死ぬかと思った、と後に彼は語った


かつてこれ程までに羞恥という感情に苛まれたことがあっただろうか。

やけに澄み渡った思考と視界の端で、栞から数メートル離れた所に丁度居合わせたジャージを着た男子生徒の足がぴたりと止まった。
近くのコンビニで昼ご飯を調達して来たのだろう、右手に下げたビニール袋には、2リットルのペットボトルと、弁当のようなものが垣間見える。

そんなことを考えながら、妙に冷静な顔で栞がその男子生徒の方を見れば、最悪な事に奴には見覚えがあった。
セットなのかはねているのか分からないが、まるで鶏のトサカのように跳ね上がった黒髪、男子生徒ですら見上げる程の長身に、飄々としていて普段から何を考えているのか掴み所が無いアイツに、栞は普段から振り回されっぱなりである。


遡る事数十秒前。
午前中の部活を終え、日差しを浴びながらのんびりと帰宅している途中だった。
春の暖かい空気の中、自転車で風を切ることがなんだか楽しくて、一瞬目を閉じて風を感じたのが全ての原因だった。
タイミングが悪いことに、その目を閉じた瞬間に道路にころがっていたやや大きめの石にタイヤで乗り上げてしまい、バランスを崩した。
しかもバランスを崩したせいで傾いた自転車は、丁度蓋のされていない側溝の方へ傾いた。
側溝の溝にはそれなりの泥水が溜っており、栞は体の重心を動かして側溝への落下を回避しようとしたが、傾く自転車は立て直せても進路までは変えられなかった。
そしてそのまま、ばしゃんと側溝に自転車ごと綺麗に落下した。

綺麗に着地したために怪我は無いが、靴の中にしみ込む水分を感じて非常な惨めな気持ちになる。
しかし、栞の不運はそこで終わらず、丁度側溝近くに生えていた木に衝撃を与えてしまったようで、木にひっかかっていたビニールのボール(空気が抜けきっている)が栞の頭部に丁度落下する。
べちゃ、と頭に帽子のように張り付いたそれは野ざらしにされていたためかボロボロで、剥がれたビニールが粉のように舞った。
予想外の不運の連鎖に呆然とするしか無かった栞に、とどめとばかりに近場にあったゴミ捨て場に捨てられていた玩具のぬいぐるみが、手に持ったシンバルをバリンバリンと鳴らし始めた。
まるで栞をあざ笑うかのように演奏し始めたぬいぐるみに視線を向けると、表面の布地は綺麗でまだ真新しいもののようだった。
急に動き始めたぬいぐるみというホラー要素が追加された辺りで、自分に向けられた視線に気づき、冒頭に戻る。


恥ずかしい。
今自分が足をつけている側溝に埋まってしまいたいくらい恥ずかしい。

さまざまな偶然が重なってもはやコントである。それを黒尾に見られたという死体蹴りに近い状況に、逆に笑いがこみ上げてきた。

栞と目が合うと、黒尾は真顔のまま口元を引き結び、ゆっくりと俯いた。
小刻みに肩が震えている事から、奴が笑いを堪えているのは一目瞭然である。

お互いに一歩も動かぬまま、数秒程沈黙が続く。

背後では、未だおもちゃのぬいぐるみがバリンバリンとシンバルを鳴らしている。
まるでこの場を盛り上げようとするかのように、ヒートアップして口にくわえた笛をピョロピョロ吹く始末である。
奇跡に奇跡が重なった、全く嬉しく無いこの状況に我慢の限界が来たのか、黒尾はやや息を漏らしはじめている。
もういい、いっそ殺してくれ、とばかりに栞は重い口を開いた。

「…笑いなよ」
「ゲホッ…ぐ、ぶひゃひゃ」

咳き込むと同時にげらげらと笑いはじめた黒尾を尻目に、栞は冷静に側溝から足を抜いた。
濡れた足が外気に触れてひんやりと冷たく、新学期に買ったばかりの靴下は泥で汚れている。
救いは今日は偶然履き潰したスニーカーで学校に来ていたことくらいだろうか。

なんとか水に浸かった自転車を引きずり出そうとするも、それなりの重さと扱いにくさでなかなか側溝から引き上げられない。
未だ鳴り続けるシンバルと笛の音、笑い転げる黒尾をの笑い声をバックに、栞は頭に乗せたままだった哀れな姿のビニールボールを払った。

