ドラマや漫画で、人が木に背中を預けて寝ているシーンなどをたまに見かけるが、よく考えてみるとあれは相当難しい事だと思う。
あんな不安定な円柱に背中を預けたままでは、少しでもバランスを崩してしまえば地面に倒れてしまうし、相当に太い木でないと寝心地も悪そうだ。
そもそも木にもたれ掛かって寝ようと思う発想はどこから来るのだろう。
何故そこで寝ようと思うのか、そこで寝るくらいなら足元の芝生の上に体を横たえた方がずっと快適なはずだ。


「お前馬鹿なの?」
「…いや、結構まじめな話したつもりだったんだけど」

木に背中を預けた黒尾は、寝不足のせいで若干顔色の悪い表情で苦笑いをした。
部活の昼休憩の時間に、比較的静かな体育館傍の小庭にやって来て、昼寝をしようと思ったのだろう。

黒尾はいつも、まるで猫のように居心地の良い場所を探り当てるのが上手い。
確かに、部室の辺りは部員達も多くいてそれなりに騒がしく、落ち着いて休むならここだろう。
現に栞がここを通ったのは、体育館に置いたままのタオルを取りに来たためだけだ。

「黒尾、そこで寝られるの?」
「…思ったより居心地悪いわ」
「やっぱり?」

だと思った、と栞が言えば、どこかムスッとした様子で腕を組み、黒尾は意地で昼寝の体勢に入る。
若干眉間に皺を寄せたまま目を閉じた黒尾を暫く眺めながら、栞は口元を緩めて、黒尾の眉間とトントンとつついた。

「んだよ…こっちは昨日ゲームしすぎて眠てぇんだよ…」
「眉間の皺伸ばしなよ、そんなんじゃ疲れとれないって」
「…努力する」

意識したのか、眉間の皺を伸ばすようにリラックスしようとする黒尾はなんだかおかしい。
リラックスするためにリラックスするよう心がけるというのは、余計な負担なのではないだろうか。
栞がクスクスと笑うと、目を閉じたままの黒尾はため息をついたものの、微かに口元が弧を描いていた。


「…寝過ごすかもしれないから、昼休憩終わる前に起こしに来てくんない?」
「あー…気が向いたらね」
「おう、頼んだ」

気が向いたら、と言ったのに、まるで栞が起こしに来ることを分かっているような言い草だ。
仕方ないなぁ、と心の中で呟いて、栞は一時その場を後にする。
部室辺りで集まってお弁当を食べている部員達の元に向かいながら、栞の頭にはいつごろ黒尾を起こしに行こうか、ということを既に考えはじめていた。





昼休憩終了の10分前。
5分前行動が基本、というわけではない栞は、起用に眠りこけている黒尾の前にしゃがみこんだ。
思いのほか熟睡しているようで、どちらかと大人っぽい雰囲気を漂わせている黒尾にしては、無垢な子供のような寝顔だった。

男のくせに綺麗な肌が羨ましい。
そっと黒尾の頬をプニプニとつついてみるも、黒尾は起きる気配が無い。
昨日は孤爪君に強引にゲームにつき合わされたと言っていたが、あの控えめな彼にひきずられる黒尾が想像できなくて栞はいまいちピンとこなかった。
体育館みかけた孤爪君は至っていつも通りだったし、もしかしたら夜更かしにかなり慣れているのかもしれない。


もう一度頬をプニプニと指で強めに突いてみると、黒尾は「う…」と呻いた。
ああ、もう少しつつけで起きそうだなぁ、とぼんやりと思った栞だったが、どこからか悪戯心が湧いた。

寝起きの黒尾を驚かせたい、手段は何でもいい。
特に深い考えもないまま、栞は黒尾の頬を突いていた手を引っ込める。
普段から、黒尾にはかわかわれてばかりの栞が、仕返しをする絶好の機会である。

何をしてやろう、と栞はジャージのポケットに手をつっこみ、中に入っていたシャーペンを取り出す。
顔にらくがきする、というベタかつなかなか実行には移せない悪戯が思い浮かぶも、すぐに却下する。
シャーペンで顔に描けるわけもないし、描いたとしても黒尾の顔が傷だらけになってしまう。

無言でシャーペンをしまい、栞は1分程うーんと悩む。
しかし、これといって面白く、インパクトのある悪戯が思いつかない。

昼休憩の時間も残り5分をきったために、栞はしぶしぶと諦めて黒尾の肩を揺すった。
触れた黒尾の肩はがっしりとしていて、揺らすのにもそれなりに力が必要だ。
ああ、やっぱり男の人なんだよなぁ、とぼんやりと考えつつも、何やら呻きはじめた黒尾をじっと眺める。

