05話 絵画

 昼休みの明けの一発目の授業というものは、非常に睡魔に襲われやすい。昼ご飯を食べてお腹が満たされ、温かな日差しが教室に差し込めば、居心地が良くて思考も鈍くなる。例に漏れず、午後一番の授業がはじまって十分程でフラフラとしている生徒もちらほらいる。しかし救いと言うべきか、現在は自習中である。担当教科の教員が体調不良で学校を休んでいるための自習、代わりに監督の教員が教室内にいるが、生徒が睡魔にやられて伏せていても、特に口出しもしない。そんな緩い監視の元、桃子はいっそ寝てしまいたかったが、こういう時に限って目が冴えてしまっている。
 自主勉強のために教材を開いてはいるものの集中できず、問題の内容が頭に入ってこない。やるべき事はあるにも関わらず、時間を持て余すという状況。桃子は何も書かれていない黒板をぼんやりと眺めてから、視界の端で浮遊する赤い糸に視線を動かした。
 相変らず桃子の小指に結ばれた赤い糸は、桃子の少し前の席に座る赤葦の方に伸びている。赤葦も目は冴えているのか、教材を開いて黙々とノートに書き込んでいる様子である。赤葦は基本的に真面目な人なので、机の上に伏せって寝ているところを見た事が無い。たまにカクリと首傾け、睡魔と戦っているところを見かける事はあるが、それでも背筋を伸ばして、先生の話を聞いている。こういう普段の態度から彼の人となりが分かるもので、桃子は普段から感心している。それに比べて自分はどうだろう。自習時間の今でさえ、何かいい暇潰しはないだろうか……なんてぼんやりとしている始末だ。来年には受験生になるというのに、気が緩みすぎだろうか。
 気持ち的に背筋をピンと伸ばし、桃子は机に転がしていたシャーペンを手に取った。勉強に集中しなければ、と問題集に視線を落としたが、自身の赤い糸がノートの上を浮遊し少し邪魔である。手を払うように動かし赤い糸を払いのけた桃子ではあったが、その拍子に赤い糸が不思議な形に変形した。少し大きめな丸に、突起が二つ。まるで一筆書きで書いた猫の頭のような形になった赤い糸を見て、桃子はふと動きを止めた。宙に浮いている赤い糸の一部は、歪な猫の形を保ち、ふわふわと桃子の正面辺りを漂っている。
 もう少し形を整えれば、綺麗な猫の形になりそうだ。桃子がぼんやりとそんな事を考えた瞬間、歪みのあった猫の形を作り出していた糸が動き、形を整えて
 今、自分が考えている事に反応をしなかっただろうか。シャーペンをギュッと握りながら、桃子はゴクリと息を飲んだ。もしかして……と思い至り、桃子は脳内で猫を思い浮かべた。某有名な映画の黒猫、頭からは二つの耳がぴょこんと伸び、スラリとした体からは長いしっぽが伸びている。まるで念じるように猫のシルエットを想像していると、猫の頭だけを形作っていた赤い糸が動いた。そしてフワリと形を変え、今度は猫の体のシルエットの形に変形した。桃子から伸びる赤い糸の途中、急に現れた猫に目を見張り、桃子は口をやや開いた。
 これは大発見だ。どうやらこの赤い糸は、頭でイメージしたものの形を現す事ができるらしい。

