とて今日に備えて身なりを随分と整えてきてはいるが、体から服装、髪型に至るまで綺麗に仕上がっているあの女の子とは、ベースが違う。
 負ける。
 潔い程に敗北を確信したが故に、港は柱の影に引っ込んだまま、遠目に二人を眺めたままの状態である。その間、視線の先の及川と女の子は、ずっと何かを話しているようだった。どうしよう、どうしよう……と唸りながら、港は面倒臭い女のごとく、始終おろおろとしていた。そうして待ち合わせの時間が過ぎてもその状態のまま十五分程過ぎ、遠目に眺めていた及川はついに、ポケットから携帯を取り出した。未だ及川の隣に立つ女の子はそれに少し不満げな顔をしていたが、我関せずといった様子で及川は携帯電話を耳に当てた。その数秒後、港のカバンに入っている携帯が震えだす。それに応答するか否か数秒迷ったものの、遠目に見える及川の表情が険しいものだから、港は気まずいながらも電話に出た。及川と港の二人の間の距離は、たった二十メートル程である。

『もしもし』
「……もしもし」

 恐る恐る電話に出ると、及川は申し訳なさそうにしている港に気づいて、軽くため息をついた。

『ねぇ、今日の約束忘れてるってわけじゃないよね?』
「……ハイ」
『で、遅刻の理由は?』
「……遅刻はしていません」
『は……?』

 眉間に皺を寄せているらしい及川は、港の歯切れ悪さに、何かを察したらしい。キョロキョロと辺りを見回してから、柱の影に立っている港に気づいて、及川は静止する。電話を耳に当てたまま数秒、お互いに微妙な表情で目を合わせる。

『……何やってるの?』
「……出て行き辛くて」
『……』

 気まずい沈黙が続いた後、及川は何も言わずに携帯の通話を切った。そうして隣に立つ女の子に別れを告げてから、及川は長い足を動かし、柱の影にいる港の元までやって来た。近場で見ても、やはり及川は様になっている。その隣に並ぶのが自分でいいのかと、港はネガティブ思考へと陥る。

「何で声かけないんだよ」

 呆れたようにそう言った及川ではあったが、少しだけ港の様子を探っているようではあった。その様は、先程及川の隣に立っていた女の子が、及川の元彼女であると港が気づいているか否か見極めているように見えた。

「いや、お邪魔かなーと……」
「何でだよ……俺はお前と待ち合わせてるのに」

 そうして港に対して気まずさを見せるかと思ったが、及川は普段通り、偉そうに鼻を鳴らす。

「今日は、有馬がどうしてもっていうから、わざわざここに来たんだからさ」

お前のために予定を空けていたのだから感謝しろ、と言わんばかりの態度に、港は口元を引きつらせる。確かにその通りなのだが、そうやってからかうように言われると、港はそのまま黙ってなどいられない。港が自身の元彼女の事を考えて不安にならないように、及川がわざとそ普段通りに振る舞っていると気づかず、港は自身の不満を優先する。

「私と出かけたくなかったんなら、そう言えばいいでしょ」
「……そうは言ってないだろ」

 港が拗ねている事を察して、及川は少しだけ思案した後、思いついたように手を叩いた。バレーの試合中、チームメイトに「落ち着いて〜」と声をかける時を彷彿させるような所作の後、及川は自身の前方の方を指差す。

「あっちの方にさ、女の子に人気のあるワッフル売ってる店があるんだよ」

 食い意地はってるお前にはぴったりな所だと思うんだけど? なんて遠回しに誘う及川の言葉を、港は捻くれた受け取り方をする。女の子に人気。そこに及川は、先程の可愛い元彼女とも行ったのだろうか。

「それ、嫌味?」
「……は?」

 ただワッフルのお店に誘っただけの及川と、自身の恋愛経験の低さ故にそのような店に行った事がないと馬鹿にされたと思った港で、お互いの捉え方がすれ違う。

「……別に嫌味を言ったつもりじゃなかったんだけど」

 不穏な空気を漂わせる港に、及川は首を傾げる。軽口を叩いたり、お互いを貶し合うのは日常に近く、及川は別段普段と変わりない対応をしたつもりだった。そういう口をきいても許せる関係、という信頼を置いていたが故の発言だったのだが、余裕の無い港にはそれが上手く伝わらない。港がいつにも増して余裕が無いのは、先程見かけた及川の元彼女への劣等感が強い。元々可愛げがないのは分かっているが、過去最高に可愛くないという自覚はあった。

