「書き直すくらいの、度胸とかねぇの?」


チラシの裏に隠れるように書かれた小さな相合い傘。
そしてその中心に沿うように添えられた、特定の人物を指す暗号。
黒尾は、どこをどう書き直せと言いたいのか。

長い間返答を迷ったせいで、教室は静寂に包まれる。
そのせいで、ぽつりぽつりと降り出した雨の音が、だんだんと静寂を侵食して行くのが良く分かった。

しかし、一向に答える気配の無い栞を見かねて、黒尾は再び口を開いた。

「…バーカ、何そんな深刻な顔してんだよ」

ピシッと栞のこめかみ辺りにデコピンをし、黒尾はいつもの調子でけらけらと笑った。
普段通りの空気に戻ったと、栞は安堵したものの、黒尾がどこかぎこちないことに気づいた。

「それ、消しとけ」

ベラリとチラシをはがし、黒尾は栞の手元にある黒板消しに目を向ける。
消してしまっていいのだろうか、と一瞬悩んだ栞だったが、黒尾は栞に視線を向けることなく、じっとチラシの内容を眺めている。
内容に興味なんてないくせに、と内心思いながらも、栞は黒板消しを手に取り、白字で書かれた相合い傘を消した。
キャンディが指し示す女子生徒のことが脳裏を過ったが、消してしまった後ではもう遅い。


「…これ、後で『誰が消したの?』って言われない?」
「俺が消したって言やいいだろ」

そしたら誰も文句言わねぇだろ、と黒尾はあっさりと言ってのけた。
確かに黒尾が消したと言えば、書いた女子生徒は何も言えるはずもない。
しかし、かなり傷つくのではないのだろうか。

そう黒尾に言及しようと顔を上げた栞だったが、黒尾は黒板に対して綺麗に収まるようにチラシを丁寧に貼り直していた。
妙に集中しているものだから、意外と神経質なところもあるんだな、とどうでもいい感想を抱いたところで、ふと何故ここに黒尾がいるのかという疑問を思い出した。

「…そういえば黒尾、なんで教室にいるの」
「お、そうだった。お前に渡すもんあんだよ」

チラシを綺麗に貼り終えて満足したらしい黒尾は、「危ねー」と呟きながら、ポケットに手をつっこんだ。
がさり、と小さな紙音をさせて取り出したのは、手のひらサイズの赤色の紙の袋だった。
「ん」と言って目の前でそれを振るので、栞は慌ててそれを受け取る。

「何これ…?」
「ま、開けてみれば?」

緩く首を傾けて、首裏を掻く黒尾を不思議に思いながら、栞は赤い袋を開封する。
中に手を入れ取り出したのは、小さなネコのモチーフがくっついたストラップだった。
ネコのモチーフのそばには、小さな星の飾りもついており、華奢でとても可愛らしい代物である。

「この前の合宿の、ジュース代っつーことで」
「…ああ」

部活の合宿で、黒尾が栞の買ったバナナジュースと飲むヨーグルトを飲んでいたことを思い出した。
別に代金もお礼もいらなかったのに、というのが本音ではあるが、こうしてこんな物をもらえたというのは素直に嬉しい。

「ありがとう…黒尾」

学校のカバンに付けようかな、なんて思いを巡らせたせいか、どうやら栞の口元は緩んでいたらしい。
黒尾の視線を感じて見上げると、ニヤァと笑って「嬉しそうだな」なんて言うものだから、栞はうぐ、と言葉に詰まった。
羞恥で少し顔が赤いかもしれない、と慌てて俯くも、黒尾は未だ笑っている。
ああ恥ずかしい、と思いながらも気持ちは浮き上がる。
しかし、またここでふと思い出す。