「…黒尾」
「ヒィ…げっほ、ごほ…」

余程ツボに入ったらしい。
呼吸困難になりつつも、栞の声に応えるように黒尾は顔だけ上げた。

「…落ち着いたらでいいから、自転車引き上げるの手伝ってくれない?」
「…ゴホ、い…いいけど」

胸を何度か叩いて、自身を落ち着かせようとする黒尾。
しかし、そこへ追い打ちをかけるように、ぶわりと風が舞い、栞の足下に落ちていたビニールボールが地面を這った。
それに気づかず、栞が自転車を持ち上げようと一歩下がったためにそれを踏みつけ、それはそれは華麗に滑って転んだ。

景色が上に回り、お尻に自身の体重分の痛みが響く。
尻餅をついたまま、恥ずかしいとか、そういう感情を超えて悟りの境地に陥る。

私が何をしたというのだ、神様。

折角落ち着きはじめていたというのに、黒尾は再びげらげらと笑いはじめた。
うっすら泣いている上に若干苦しそうである。

ちょっとは転けたことに対して心配してくれてもいいじゃないか…という栞の思いなど露知らず、黒尾はついに地面に膝をついて震えている。

ああ、今日も空が青いなぁ、と現実逃避する栞の足下にある空気の抜けたビニールボールには、バナナが描かれていた。


ーー結局、黒尾が笑い転げている間に、自転車を側溝から引きずり出すことに成功した栞は、未だ地面に膝をついたままの黒尾に近寄った。

「黒尾、大丈夫?」
「…あー悪いな、久世。お前こそ大丈夫か?」
「ああ、うん…大丈夫」

半笑いで心配の言葉をかけられても、とじとりと黒尾を睨む。
視線を逸らして苦笑いを浮かべながら、黒尾はゆっくりと立ち上がった。
急に背の高くなった黒尾を見上げ、相変わらずの身長差に上に向けた首が痛い。

「いや、お前には悪いけど奇跡的だったな。なにもかも」
「そうだね、黒尾が笑いすぎて何一つ手助けができないくらいには奇跡的だったね」
「…ワリィって」

ガリガリと頭をかいてから、黒尾は暫く思案した後、思いついたとばかりに目を見開いた。
そして急に買い物袋をごそごそと漁りだす。
何をしているのだろう、と首を傾げる栞に、黒尾は菓子パンをひとつ差し出した。

「これやるから、元気だせよ」

笑い転げていたことに対するお詫びなのか、半笑いでコンビニでのパンを差し出す黒尾。
どこかからかわれているような感じは否めないが、なんとなくそのパンを受け取る。
バナナクリーム、と書かれた透明なビニールに目を落としてから、先程自分が踏みつけたボロボロのビニールボールに視線を向ける。
くっ、と息を漏らし笑いを堪えている黒尾に恨みがましい視線を向ければ、奴はニヤニヤとまるで悪戯が成功した子供のような顔で笑みを浮かべていた。

「凄くねぇ?俺今日バナナクリームパンにするかイチゴジャムにするか迷ったんだけどさ、バナナにして良かったわ」

何が良かったというのか、ビニールボールのバナナ柄と被ったと言いたいのか。

「全然良く無いんだけど」
「いやぁ、久しぶりにこんな笑ったわ。ありがとうな」

感謝の言葉を述べられても複雑な気分である。
私は靴下と靴がぐちゃぐちゃだわ、足元だけ寒いわ、自転車の下の方が泥で汚いわ、黒尾に失態を目撃されるわで散々である。

はぁーあ、とため息をつくと、黒尾の大きな手が頭をぽんぽんと叩く。
優しい手つきで撫でられ、不覚にも心臓がうるさく鳴りだす。

「元気でた?」

こうすれば私が喜ぶと分かっていてやっているものだから、この男は質が悪い。
意地でも認めてやるものか、と黒尾を睨んでみるも、「顔赤いけど大丈夫?」としらじらしく言われてしまった。

悔しい。
いつも黒尾は栞の1枚も2枚も上手で、翻弄されるのはいつも自分ばかりだ。

「黒尾の手バナナ臭い」
「えっマジで?」

こうして小学生みたいな理由でしか誤摩化せない自分に、頭が痛い。

back