お約束というもの


テスト期間中の部活動は禁止されているため、授業が終わると皆下校するか、自習室か図書室で勉強に勤しむことになる。
クラスメイトも先生もいなくなった教室に一人残った栞は、今週日直のために日誌を書いている最中だった。
今日の授業の内容や提出物の有無、今日の反省など適当に書き綴っていると、教室に来訪者がひとり現れた。

「これ、たくさん貰って余ってるんだ。だからお裾分け」

そう言って、女バレ主将(通称:ボス)がわざわざ栞に持って来たのはリップクリームだった。
知り合いがドラッグストアに務めているらしく、リップクリームを誤発注して大量に仕入れてしまったらしい。
山のようにあるリップクリームを配って回っているらしく、ボスも40本近く貰ったらしい。
女子バレー部員に配り歩いているのだと、栞の机の上にそれを2本置いた。

「2本もくれるの?」
「うん。まぁ予備にするか…あんたの場合は黒尾にでもあげれば?」

冗談なのか本音なのか分からぬ無表情でそう言われ、栞はどう反応すべきか迷った。
しかし、口を半開きにしたままの栞を置いて、ボスはさっさと教室を出て行ってしまう。
妙な爆弾を投下するだけ投下して、満足したら去っていくの非常に彼女らしいと思う。

日誌を書いていたシャーペンを置き、机の上に転がるリップクリームを手に取る。
ピンクの台紙にパッケージングされたそれには、きらきらとした文字で「キスしたくなる唇!」と売り文句が書いてある。
ありがちなキャッチコピーに笑うと同時に、ひっくり返して裏面を見ると、どうやら色付きのリップではないらしい。
まぁ…確かに黒尾にあげられないこともない。

そんなことをぼんやりと考えていると、不意に頭上からぼたりと何かが落ちてきた。
茶色いその物体は非常に見覚えのある虫で、思わずあげた悲鳴と共に立ち上がると頭に何かがぶつかった。

「いってぇ!」
「ぎゃぁあ!って黒尾何してるの!?」

落ちて来たのは、いつぞや栞のカバンに3日間潜伏していた玩具のゴキブリだった。
懲りずにまだ持っていたらしい黒尾は、右手に栞の頭突きをくらって呻いている。
いつの間に背後にいたのか、後ろから玩具を落として私を脅かしたかったようだが、いい気味だ。
そう思いながら、ひっそり痛む自分の頭を摩った。

「お前…どんな石頭だよ」
「いや、黒尾こそ何小学生みたいな悪戯してんの?」
「俺、心はまだわんぱく少年なんだわ」
「わんぱく少年はそんなうさんくさい顔してません」
「それ普通に悪口じゃねぇか」

黒尾は「硝子のハートが傷ついた」などと言いながらさりげなく玩具のゴキブリを回収する。
またいつか、思い出したかのように悪戯の道具にするつもりなのだ。
呆れてため息をつくと、黒尾はしれっとした顔で栞の席の前に座った。
そして机の上に転がるリップクリームを見つけて、当たり前のように手を取った。

「何だこれ…」
「…あ、ちょっと」

別に見られても困るわけではないのだが、パッケージに書かれたキャッチコピーを見られるのは少し恥ずかしい。

「…うわぁ、お前…こんなリップクリーム2本も買ってんの?」
「違うよ、貰ったの」
「…何だ」

つまんねーの、と言いたげな黒尾はパッケージをひっくり返し、配合されている成分を流し目で読んでいる。
というか、何故この男はこの教室にいるのだろう。

「帰らないの?」
「おー、忘れ物したから取りに来たんだよ」
「…まぁ、そんなところだろうとは思ったけど」
「ついでにお前の邪魔して帰ろうかなーと」
「やめてよ…」

にしし、と楽しそうに笑う黒尾は、手の中にあるリップクリームを手遊びしながら、日誌を覗き込む。
何だよもうほぼ書き終わってるじゃん、と残念そうにする辺り、本当に茶々を入れにきたらしい。
そんな時間があれば勉強すればいいのに、と言いたいところではあるが、黒尾はそこそこ成績がいい。
意外にも、日頃真面目に勉強している所以である。
故に、どちらかと言えば黒尾より勉強ができない自分は偉そうには言えないのだ。

「キスしたくなるって、どんな感じなんだろーな」

きっと黒尾にとっては、純粋な疑問だったのだろう。
勝手にパッケージを開けて中身を取り出し、キャップを開けて中のクリームを凝視している。
栞も黒尾の手の中のそれを見ながら、黒尾の口から出た「キス」という言葉でやや上がった心拍数を落ち着けようとしていた。

「普通のリップクリームと変わらないと思う。ただの謳い文句だよ」
「そんなもんなのか?」
「そんなもんよ」
「へぇ」

暫くリップクリームを眺めているものだから、栞は日誌の最後の今日の反省の蘭に思いついたことを適当に書き記す。
手を動かして1分も立たぬ間に書いた文章を見返して日誌を閉じ、不意に顔を上げると、黒尾がじっとこちらを見ていた。
あまりにこちらを凝視しているものだから、流石に栞もたじろいだ。