期待してはいけない。
これはただの黒尾の善意で、別に自分が特別な訳ではない。
思い上がるな、後で傷つくのは自分だ。

「よし、雨が酷くなる前にさっさと帰っちまおうぜ」

栞に背を向け、黒尾は教室の出入り口へと向かって行く。
それをぼんやりと眺めつつ、栞も肩にカバンをかけて黒尾の後ろ姿を追う。

気を抜けば足が地面を離れてしまう心に、落ち着け冷静になれと言い聞かせる。
しかし、目の前にいる黒尾の右手に教室の鍵が握られているのを見て、ああ駄目だと思った。

「黒尾」
「んー?」
「私の事好きなの?」

言ってしまった。

後悔しても後戻りはできない。
それを証明するかのように、黒尾は出入り口にさしかかった辺りで足を止めた。
手の中にある鍵を握ったのか、チャリと金属の擦れ合う音が小さく響く。

バタバタバタという雨音が包み込む教室内に、ふたたび沈黙が流れる。
数秒してから、ドア際に立っていた黒尾はゆっくりと振り返った。
先程までの楽しげな表情は消え失せ、何を考えているのか読み取らせないような真顔のまま、栞をじっと見つめている。

自身の発言により、いつもの空気という、都合のいい誤摩化しは通用しない。
緊張と恐怖で、喉から何かがこみ上げてきそうだ。
こちらを探るような様子の黒尾と目を合わせ、ぐっと押さえ込むように息を飲むと、黒尾は真顔を歪めた。


「…なんで、そんな顔すんだよ」

ギッと目を細め、黒尾は苛立たしげに眉根を寄せた。
バン、と教室のドアを閉め、黒尾は流れるような動作で片手でガチャリと鍵をかける。

眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな表情を隠すつもりもない黒尾が、ズンズンと栞の方に歩み寄って来る。
その迫力に気圧され、栞も一歩一歩後退していく。

「お前、本当に何考えてんの?」

じりじりと距離を詰めて来る黒尾からは、恐らく逃げられない。
後方に逃げてみたものの、トンと背中が壁についてしまえば、もう目の前の黒尾と対峙するしかない。

「…黒尾こそ、何考えてるの」

それはこちらのセリフだ。
至近距離にいる男を見上げながらなんとか言い返せば、黒尾は吐き捨てるように笑った。

「教えて欲しい?」

笑っているのに、全く嬉しそうではない。
半ばやけになっているように見える目の前の男は、栞の両手首を掴み逃げ出さないように捕まえた後、栞の肩口に顔を埋めた。
あまりの距離の近さに黒尾の体温を感じ取り、栞はみるみる体温を上昇させていく。

脳裏を過ったのは、部活の休憩時間中に栞が黒尾に密着するかのように抱きつくような形となった、事故のことだった。
しかし、今この状況は事故でもなんでもない。
黒尾による故意的な物だと理解して、栞の鼓動は加速する。

あまりに心臓が動くものだから、黒尾に心音が聞こえるのではないかと内心焦りながら固まっていると、耳元で黒尾がボソリと呟いた。
その呟きはどこか弱々しく、切実な思いが込められていた。

「お前、俺の事好きなんじゃねぇのかよ…」

耳に吐息がかすめて、栞は体を震わせた。
そんなところで喋らないでよという抗議の意思と共に、栞は黒尾の発言に咄嗟に言い返してしまった。

「そうだよ何か文句ある?」

若干泣きそうになりながらそう言った後で、「あ」と間抜けな声が出た。
ぽろりと本音を零してしまった事実に気づき呆然としていると、黒尾がゆっくりと顔を上げた。

赤に染まる栞の顔をまじまじと眺めている黒尾は相変わらずの真顔だったが、先程の苛立った雰囲気は消えていた。

「…なんだよ、やっぱりそうじゃねぇか」

やっと吐いたな、と言いたげな口調で、黒尾はあからさまなため息をついた。

「あー無駄に悩んだわ」

そうぼやいて再び栞の肩口に顔を埋めるものだから、栞はまた体を強張らせる。
栞の両手首を掴んでいた手が離れ、今度は背中に周り、柔く引き寄せられる。

「お前、俺を弄んでんのかと思った…」
「…え?」

それもこちらのセリフなんだけど…、と心の内でこぼしつつ、栞も恐る恐る黒尾の背中に腕を回す。
広い背中に腕を回しきることが出来ないので、届く範囲まで手を伸ばした後、控えめに制服をぎゅっと握った。

