事故的に抱き合ってしまったあの一件があってから、気まずくなるだろうなぁ、と思っていた。
しかし、こうも普段通りに接されると、逆に腑に落ちないところがある。


「お前今日前髪どうしたの?何で一部だけ跳ねてんの?」

すれ違い様に栞の今日の寝癖に目ざとく気づき、生き生きとした様子でからかってくる黒尾を睨む。

「頭全部跳ね上がってる黒尾には言われたくない」
「はぁ?よく見ろ今日割と落ち着いてんだろーが」

そう言って自身の頭を指差す黒尾の髪を見ると、確かにいつもよりは…髪は跳ねていないかもしれない。
もの凄く微々たるもののではあるが。
しかし、ここで「本当だね」なんて言うのはなんとも癪な話だ。
こう思ってしまう辺りが、栞が黒尾に『可愛げがない』と言われてしまう所以である。

「寝癖っていうアイデンティティ無くなってもいいの?」
「いや、俺のアイデンティティ他にもあんだろ」
「髪の跳ねてない黒尾なんて黒尾じゃないよ」
「人を寝癖の化身みたいに言うんじゃねぇ」

そんなくだらない話を振ってくるくらいには、いつも通りの会話、空気。
別に、お互いに顔を赤らめて照れ合うような展開があるとは思っていない。
しかし、腑に落ちないということは、心の最奥では少しは期待していたのかもしれない。
照れくさい空気を必死に誤摩化しながら、普段通りに接している自分たちを思い浮かべる

現実では黒尾と自身の間にふわふわとした空気が横たわることは無いらしい。
未だあの時、黒尾に抱きつくように密着してしまった事を思い出し、悶えてしまう私は、なんて滑稽なのだろう。


「黒尾、お前この前呼び出しされてただろ」
「はぁ…?」
「ほら、1年生の可愛い子」
「……ああ」
「なんだよ、心当たりあるんじゃねーか」

昼休み終わりの掃除の時間。
お前地味にモテてむかつくわ、と脇腹に肘を入れられた黒尾の後ろ姿を視界に捕えて、栞は内心でため息をつく。
「本当にむかつく」と黒尾をつつくクラスメイトに同調しながら、集めたゴミをちりとりに収める。
「モテちゃってごめんネ」とふざけて返した黒尾は、二人の話を聞いていたもう一人のクラスメイトにみぞおちを一発殴られた。
グェ!と割と真面目なうめき声ををあげる黒尾に対し「あ、悪ぃ力入りすぎたわ」と棒読みで返すのは殴ったクラスメイトである。
よくやった!と心の内で親指を立てながら、栞はちりとりの中身をゴミ箱に捨て去った。
すっきりしたような、複雑なような、生温い感情がないまぜになったような思いを胸に振り返ると、胃の辺りを抱え込んでいる黒尾と目が合った。

自業自得でしょ、という意思を込めてあからさまにため息をついてみせれば、黒尾は懲りてないのか、楽しそうにニヤニヤと笑っている。

こういうやりとりをしていると、黒尾との距離感の近さを感じられるのに、素直に喜んではいけないような気がしてしまう。

黒尾は栞の気持ちに気づいているはずなのに、決定的な一歩を踏み込まない。
もしかして、黒尾はただ単に、私を翻弄して楽しんでいるだけなのだろうか。
気が有るようなそぶりを見せて、誤摩化しきれずに慌てている私を見てあざ笑っているのだろうか。

黒尾がそんな人間ではない、ということを知っているくせに、こんな捻くれた事を考えてしまうのは、あまりに黒尾の掴み所がないからである。
黒尾は栞にとって良い意味でも悪い意味でも、空気のような存在だ。
当たり前のように存在する反面、掴んだと思ってもその確証もなければ手応えも無い
この手の中にいるような気はするのに、それを確認するすべが無い。

とどめすら刺されない、当たって砕ける勇気も無い宙吊りの心に、行き場などない。


「久世、悪いんだけど後ろの黒板整理して、これ貼っておいてくれ」

放課後の帰りがけ、珍しく今日は放課後の部活も無いというのに、担任と目があったのが運の尽きだった。
今日は曇り空が続いているので、雨が降り出す前にさっさと帰ってしまいたいと思っていたというのに。

手渡されたプリントは今月の予定一覧と、受験に関する特別授業開講のお知らせだった。
まぁプリントを黒板に張り出すだけならそんなに時間もかからないか、と教室の後ろに向かう。
先月のお知らせと、既に用を済ませてしまった予定表、男子がふざけて貼った数学担当の似顔絵(かなり似ている)を固定しているマグネットを外し、紙類を外す。
現れた深緑色の黒板は、普段から掃除を行っていないせいかチョーク汚れで白っぽくなっている。
ついでに軽く掃除をしてしまおう、と黒板消しを持った時だった。

「久世さん、教室の鍵閉め頼んだ!」
「…えっ」

今日は栞の所属するバレー部だけではなく、どの部活も放課後の練習も無い。
そのために今日は早々に教室を後にする生徒も多く、気がつけばドア際に立つ男子生徒と栞だけが教室の中にいる状態だった。
帰る準備万端!という様子のクラスメイトは、栞にそう言い残して颯爽と教室から出て行った。