「久世、試しにこれつけてみろよ」
「えっ…?」
「気になる」

気になるって…何を言っているんだ黒尾。
固まる栞を他所に、黒尾は「ん」とリップクリームを渡して来る。
待って欲しい、いや本当に。
黒尾にとってはただ気になるから実践して見せろといいたいのかもしれない。
しかし、こっちからしたらそれどころではないのだ。
悔しい事に、私は黒尾の事が好きなのだ。
その相手を目の前に、”キスしたくなる”リップクリームをつけるというのは、どんな羞恥プレイだ。

ギギギと首を動かすが、黒尾は別段からかいを含んだ表情をしていなかった。
どうしよう、逃げ場がないかもしれない。

「黒尾がつけてみればいいじゃない」
「それだと俺見えないじゃん」

まぁそれもそうだ。
うーん、と悩んだ末、逆に何故こんなに悩んでいるのかとはたと気づく。
そうだ、黒尾だって大して深い考えも無く言っているんだ。
私だって深く考える必要も無いじゃないか。

「…お?」

黒尾の手からリップを取って、さっさと塗る。
そしてどうだ!とドヤ顔をしてみせると、黒尾はやや引いた。

「いや、何でそんな自信たっぷりなんだよ」
「え?…あ」

しまった、今度は逆に気合いを入れすぎてしまった。

「あーでも…確かに。それ塗ってもただテカテカしてるだけだな」

まじまじと黒尾に顔を覗き込まれてやや緊張するも、奴の口から出て来た言葉にはひとかけらも気遣いは感じられない。
あまりにさらっと流されるものだから、先程まで無駄に悩んでいた時間はなんだったのかと酷く脱力した。



日誌も記入が完了し、教室の窓の施錠を確認し、黒板の日付を書き変える。
結局、栞が日直の仕事を終えるまで教室にいた黒尾は、親切にも教室のうしろのドアの鍵をかけてくれた。
丁度月変わりのために、黒板の上の方にある日付まで変えなければならず背伸びをすると、握っていた白いチョークを上で奪われた。
驚いて隣を見れば、長身の黒尾は悠々と日付を消して明日の日にちに書き換える。
ポケットに片手を突っ込んだ黒尾の左腕と、栞の肩がとん、と音をたてて触れた。

「ん」
「あ…りがとう」

白いチョークを栞の手に返した時、ふいに息を飲んだ栞に、黒尾はぴたりと動きを止めた。

まただ。
逃れるように視線を逸らした栞は、そっと白いチョークをチョーク入れにしまった。


たまに二人の間を流れるこの緊張は何なのだろう。
普段は見えないくせに、ふと思い出したように現れる仕切りが取り払われた感覚。
仕切りが無くなる瞬間を焦がれているくせに、傷付きたく無くてすぐに自身を覆ってしまう。
そう思っているのは、恐らく栞だけで、黒尾はまた別の事を考えている。

黒尾は、仕切りを張っておきたいのだ。
油断すれば簡単に消えるそれを、必死に守ろうとしている。
それを壊してしまえば、黒尾は本音を見せてくれるのだろうか。
もうこれ以上、散々に振り回されずに済むのだろうか。


一瞬で脳裏を過ぎたそれらに軽く笑うと、黒尾は「どうした?」と首を傾げる。
夕陽の照らす教室内はなんて雰囲気があるのだろう。
優しげな声色の黒尾の表情は凪いでいる。
惚れた弱みか、目を細めた隣の男は、見蕩れてしまうくらいには格好いい。

言ってしまおうか。
この状況では、そう栞に思わせるには十分な要素が揃っていたのだ。
はくはく、と口を動かしてから、栞は意を決して口を開いた。

「黒尾、私……」


瞬間、ガタン!という音がドア付近で聞こえた。
反射的に二人してそちらに視線を向けると、なんとそこに立っていたのは、後輩の三森さんだった。
2年生の彼女が何故3年生の教室に?と疑問を浮かべた栞の隣で、黒尾は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな舌うちをした。

「あの…す、すみません…お邪魔でしたよね?」
「え?いや、だっ大丈夫大丈夫!」

あはははは!と自分でも不審に思うくらいに高笑いをして黒尾の背中を叩いた。
パン!と子気味良くなった音に「いてぇ」と大して痛がりもせず黒尾が呻く。
先程の甘さを含んだ緊張感はもはや跡形も無い。

「そ、れで三森さんはどうしてここに?」
「…あの、今度の合宿の参加届けを出したいんですけど」

もの凄く申し訳なさそうにする三森さんに、逆にこちらが申し訳ない気持ちになる。
そして隣に立つ黒尾は微妙に不機嫌そうで、気まずいこの空間の中、栞は一人空回っていた。

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