「俺に気があるだろコイツって反応するくせに、お前たまに暗い顔してるし」
「だって…黒尾は思わせぶりな事するくせに、何考えてるか分からないし…」
「思わせぶりじゃねぇ、思わせたかったんだよ」

なんだよそれ、とクスクスと耳元で笑う黒尾にそっと視線を向ける。
先程までの緊張感は、ゆるやかに解け、教室を漂うのは穏やかで静寂な空気だけだ。

心が浮遊するのが自分でもよく分かる。
しかし、今回は、今度こそ、地面から足を離してもいいらしい。

「何でお前自惚れないの?馬鹿なの?」
「…黒尾がもうちょっと分かりやすくしてくれたら良かったんだけど」

栞も黒尾の肩に顔を埋めながら、ぼんやりと考える。
どうやら、私も黒尾も同じようなことを考えて、一歩が踏み出せていなかったらしい。
互いの好意を感じていたのに、それを疑わせるような素振りがお互いを足止めしていたのだ。
そう思えば、あんなにも思い詰める必要も無かったのかと、脱力したくなった。

「はは…超嬉しいな、これ」
「…うん」

お互いに水面下で探り合っていたくせに、潜った水の味を知らずにいた。
口を開けば、すぐに分かったはずだった。トロリとした琥珀色の水は、ひどく甘い。

目を合わせた後、その味を堪能するかのように、そっと重ねた唇は1度では満足できなかった。
これまでのしがらみから解き放たれて、制御のきかない想いをぶつけるように、何度も触れて深く侵食し合う。
より抱き寄せられた体が熱く、奪われていく酸素に頭がくらくらとする。

「やべぇな…ムラムラする」
「…馬鹿じゃないの」

黒尾の発言に若干腰が抜けそうになりながら、栞は呆れたように口を開く。
それを聞いても尚嬉しそうにしている黒尾は、至近距離でニヤリと妖艶に口端を上げる。
そして小さく栞の頬に一度口づけを落とし、流れるように栞の耳に口元を寄せた。

「好きだよ、久世」


二人を覆う雲は晴れ渡り、快晴の日差しが差し込む。
しかし、現実の雨はまだ止まない。



「黒尾、傘入っていく?」
「は?」

教室の鍵を閉め、二人して下駄箱までやって来たところで、栞はそう提案した。
持って来ていた傘を手にしている黒尾は「お前何言ってんの?」と言いたげな表情を浮かべている。
黒尾の反応は当然だと思うが、栞のこの提案もわりと本気である。
関係性の変わった記念日だ。
今日くらい、臭いセリフを言う事くらい許して欲しい。

明るい色の、いかにも女子が持っているような傘を開き、栞は勇気を出して口を開いた。

「こ、これで…相合い傘、になるでしょ…」

黒板に書かれた名前は、書き直せなかったけど。
羞恥が勝り、ぼそぼそとした呟きになってしまったが、黒尾は目をやや見開いて、広げかけの傘を手にしたまま静止した。

そして数秒後、ブフッと吹き出した黒尾は、ゆっくりと手に持っていた傘を閉じた。
爽快に笑いながら「お前急に素直だな」なんて言って、傘を傘立てにぽいと戻し、栞の方に一歩踏み出した。

「持ちましょうか、お嬢さん?」
「…お願いします」

紳士を装った黒尾に、栞もお嬢様を装った口調で、傘の柄を手渡した。
黒尾の身長に合わせて高くなる傘と、至近距離に立つ黒尾に、ドキドキと鼓動が高鳴っていく。
お互いの肩と腕がトンと触れ、どこか照れくさくなって二人して視線を泳がせた。

傘の中という狭い空間の中、雨のベールで作られた二人の世界には、明るい琥珀色が漂っている。

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