思い出すだけでも恥ずかしい。放課後の教室で、及川とキスをしそうになった、言い換えると、キスをするつもりだった。港にとって衝撃的な出来事から一週間。港は悶々としながらも、ポケットにしまったリップクリームを取り出した。普段ならば、リップクリームすら塗らない港ではあるが、先日の一件以来、思い切って薬局で購入した。こんなものを買ってしまった事にもだが、及川とキスしそうになったあの時の事を気にしている自分が恥ずかしい。今、人生で最大級に乙女思考の自覚はあるのだが、及川との関係は相変わらずである。
 今日も帰りにデート(買い食い)にでも行くかという話になり、雨が降る中、二人でコンビニにやって来た。食べ物を買って、公園の屋根の下のベンチで食べよう、といういつもの流れだ。恋というものを自覚し、思考が乙女になったせいか、今日は甘いものを食べたい気分だ。二人でデザートコーナーに足を運ぶと、及川は少なからず驚いたようだった。

「今日はやきそばパンはいいの?」
「うん」
「珍しいね」

 そんな事を言いながら、及川は新発売の濃厚ミルクプリンを手に取った。好物が牛乳パンといい、及川は乳製品が好きなのだろうか。だからこの男はこんなに背が高いのか……などと考えながら、港は棚に置かれた甘いものを見渡し、どら焼きを手に取った。これを選んだ理由はこれといってない。ただ久しぶりに食べたくなった、それだけである。しかし、港の手の中にあるどら焼きを見て、及川は微妙な顔をする。

「お前さ、やっぱり人の期待を裏切らないよね」
「……どら焼きのどこが駄目なの?」

 首を捻った港に対し「どら焼きが駄目なんじゃないよ」と及川は言った。

「仮にもさ、彼氏とのデートでしょ?」
「うん」
「もうちょっとこう……可愛い女の子! って感じのものは選べないの?」

 ほら、と言って及川は手に持った牛乳プリンを差し出して見せた。確かに及川の言う事は一理あるが、港は一つ言いたいことがあり、言い返す。

「逆に聞くけど、及川はもっと男らしい食べ物選べないの?」
「……確かに」

 目から鱗、と言った様子で及川は頷いた。この男は何を神妙に納得してるんだろう。

「俺、今日はフライドチキンも買おうかな」

 男らしさアピールをするためにそんなことを言う及川ではあるが、牛乳プリンは手放さないようだ。もう女らしいとか男らしいとかどうでもいいから、好きなものを買えばいいじゃないか。そんなことを思いながら二人でレジに並ぶと、丁度及川の前で会計をしたお客さんが、最後ひとつになったフライドチキンを買って行った。それを見て呆気にとられる及川の様子に、港は吹き出す。

「ぶふ……チキン買えないね……」
「黙りなよ」

 肘でグイとつついてくる及川の攻撃を受けても、港は暫く可笑しくて笑っていた。レジで会計をしている最中も笑いが収まらず、店員さんに変な顔をされてしまう始末である。笑われている事が面白くない及川は口元をひきつらせていたが、そんなむすっとした彼氏を置いて港は先にコンビニを出る。そして、人を笑っていた罰でもあたったのか、港はある異変に気づいた。コンビニを出て傘立てに視線を向けると、港がさしてきたはずのビニール傘が無くなっていた。普通の傘よりもやや大きくて使い込んでいたというのに、何度探しても見当たらない。

「傘が無い……」
「盗られたんじゃないの?」

 ビニール傘なんてすぐに盗まれるじゃん、と言いながら、及川は自身の傘をさした。背の高い及川に丁度いい青い傘を手に、及川は港の方に振り返る。

「ビニール傘売ってるんだから、買ってくれば?」
「それもそうか……」

 カバンから財布を取り出し、コンビニに入ろうとして港はピタリと足を止めた。先程どら焼だけではなく、切れそうになったシャーペンの芯をはじめとする文房具類を購入してしまったせいで、今財布の中に残っているお金は五十円である。今日はあまりお金を持ってきていなかったうえに、きっかり持ち金を使い切ってしまった事を思い出し、港は苦い顔で及川の方を振り返る。

