透ける水面


今日の天気は昼頃から雲がかかり、夕方には雨が降るでしょう。
天気予報をしっかり確認して家を出たというのに、カバンの中に入れた折りたたみ傘が壊れていた事をすっかりと忘れていた。
先日の強風を伴う大雨の時に傘の骨が折れ、びしょぬれで帰宅したのは記憶に新しい。
それなのに今朝、壊れたままの折りたたみ傘をカバンに入れた自分に「お前は馬鹿か」と言ってやりたい。
試しに開いた傘は、とても使い物にならず、これなら傘を使わずに濡れて帰っても同じだろう。



昼間に比べれば雨脚も大分落ち着いている。
明日は学校が休みだし、この際濡れて帰っても問題は無いだろう。
かばんからタオルを取り出し、それを雨避けにしながら、栞は学校を後にした。
帰り道、驚く程生徒の姿が見当たらない。
雨だから皆さっさと帰ったんだろうなぁ、などと雨に濡れながら考えていると、ふと目の前を歩く相合い傘をしたカップルを見つけた。

薄暗くてよく見えないが、目をこらして見ると2人とも音駒の制服を着ている。
男の方は随分と背が高いようで、持っている傘が彼女の頭上の遥か上にある。
あれじゃあ横殴りの雨で濡れるんじゃないか、などと不安に思っていると、前を歩く二人は横断歩道で足を止めた。
信号が赤く点滅しており、彼らが立ち止まるのは当たり前なのだが、栞がこのままのペースで歩いているとカップルに追いついてしまう。
今現在、タオルを頭にかぶっただけでびしょ濡れの栞が彼らの後ろに立つのは若干気まずい。
しかし、気持ち歩調を遅らせるも、横断歩道の赤信号はそれなりに長く点滅し、ついに前のカップルに追いついてしまった。

できるだけ気配を消して歩こう、と意識はしてみるものの水たまりを踏んだことで跳ねた水は音を発してしまい、彼女の方に気づかれてしまった。
しかし、振り返った彼女に釣られてこちらを向いた彼氏の顔を見て栞はピシリと固まることになった。

「久世先輩…?」

女の子の方は、我が女子バレー部きっての期待のエース、後輩の三森さんだった。
まっすぐさらさらとした髪は水分を吸っているからか、しっとりとしており何だか色っぽい。
そして隣で傘を持って立つ黒尾は、湿気のせいかいつも撥ねている髪がやや大人しくなっている。

ギョッとしている二人を眺めて、ああそういうことなのか…と妙に冷静になる。
何故だろう、失恋したというのに落ち着いて穏やかなままでいられる自分が自分でも不思議だ。
もしかしたら、雨を直接かぶっているから頭が冷えているのかもしれない。
そう冷静に分析した辺りで、三森さんは慌てはじめた。

「びしょ濡れじゃないですか!傘はどうしたんですか?」
「…あはは、壊れた傘もってきちゃって使い物にならなかったんだよね」
「大丈夫ですか?…この先のコンビニで傘買いましょう」
「いや、いいよいいよ。私の家この近くだから」

じんわりと痛む心臓を感じながら、務めて朗らかな笑みを浮かべる。
道はこちらでは無いのだが、帰れないことも無いだろう。
そう思って、渡るはずの横断歩道から左に向きを変え、さっさと歩きだす。
「それじゃあ」と片手を上げて挨拶をすれば、三森さんは驚いたまま何か言いたげにしていたが、黒尾の方は呆気にとられたまま固まったままだった。
余程目撃された事がショックだったらしい。

二人に背を向け、薄暗い夜道をとぼとぼと歩きながら、思い出すのは黒尾とのそれなりに楽しかった思い出だった。
はじめて話した時から今に至るまで、自分はからかわれるばかりだった。
いつしか黒尾の事を好きになり、ちょっかいをかけてくる黒尾は私に気があるのでは、と淡い期待をくすぶらせていた。
言葉にはしなかったものの、黒尾は恐らく、栞が好意を寄せている事に気づいている。
しかし、それを分かっていて決定的な言葉を言わなった黒尾は、その答えを語っているようなものだったのだ。

そうか、私じゃ駄目なのか。

急に涙腺が緩み、唇を引き結ぶ。
雨に打たれずぶ濡れなうえ、失恋とは本当に惨めだ。
俯いたまま、グスッと鼻をすすった辺りで後方から走って来るような足音が聞こえた。
結構な速度で走っているらしく、すぐに傍までやって来た足音は栞の隣で止まった。