「……今日誘うんじゃなかった」

 思ってもいなかった事が、辛辣な声色で口に出た。もはや、反射というものに近い。及川に馬鹿にされたら言い返す、と自身の体に染み付いていた悪癖が、よりにもよって最悪のタイミングでその力を発揮した。相手を不快にさせるためだけに、特に考え無しに投下された言葉は、へらりとしていた及川の表情の緩みを奪った。

「……お前が言い出した事でしょ?」
「だから、今凄くそれを後悔してる」

 ハァ……とわざとため息をついてみせた港は、ここでやっと及川が真顔でこちらを見ている事に気づいた。先程までの気さくな雰囲気が抜けた及川の表情に、港はやっと我に返る。しまった、今の発言は刺々し過ぎたかもしれない。

「……怒った?」

 急に弱気になった港を見ても、及川は表情を変えずに港に視線を向けたまま動かない。及川のやや細めた目に探られているようで、港は始終居心地が悪く、肩身も狭い。

「怒ってないよ」
「……嘘、怒ってるでしょ」

 及川のあまり抑揚のない声に、港の意識はずるずると現実に引き戻されて行く。私は今、及川にもの凄く酷い事を言わなかっただろうか。いつもに比べて、お互いの間に流れる空気の険悪さに、港の喉は乾いていく。

「じゃあさ、何で俺が怒ってると思うわけ?」

 思いの他冷たい目で見下ろされ、港はたじろぐ。サァと顔を青ざめさせた港を見て、及川は力なく自重気味に笑った。怒っているというよりは、なんだか哀愁が漂っているような、そんな雰囲気があった。

「俺さ、わりと上手くいってると思ってたんだけど……」

 やるせなさを纏う及川の言葉は、駅前に響くクリスマスソングに乗って、港の耳に届く。

「俺達って本当に……噛み合わないね」

 及川の口から溢れた言葉は、ズブリと深く港の胸を刺した。付き合い始めた頃から常に、港が及川に感じていた負い目のような感覚。自分はこの男には不釣り合いだと、ずっと思っていた。しかし、これまでずっと、及川が「そんなことはない」と否定をしてくれていた事でもあった。釣り合うとか釣り合わないとかではなく、理想や理屈などでもなく、港の事が好きなのだ、と。
 噛み合わない。それを、及川に言わせてしまった。
 そんな事をさせてしまった自身に呆然としている港は、咄嗟に何も言えなかった。及川が少しだけ、期待を含んだ目でこちらを見ているような気がした。しかし何も言わない港から、及川は諦めるように視線をそらす。

「ごめん、変な事言った。……今日は帰る」

待ち合わせてから、数分と経っていない。しかし、とてもこれからデートという雰囲気では無いこの状況でのこの発言には、港でさえ納得しかけた。冬のように冷え冷えとした言葉を残し、及川は港に背を向けて、近くのバス停のある方へと歩いて行く。その後ろ姿を眺めながら、港は心の隅で「ああ、やっぱりな」と一人納得しする。港はどうしたって、恋愛経験の差は埋められないし、及川に対する負い目を感じずにはいられない。自分の事ばかりに頭がいっぱいで、いつも余裕のある及川に助けて貰っていてばかりだ。そしてついに、そんな港に限界がきて、及川に愛想を尽かされてしまった。横断歩道を渡り、バスを待つ人々の列に並ぶ及川を遠目に眺めながら、港は他人事のように考える。こんな自分は、やはり及川には不釣り合いなのだ。
ならばこのまま終わってしまうのは、お互いの為なのではないか。及川なんか引く手あまたで、港なんかよりもずっといい女の子と出会える可能性も多いにあるだろう。それなら及川的にも結果オーライじゃないか。良かった良かった……なんて、思えるわけが無い。
 じわりと、自身の目に水分の膜が張ったのが分かった。今日は一体、何の為に及川をクリスマスに誘ったのか。及川と向き合うために、素直になるのではなかったのか。私は及川には釣り合わないかもしれないが、それでも隣にいたいのだと、隣にいられるように努力すると、伝えたかったのに。……及川の事が、好きなのに。