「待て…俺には…俺には……」

寝言だろうか?眉間に皺を寄せ苦しそうにしている黒尾を観察しながら、今度は肩をばしんと叩く。

「俺は…こんなところで…死ぬわけには……!」

普段からたまに拗らせたような発言をするなぁとは思っていたが、一体どんな夢を見ているのだろう。
夢の中で、どこぞの魔王とでも戦っているのだろうか。
こんな体育館横の小庭で、ジャージ姿で。

「俺には…故郷に残して来た妹が…!」
「…いや、起きてるでしょ黒尾」

なんだかさっきより言葉がはっきりとしている上、口もとが緩んでいる。
ぐに、と両手で黒尾の頬を掴んで引っ張ると「いひゃい」と呟いて目を開けた。
「痛い」と上手く発音出来ていない黒尾の呟きに、ひそかにときめいていると、黒尾はおもむろに栞の両手首を掴んだ。

黒尾のその行動にはたいして深い意味等なかったはずだ。
いい加減頬をつねっている手を離せ、というだけの訴えだったのだと思う。

しかし、栞は今黒尾の目の前にしゃがんでおり、体のバランスをとりにくい状況にあった。
その状態で両手を伸ばし、黒尾の頬に伸ばしていた腕を引かれたものだから、体の重心があっけなく前に動き、手が掴まれているために黒尾と距離もとれない。

あ、とか、うわとか、そんな間抜けな声を出す余裕すら無かった。
そのまま黒尾の体にしなだれかかるように倒れ込み、全身に黒尾の体の感触と体温を感じ取る。

黒尾も予想外の事に驚いたのか、ビクリと体を震わせてから硬直した。
互いに無言のまま、密着すること数秒。
その間に上空をカラスが飛行していったのか、カァーという鳴き声が2人をあざ笑うかのように響き渡る。

端から見れば、木陰の下で抱き合っているように見える事態に栞は頭が真っ白で、体は発火しそうに熱く、心臓も異常な程の鼓動を刻んでいる。
黒尾の肩口に顔を埋めたままの状態で、はくはくと口を動かすものの、何を言うか等考えてもいないので、当然ながら言葉にならない。
互いの間には、うすっぺらいジャージという隔たりしかなく、男の人とこんなに密着したことの無い栞は、体全体でダイレクトに感触を感じながら、ほとんどパニック状態だった。
しかもそれが、好きな人相手であるから余計にだ。

黒尾も似たような心境なのか、未だ栞の両手を緩く掴んだまま無言のままである。
しかし、ずっとこのままというわけにもいかないだろう、と栞が勇気を出して「あの」と言葉を漏らした時に、ふいに近場にあった体育館のドアが開いた。

黒尾にくっついたまま首だけで振り返れば、ガガガと重たいドアをゆっくりと開けたのはリエーフ君だった。
体育館内の空気の入れ替えでもしようと思ったのか、それなりに解放してから、やっと栞と黒尾の存在に気がついた。

「…あっ」

リエーフが栞と黒尾を視界に入れて二人の状況を理解した後、ドアを開けようとした手を止めた。

見られた、しかもよりによってリエーフ君に。

青ざめた栞を他所に、黒尾はおもむろに栞の肩を掴んで自身から引き離した。
そのまま勢い良く立ち上がり、リエーフの方へ走っていく速度は相当なもので、今にもドアを閉めようとするリエーフ君は若干おびえている。

「やっ…夜久さぁん!たすけ、」

重たいドアをそうすんなりと閉めることができなかったリエーフは、目前に迫った黒尾に若干涙目になりながら、助けを呼ぶ。

どんな形相をしているのか栞には知る由も無いが、あんな早さで寄って来られるのはさぞや恐ろしいだろう。
半ば他人事のようなことを考えていた栞は、ただその光景を眺めるだけだった。

ガァン!ともの凄い音を立ててドアに手をつき、もう片方の手はリエーフの胸ぐらを掴んだ黒尾は、ふぅと息をついてからリエーフ君に何かを言ったようだった。
何を言ったのか栞には聞こえなかったが、顔色を悪くしたリエーフ君は首が取れるのでは?と心配になるくらいに頷いていた。
大方、口封じでもしたのだろう。

ここまでくると、栞もやや冷静になり、その場からゆっくりと立ち上がる。
体育館の中は既にざわざわとしており、昼休憩の時間が終わったという事が分かる。
私も早く練習に戻らないと、と思いながらも、このまま黒尾に何も言わずにこの場を離れるのは気がひけた。

「黒尾!」

未だリエーフと何かを話している様子の黒尾は、栞の声に反応したものの、こちらに振り向かない。
リエーフ君も黒尾を見て首を傾げていたが、栞は未だ収まらない胸の高鳴りを抑えながら、口を開く。

「さっきはごめん。練習始まるから私、行くね」

次に黒尾に会ったとき、気まずいだろうなぁ。
両手を頬にあてて、顔に集まった熱を冷まそうと試みたが、時間がかかりそうだ。
そう思いながら、栞はやや逃げるようにして、その場を後にした。

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