ただプリントを黒板に貼るだけだったはずが、教室の鍵占めまで言い渡されてしまった。
まぁ、そんなに手間では無いし、良いんだけどさぁ…と呟いてみたが、教室には栞以外誰もいないので、当然ながら返事は帰って来ない。

薄汚れた黒板を適度に綺麗にし、2枚のプリントを貼り、マグネットで固定する。
バチンと磁石が黒板に張り付く音を聞いて、ひとまず先生からの頼まれ事は完了する。

「よし」と貼ったプリントから手を離した時、不意に触れた近所の公園で開催されるイベントのチラシがぺらりとめくれる。
その時、チラシの裏に見覚えのある図柄が垣間見えた。
何だ?と確認がてらそのチラシを捲ると、その裏側の黒板に、白いチョークで小さな相合い傘が描かれていた。

ああ、そういえば、数日前くらいにクラスの一部の女子と、他クラスの女子で集まってこの辺りでこそこそしていたなぁ…、と思い当たる。
妙に盛り上がっていたものだから、栞でさえ良く覚えていた。
しかし、相合い傘を挟むように書かれている名前は、こうして栞のような目撃者が出てしまう事を怖れてか、暗号のような絵柄に差し替えられている。
左側に書かれているのは、恐らく数字の960。その隣に書かれているのは、包み紙に包まれたキャンディーの絵だった。

栞は、このキャンディーの絵柄を目にした事が有る。
2年生の時に同じクラスになった、吹奏楽部の可愛い女の子が良く描いていたイラストと酷似している。
女友達の間で、このイラストを自分のトレードマークのように使っていた上、この前の盛り上がりの中心にいた人物でもあるので、ほぼ確実だ。

いくら暗号にしたと言っても、あまりに分かりやす過ぎはしないだろうか。
若干心配をした栞であったが、隣に書かれた数字を目に止め、この数字が指し示す相手が誰なのか模索する。
誕生日でもないし、出席番号でも無い、読み方を変えてみても違……う?
何気なく脳内で読み方を変換した数字が指し示す人物が判明し、あ、と思わず言葉が漏れた。

960。くろお。

なんて安易な…と苦笑いを浮かべると同時に、栞の胸はギリリと締め付けられる思いがした。
なんだかんだで、こうして女子に好かれている奴に、嫉妬するなというのが無理な話だ。
なんであいつモテるんだろう、などと愚痴をたれてみても、自分でさえ、黒尾の事が好きな一人であるものだから、説得力に欠けてしまう。


「何見てんの?」

自身の後方、頭の上の方から不意に落とされた声に、栞は勢い良くめくっていたチラシを元の状態に戻すように、黒板に叩き付けた。
バン!というもの凄い音が教室中に響き渡ったが、そんなことを気にしている場合ではない。

たらり、と頬に汗が伝うような感覚と共に、栞はゆるりと振り返った。
気配を消して近づいてくるのは、本当にやめて欲しい。

「…今、何か隠しただろ」

カバンを肩にかけて、ポケットに手を突っ込んだ状態の黒尾は、楽しそうにニヤリと笑う。
この距離感だ、恐らく栞が見ていたものを黒尾だって視界に収めていたはずである。
分かっていて聞いているのだ、と直ぐに判断がついた栞は、ハァ…とため息をついた。

「…黒尾君は、人気者ですね」
「やっぱり?モテ期かな?」

おちゃらけたように肩を竦めて笑ってみせた黒尾は、チラシをべらりとめくり、内側に書かれている文字に目を落とす。
自分の名前が書かれているのは分かるらしいが、キャンディの絵が示す人物は分からないようだ。

「誰だこれ…?」
「…ほら、」

去年クラスが同じだった、彼女の名前を黒尾に伝える。
自分から聞いてきたくせに、「ふーん」と適当な返事をする。
しかし、黒尾は内心女の子に好かれて喜んでいるのだろう。
自身の感情を読み取らせないことに長けている黒尾のことだ、興味のなさそうな反応を示しているのは表側だけなのかもしれない。

気を抜けば期待してしまう自分をなんとか抑える事が、半ば癖になりつつある。
しかし、その方がいいのかもしれない。
高く高く舞い上がって、突き落とされるくらいならば、低く飛んで地に落とされた方が、痛みはきっと軽い。

そんなことを、半ば他人事のように考えている栞を現実に引き戻すかのように、黒尾は口を開いた。


「書き直すくらいの、度胸とかねぇの?」


さらりと落とされた言葉に、栞は息を飲んだ。

隣に立つ黒尾が、こちらを見下ろしているのがなんとなく分かる。
しかし、黒尾の発言の真意が読めずに固まる栞は、とっさに反応を示すことなどできなかった。

それは、どういう意味なのか。
そう言葉にすれば、どんな表情をしているのか分からない隣の男は、答えてくれるのだろうか。

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