「おいゴリラ、早くしろよ!」

 涙目になっている港の傍を、一組のカップルが通り抜けて行く。とても彼女に投げかけるものではない発言をした彼氏は、隣を歩く彼女にバシリと背中を叩かれた。

「いってぇ!」
「誰がゴリラよ、馬鹿にしてるの?」
「……この腕力は間違いなくゴリラだろ」
「はぁ?」

 握りこぶしを作った彼女を見て、彼氏は大げさに距離をとってみせる。

「そのゴリラの彼氏はあんたなんだからね」
「……あ〜、彼女にするやつ間違えたかも」
「そんなこと言って……好きなくせに」
「自意識過剰かよ」

 呆れたような態度の彼氏にむっとした彼女は、むっとしたのか、不意に立ち止まる。そしてそんな彼女に気づいた彼氏は、しぶしぶと言った様子で振り返った。

「……私は、あんたの事好きよ」

 女の子の拗ねたような言葉を耳にし、港はゆっくりと目を見開いた。ゴリラなどという言葉を浴びせられても、自身の気持ちをストレートにぶつける彼女の姿は、とてもかっこ良く、そして愛しく見えた。

「知ってるよ、アホ」

 立ち止まり、むすっとしている彼女の元まで引き返して来た彼氏は、ゆっくりと彼女の手を握った。目の前で繰り広げられたドラマに、港は冷静になる。そうして二人して駅の方へと歩いて行くカップルの後ろ姿を眺めていた港は、クリアになっていく視界に息を止めた。
 そうなのだ。アマゾネスと呼ばれようが、女の子に人気のある及川と釣り合わなかろうが、港は及川の事が好きなのだ。照れくさげに手を繋ぎ、歩いて行くカップルの後ろ姿は幸福そうで、あんな風に、及川の隣を堂々と歩きたいと思ったのだ。だからこそ、今日は手編みのマフラーを抱えて、想いを伝えようとまでしたのではないか。
それすらに満足できずに、ここで終わってもいいのか。及川を傷つけたままで、いいはずがない。私は、何をうじうじと言い訳ばかりしているのだろう。勇ましく戦う女戦士『アマゾネス』の名が、聞いて呆れる。急に冴え渡っていく思考の中で、港は次に及川が歩いていった方に視線を向ける。横断歩道を渡った先にあるバス亭に並んでいた及川の姿は、丁度バスが入ってきたことにより見えなくなってしまった。確かあのバスは、及川の家の方へと向かうものではなかっただろうか。このままでは、及川はあれに乗ってさっさと自宅へと帰ってしまう。そうはさせるか、と港は地面を蹴って全速力で駆け出す。ここから確認出来る限り、今から追いかけてもあのバスに間に合うかもしれない。
 自慢の脚力を生かし、港は女を捨てて駆け抜ける。道往く人の視線が痛いが、港はもはやそんなことはどうでも良かった。しかし、タイミング悪く横断歩道の信号は赤に変わり、その間にバスが出発してしまった。しまった! と焦った港だったが、ここで諦めてなるものかと、バスを追いかけるように走り出す。あのバスが次に止まる停留所は、そんなに遠くなかったはずだ。バスの速度には劣るものの、なんとか並走しながら、港は手に持った紙袋を握り直す。及川に謝らなければ、という一心で、人通りの疎らな大通りを駆け抜ける。しかし、港が予想していた停留所でバスは止まらず、及川を乗せた車はどんどんと先へと進んで行く。もしかしたら、特殊な便のバスなのかもしれない。そんな……と眉を下げた港は、なんとか足を動かして付いて行こうとしたものの、バスの速度に人間が追いつけるはずも無かった。流石に息も上がり、足の筋肉も悲鳴を上げる。ハッハッと息をきらしながら走ったのも虚しく、どんどんと小さくなっていくバスの姿に、港の進む速度はどんどんと下がって行く。そのうち疾走から徒歩に変わり、そしてついに、港は立ち止まった。

「……」

 もう、バスの姿は見えない。それを実感して、港はゼェゼェと息を吐きながら、再び泣きそうになった。
 間に合わなかった。自分の事で頭がいっぱいになってしまったせいで、及川を傷つけたまま、帰らせてしまった。折角のこの日のために、一生懸命頑張ったのに。及川と一緒に出かけるのを、楽しみにしていたのに。プレゼントを渡して、喜んで貰いたかったのに。全て自分の行いひとつで、壊してしまった。