「……及川君」
「何?」
「お金を……貸して頂けませんか……」

 及川に頼み事をすると、負けたような気になるのは何故だろう。おそらくひきつっているであろう表情のまま及川を伺うと、奴は嫌な笑みを浮かべた。

「え〜……どうしようかなぁ……」
「……」

 簡単にはお金を貸してくれる様子の無い及川に、港は「お願いします」と再度頭を下げる。しかし、及川は「お願いします及川徹様、って言ったらいいよ」と調子にのって言うものだから、港はぴくりと眉を上げる。恐らく、先程港が笑っていたことへの仕返しなのだ。ぐっ……と言葉を詰まらせていると、及川は「さぁ言え」とばかりにフンと鼻で笑う。

「じゃあいいよもう、雨に濡れて行く」

 意地を張ってそう言えば、及川は少なからず折れてくれるのではないかと期待した。しかし、期待は外れて「それじゃぁそうする?」と及川は平然と言って退けた。ポカンとしている港を置いて、及川はさっさと雨の中を歩き出して行く。あまりの呆気なさに、港は咄嗟に何も言えない。仮にもデートで、彼女を置いて行くことはないじゃないか…と立ち尽くしていると、数メートル程進んだ及川はぴたりと足を止める。そして、捨てられた犬のような気持ちでコンビニの入り口付近に立ったままの港の方に、ゆっくりと戻って来た。切なさと安堵に包まれたなんとも言えない彼女の表情を見てから、及川はハァ〜とため息をつく。

「置いて行くわけないじゃん」

 馬鹿なの? なんて辛辣な事を言うわりに、及川の笑みは優しかった。そうして少しだけ青い傘を傾けて、及川は自身の隣にスペースを作る。

「入れば?」

 及川の発言に、港は少なからず驚き目を見開く。及川は今の所持金に余裕があるはずなのだが、あえてお金を貸すようなことをせず、同じ傘の中に入れてくれると言う。これは所謂、相合い傘というやつではないだろうか。ゴクリと港が息を飲むと、及川は優しげな笑みから一変、フンと偉そうに鼻を鳴らした。

「優しい優しい及川さんが、有馬に『相合い傘』っていう貴重な体験をさせてあげよう」
「……」

 なんだかそんな事を言われると癪に触るが、相合い傘という未知のものに興味は無いのか? と言われれば嘘になる。相合い傘をして歩くカップルを何度か見た事があるが、どの恋人達も仲睦まじそうだった。それを及川と自分がやるのかと思うと、なんだか居心地が悪いような、むず痒いような、そわそわとした感情に襲われる。一体、どんなにドキドキとすることなのだろう。そんな淡い期待を胸に、港はなんとか「馬鹿じゃないの?」と言って意地を張りそうになる自分を抑えた。「素直になる事が大事」だと、最近友人に貰ったアドバイスを思い出す。その友人は彼氏と円満に交際しているので、彼女の言うことは確かなはずだ。
 羞恥や意地をなんとか堪え、港は一歩を踏み出し、及川の隣に並ぶ。及川に触れるくらいに身を寄せなければ一緒の傘の下に入れないために、遠慮がちに体を寄せると、及川は急に黙った。先程までの軽い態度から一変、いざ港が隣にやってくると流石に照れくさいらしく、歯切れ悪く「じゃあ行こうか……」とぼそぼそと口にする。それにこくりと頷いた港も何だか恥ずかしくて、暫く二人は無言のままで歩く。この大きな傘の下だけ、浮ついたふわふわとした空気が漂っている気がする。急に言葉数の少なくなった及川を伺いながら、港はなんとか緩みそうになる口元を引き締める。しかし、凄くカップルっぽい……! などと港が感動していられるのは、数分の事だった。

「濡れる……」
「俺も濡れてるんだよ」

 漫画の中ではよくあるドキドキのシチュエーションも、実際に体験してみると、現実的な問題に直面する。いくら大きな傘と言っても、背の高い及川と自分が並ぶと、どうしても肩が傘からはみ出してしまう。先程からブレザーの左側が濡れて色が濃くなってしまっているのを視界に入れて、港は現実を思い知る。少女漫画の中の主人公のようにドキドキとした気持ちはあるのだが、肩が濡れるというこの状況はそれを微妙に萎えさせる。