「馬鹿かお前、風邪ひくだ…ろ…」

傘を持たず走り寄って来た黒尾は、栞の顔を見て言葉を失ったようだった。
雨で濡れているから、泣いているのは分からないはずなのに、もしかしたら余程酷い顔をしているのかもしれない。

「…黒尾も人の事言えないじゃん」
「……」

声が若干震えてしまったが、いつも通りに振る舞えと己を一生懸命に落ち着かせる。

「俺も傘忘れたんだよ、仕方ねぇだろ」
「天気予報見なかったの?」
「…お前にだけは言われたくねぇわ」

はぁ、とため息をついて、黒尾は栞の右手首を掴んですたすたと歩き始める。
先程まで傘の下にいたためか、黒尾の手は温かかい。
黒尾に引かれるまま近場のマンションの屋根の下に入り、一旦雨宿りをする。

「ほら頭出せ、頭」
「ふごっ」

頭にかけていたタオルを絞っていると、顔面にタオルを投げつけられた。
自分で投げつけておいたくせに、顔面に張り付いたタオルを手に取って黒尾は「何やってんだお前」と呆れたように言う。いや、今のは黒尾のコントロールミスだろう。
濡れた頭にタオルがかけられたかと思えば、そのままごしごしと雑に水分を拭き取られる。
頭が揺れるために若干気持ち悪い上、髪の毛がよりぼさぼさになるのでやめて欲しい。

「黒尾もうちょっと優しく…」
「あ?お前超濡れてるから無理」
「ええ…」

明らかに過剰に頭を撫でくり回しているような気がする。
ぼさぼさ頭の自分を黒尾に見られるのはこれでも恥ずかしいのだが、もうどうあがいても無理だろう。

「いいか勘違いすんなよ。俺が濡れて帰ってたら三森が傘に入れてくれただけだからな」
「そう」

なんだ、そうなのか。良かった。
どうしようものなく自分の中を占める安堵感を悟られぬよう、そっけなく返すも、黒尾は動かす手を止めた。
私の心境が筒抜けなのか、黒尾が他人の心情を察知するのに長けているのか。
じっとこちらを見下ろす黒尾に目を向けられず俯いたまま、口元を引き結ぶ。

雨が地面を叩く音と、道路を走る車の音だけが二人の間を流れていく。
妙に静かな空間であるせいなのか、いつもと雰囲気が違うように思えるが、きっと気のせいだ。

「本当、お前俺の事好きだよな」
「……」

何でも無いように投下された言葉に、どう反応を示せば良いのかいつもは迷うはずなのだが、今回はすんなりと自分の中で判断がついた。
またいつもの冗談だ、にやついている黒尾の表情ですぐに分かる。
こういう冗談は、どういう返しをしたら黒尾は困るだろう。
暫く雨に濡れる道路を眺めながら思考を巡らせていると、黒尾は勝手に自爆した。

「お願いします何か反応してくれませんか」
「…自分でそういう事言ってて恥ずかしく無いの?」
「……すげぇ恥ずかしい」

やや頬が赤い黒尾は、珍しく照れているらしい。
自分で言っておいてこの醜態は恥ずかしいだろうなぁ、と他人事のように思っていると、あんま見んなと視界をタオルで塞がれた。

「あー、もういいわ。お前の家どの辺だよ、送る」
「いいよ、本当にこの辺りだし」
「お前、濡れ鼠のまま帰るつもりか」
「黒尾に送って貰っても濡れ鼠には変わらないじゃん」
「…そりゃそうだけど」

最もな事を言われて、黒尾は言い淀んだ。
しかし、数秒後には妙案を思いついた!とばかりに手を打つ。

「ほら、傘を忘れた惨めな気持ちを共有してやるよ」
「何それ」

黒尾に何のメリットがあるのか。

「雨に濡れて帰るっつーのも、なんか格好いいじゃん?」
「前から思ってたけど、黒尾ってそういうところ痛いよね」
「お前、人の厚意を素直に受け取れないのかよ」


結局、傘を持たぬまま黒尾は栞を家まで送ってくれた。
そして偶然にも、二人が家についた時に、丁度栞の父親が車で帰宅した。
車から降りて来た父親は、二人の経緯を聞いてから、びしょぬれの黒尾を見て「家まで送ろう」と提案した。
先程までへらへらしていた黒尾が妙に緊張した様子で「いや、大丈夫っす本当」とかなり遠慮していたが、結局父親の提案に折れた。
自分の父親と黒尾を二人にするのはどうかと思い、栞も車に同乗すると、流石に同級生の女の子の父親とふたりというのはキツイらしく、黒尾に感謝された。

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