「……あはは、馬鹿か私は」

 今更、何を感傷的になっているのだろう。ぶんぶんと頭を振って、港は息を整えてから、次にどうするか考える。港が今更素直になったところで、及川が愛想を尽かせたのは間違いないだろう。しかし、だからと言って引き下がるのか? と問われれば応えは否、だ。結果がどうなるかという話でも、理屈がどうとかいう話でもない。港だってすでに、及川と同じ場所に立っているのだ。ズッと鼻をすすり、港はぎゅっと唇を噛み締める。張りつめたこの糸を引きしめていないと、涙腺が決壊してしまいそうだ。水の膜が張った目を軽く擦り、港は元来た道を引き返す。及川が家に戻ったのならば、後を追えば良い話だ。及川の自宅の方角は知っているが、正確な場所までは分からない。最悪、友人伝いに及川の幼馴染みと連絡をとり、場所がどこか聞き出せばいい。静かにそんなことを考えながら、港は歩を進める。先程全力で走ったせいで、無理に足の筋肉を使ったのか、足が重い。折角の下ろしたてのブーツを履いて来たというのに、酷使して既にくたびれた感じになってしまった。これも全部自業自得だと自嘲し、港がもう一度鼻をすすり、ふと顔を上げた時だった。
 クリスマスとあって、大通りには道行く人の数も多い。そんな人通りの中、港の丁度正面辺りに、見覚えのある人の姿が映った。シックなコートに落ち着いた色のマフラー、走ってきたのか、整った顔には少し疲労が窺えた。そこにいる人物の姿に呆気にとられた港は、こちらに向かって歩いて来る及川が現実のものと思えず、呆然として立ち止まった。

「ちょっと……待てって言ったの聞こえなかったの?」

 走ったせいか髪を少し乱した及川は、文句を言いながら港の傍までやって来た。及川はあのバスに乗っていたはずでは……? とポカンとしている港に気づいて、及川は呆れたようにため息をついた。

「一回バスには乗ったんだけど、直ぐに降りたんだよ」
「……どうして」
「折角のクリスマスだしね。お前とこのまま、拗れたままは嫌だったんだよ」
「……」
「なのにお前はバス追いかけ始めるし、女とは思えないくらい足早いし……なんでクリスマスに全力疾走しなきゃいけないんだよ……全く……」

 酷く「疲れた」とアピールする及川は、普段となんら変わらない。愛想を尽かされたものだと思ったのに、及川はこうして、一人突っ走っていた港を追いかけて、ここまで来てくれたのだ。そんな及川にぼんやりと見蕩れていた港は、数秒してからハッと意識を取り戻す。

「及川……さっきは酷い事言ってごめん」
「……いいよもう、俺も態度悪かったし」

 コートのポケットに手を入れて、及川は「あー」と唸り、言いにくそうに口を開く。

「ぶっちゃけさ、俺……今日結構楽しみにしてたんだよね。なのにお前、なんか楽しそうじゃないし、誘うんじゃなかったとか言うし。浮かれてた俺、馬鹿みたいじゃん」

 半ば自棄気味ではあったが、及川は自身の本音というものを港に分かりやすく白状した。付き合い始めてからの及川は、そうやって港が素直になりやすいようにと、さり気なく気を配ってくれるのだ。あぁ、やっぱりこの男は私には勿体ないと、心底思う。

「及川」
「……何?」
「私、及川の事が好きなの」

 言った途端、ぼろりと涙が溢れた。誰かの前で泣いたのは久しぶりかもしれない。そんなことを頭の端で考えながら、目を見開いた及川に、続けて想いを伝える。

「だから……私、及川の恋人になりたい」

 及川と交際をはじめたのは、彼氏という存在への憧れからだった。一時期は、彼氏という存在を手放したく無くて意地になり、目的と手段がすり替わっていた事もあったが、今は違う。今は及川の事が好きだから、ちゃんとした彼女になりたい。想いを通じ合わせて寄り添う、本当の恋人というものに。そんな想いを胸に、港は目元を擦って及川を見上げる。

「……馬鹿だなぁ」

 馬鹿、なんて言うわりに、及川が浮かべた笑みは優しかった。なんて綺麗に笑う男なのだろう、と港が見当違いの事を考えてしまう程に、及川の表情は穏やかで、そして少しだけ照れくさそうだった。

「もう、恋人じゃん」


いと しさに りをかけて

back