「……及川、もうちょっとそっち寄ってよ」
「充分寄ってるよ」

 おしくらまんじゅう宜しく、二人でぎゅうぎゅうと身を寄せ合って傘の中の陣地の奪い合いをする。なんだかイメージしていた相合い傘と違う、と思いながら、及川の持つ傘の柄を奪おうとすると、及川はそれを慌てて取り上げた。

「何?」
「私が持つ」
「やだよ。お前が傘差したら、俺屈まないといけないじゃん」
「ちょっとくらいいいでしょ」
「あの彼氏、彼女に傘持たせてるよ……って俺が思われるから嫌だ」
「お願い、どら焼き分けてあげるから」
「いらないよ」

 そんなくだらない言い合いをしている間に、傘から大幅にはみ出た港はどんどんと濡れていく。それに構わず及川から傘を奪おうとしていた港だったが、及川は自身の彼女が濡れネズミになっている事に気づき、渋々傘の柄を譲った。傘の柄を受け取って満足した港だったが、及川の背に合わせて傘をさすと、中々に腕を上げなければならない。暫くそのまま二人で歩いていたが、宙に浮かせていた腕がだるくなり、港は早々に及川に傘の柄を返すこととなった。

「……お前、馬鹿なんじゃないの?」
「言われなくても、そうなのかな? とは思ったよ」

 自身の背に合わせて、傘を肩預けた及川は、可哀想なものを見る目で港を見下ろす。そんな及川の視線から逃れるように、港は濡れたブレザーやカバンの水分を拭き取ろうと、ハンカチの入ったポケットに手を入れる。ポケットの中の目的のものを掴み、港はタオル地のそれをひっぱり出した。しかし、ハンカチと一緒にリップクリームまでポケットから出てしまい、足下の水たまりに転がり落ちる。「何か落ちたよ」という及川の指摘でそれに気づき、港は思わず「ヒッ」と小さく悲鳴をあげた。よりにもよって、リップクリームを所持している事を及川に知られてしまった。普通の女の子にしたら、リップクリームを持っていることが別段珍しいというわけではないのだが、港が持っているとなると話は別だ。先日、教室でキスしそうになってしまったことを意識して買ってしまったそれを、港は慌ててポケットに突っ込んだ。そんな港の行動の不審さに、リップクリームを見ても特に疑問に思わなかった及川は眉を潜める。

「何慌ててんの?」
「いや……別に……」

 内心汗だらだらの港をじっと眺めながら「ふーん?」と及川は納得のいかないような応答をする。やや目を細めてこちらを伺っている及川のあの顔は、港が何故悲鳴をあげたかについて考えているようだった。観察力に長けた及川に気づかれてしまうのではないか、とひやりとしている港の祈りも虚しく、及川はすぐに港が動揺している理由を察した。ニヤリと嫌な笑みを浮かべてから、及川はわざと「ふぅ〜ん?」と首をかしげてみせる。

「お前も、リップクリームなんてもの持ってるんだね」
「……」
「唇乾燥してると、痛いもんね」

 痛いところを突かれて何も言えない。黙ったまま視線を逸らすしかない港の方に少し寄ってから、及川は我慢出来ないとばかりに笑い出す。

「ぶっくく……」

 羞恥で言葉もなく震えている港を認めて、及川は空いた手でお腹を抱える。そのうち「あはは」と笑い声をあげるものだから、港は溜らなくなって傘の下から飛び出した。このまま羞恥に殺されてしまうくらいならば、雨に濡れたほうがましである。ついでに茹で上がった頭を冷やして貰おうと雨の中を小走りに歩くと、及川は追いかけて来てから、港の上に青い傘を傾ける。

「ちょっと、風邪ひくよ」
「いい……もう濡れて帰る……」
「まぁ、待ちなって」

 港を諭すように傘を持つ及川は、なんだか嬉しそうだった。そんな及川を見て、港はどこか毒気を抜かれたかのように立ち止まる。ニヤニヤと嫌なからかい方をしてくると思っていたのだが、そんな様子も無く、及川は傘の中に入るように促す。

「ほら、入りなよ」

 肩はちょっと濡れるけど、と及川は肩を竦めてみせた。雨のせいでしんなりと落ち着いた髪のように、どこか優しげな及川に少し見蕩れた。そしてそんな恋人に観念し、港は再び、青い傘の下に収まった。

二人の青い屋根

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