 この新事実を一刻も早く赤葦に伝えなくては。しかし、生憎午後の時間は始まったばかり。この静けさの中、斜め前方あたりの席に座る赤葦に声をかけられるはずもない。早く報告したいのに話す事ができないこの状況で、桃子はいよいよ集中力を無くしてしまった。早くこの事実を伝えたい、この赤い糸で作った猫を見て欲しい。うずうずとしながら赤い糸を眺めていた桃子は、ふと妙案を思いついた。ここまで形にできるのだから、この形を保ったまま、赤い糸でできた猫の形を赤葦の元まで運べないだろうか。脳内で、猫が動くようにイメージしながら念じると、糸の上の猫はゆるゆると動き始めた。動きは鈍いが、思った通りに赤い糸が形を変えていくので、桃子は嬉しくて仕方が無い。何故今までこの事実に気付かなかったのだろう、と興奮気味に赤い糸でできた猫を動かし、ついに勉強に集中している赤葦の元まで送る事に成功した。
 果たして赤葦は気付いてくれるだろうか、とそわそわとしていると、シャーペンをスラスラと動かしていた赤葦がピタリと動きを止めた。桃子の視界にうっすらと、赤葦の視界に浮かぶ赤い糸の猫が確認できる。赤葦の後ろ姿から確認できず、どんな表情をしているのかは分からないが、きっと驚いているだろう。後ろの方の席で、できる範囲で観察していると、赤葦は糸に触ろうと手を伸ばした。しかし、糸は赤葦の手をすり抜け、その拍子に猫の形が崩れてしまった。それに慌てたらしい赤葦は、少し焦ったように手を動かし、なんとか猫の形に戻そうとしたが、糸は手をすり抜けるばかりである。赤葦の奇行に気づき、隣の席に座っている女子が顔を上げたタイミングで、赤葦はシャーペンを握り直し、普段通りを装った。しかし、女子生徒は不審そうな顔で隣の席の赤葦の方を窺っている。
 なんだか悪い事をしてしまったかもしれない。急に冷静になった桃子は、同時に赤葦の勉強の邪魔をしてしまった事にも気付いた。折角問題集に集中していたのに、迷惑だったかもしれない。サァと顔を青くした桃子は、視線の先にいる赤葦の背中を見つめるものの、赤葦が今どんな顔をしているかは確認出来ない。後で謝らなくては……と思いつつ、桃子は転がしていたシャーペンを握った。大人しく勉強しよう。そして授業の後で、赤葦にこの事実を伝えよう。桃子がそう決めてから、問題集に取り組みはじめて二十分が経過した頃だった。
 クイクイ。不意に視界の端を漂っていた赤い糸が揺れ、桃子は行き詰まっていた問題から顔を上げる。すると、桃子の小指付近の赤い糸が、何やらもじゃもじゃとした形を形成して浮かんでいた。これが何なのか全く分からないが、明らかに誰かの手が加えられた痕跡がある。まさか……と視線を赤葦の方に向けると、頬杖をついた体勢で、赤葦がほんの一瞬、桃子の方に顔だけチラリと振り向いた。少しだけ楽しそうな表情でこちらを見た赤葦と目が合い、桃子はやや目を見開いた。何か企んだような、仕掛けたような表情を浮かべた赤葦は、そのままフイと正面を向き、問題集に集中しはじめた。
 今の様子から察するに、この赤い糸のもじゃもじゃを作ったのは赤葦なのだろう。赤い糸に触る事ができない赤葦ではあるが、念じる事で糸の動きを操作することはできたようだ。そうして桃子の小指辺りでプカプカ浮いている謎の固まりの作者が誰か分かったところで、問題はこれになんの意図があるのか分からないところである。何なんだろうこれは。糸が絡まって固まっているようにしか見えないが、赤葦のあの表情を見ると、何かをイメージして作って寄越したような印象を受けた。……花だろうか、それとも雲だろうか、はたまたポップコーンなのか。謎に包まれた造形物に気を取られ、桃子は問題集どころではない。赤葦のイトが、全く分からない。しばらく「うーん」と悩んだものの、桃子は最終的に答えが出せず、再度赤葦に尋ねることにした。
 もう一度お願い、という念を込めて、赤い糸でクエスチョンマークを作り出す。一本の糸でその形を現さなければならず、制作には少し時間がかかったが、なんとか完成したそれを赤葦の元に送る。まるで授業中に女子同士が行う、大して内容の無い手紙交換のようだ。無事赤葦の元に記号が辿り着いた事を確認し、桃子はなんとなく教室を見渡す。自分たちの会話に気付いている人間は誰もおらず、教卓の前に座っている先生も採点に集中しているようである。それに安堵してから、桃子はチラリと赤葦の方に視線を向ける。送られてきたクエスチョンマークを確認し、何やら赤い糸で制作途中であるらしい。赤葦の手にはシャーペンが握られているものの、先程からその手は全く動いていない。
 待つ事十分程。もうすぐ授業も終わってしまうというタイミングで、赤葦は再び赤い糸の固まりを寄越した。先程桃子の所に届いたものに比べると幾分かスッキリとはしているが、やはりこれが何なのか分からない。先程は花という線が有力ではあったが、次に届いたものは花というより、雲に見える。しかし、あの赤葦が雲なんていう曖昧すぎるモチーフをわざわざ寄越すだろうか。問題を解いている時よりも真剣に考えているのに、考えても考えても、しっくりとくる解答に辿り着かず、桃子は額を片手で覆った。隣の席で寝ていた男子がふと顔を上げ、悩んでいる様子の桃子をチラリと見てから、再び机に伏せた。もしかしたら桃子が勉強で随分悩んでいると思ったかもしれないが、桃子の頭を悩ませているのは赤葦作の芸術品である。もうここまできたら、授業が終わってから直接聞いた方が早いだろう。授業が終わり、クラスメイト達が席から立ち上がっていくのにつられ、桃子もカタリと椅子から腰を上げた。同時に赤葦も立ち上がり、お互いに示し合わせたかのように鉢合わせる。もはや周りの視線など気にしていられない。

「奈島さん、これ……」
「うん……でも、あの……先にちょっといい?」

 赤い糸が自分たちの意思に従ってある程度動くというのは、これまでの自分たちの成果に比べると世紀の発見である。しかし、桃子はそれよりも先に、この固まりの正体が気になった。そして「これ何?」と尋ねると、赤葦は少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。

「ねこ……のつもりなんだけど」
「……え?」

 にゃーん? とこの赤い糸の固まりが鳴いた気がした。そしてこの時、赤葦が独創的な感性の持ち主である事を知った。