04話 繁忙

 授業中、桃子が黙々と板書された内容をノートに書き込んでいる時だった。
 なんとなく視界の端で何かが揺らめいたような気がして、桃子はふと顔を上げた。赤い糸が見えるようになってからは、視界の端でちらつくものと言えば、十中八九赤い糸である。そして今回も、桃子が見つけた先にあったのは赤い糸だった。しかし、その赤い糸の片方が切断されており、行き場の無い赤い糸が浮遊しているという、桃子にとっては珍しい光景だった。

「赤葦君」
「何?」
「最近、赤い糸切ったりした?」

 休憩時間。丁度近くを通りかかった赤葦に、桃子はさり気なく声をかける。「最近、桃子と赤葦君て仲いいよね」と友人に指摘されてから、少しだけ周りの視線が気になるが、だからと言って教室以外で赤葦に気軽に話しかけられる場所もない。

「いや、してないよ」

 桃子の質問に答えつつ、赤葦はゆるりと視線だけを左に向ける。丁度二人の傍で漂っている赤い糸は、まるで自分の存在をアピールしているようだった。

「これの事だよね?」
「うん……」

 至って普段通りを装いながら、揺れる赤い糸を目で追いかけ、赤葦も頷く。教室内に突如現れた赤い糸の切れ端には、赤葦も気付いていたようだ。二人にしか見えない赤い糸という謎の存在。その話題を共有できるのは、当然ながらお互いだけである。

「謎ばっかり増えるよね、ほんと」

 はぁ……とため息をつき、赤葦はさり気なく手を動かし、赤い糸の切れ端を掴もうとした。しかし、赤い糸は赤葦を翻弄するようにスルリと手を抜け、可笑しそうに赤葦の目の前をスイと泳ぐ。まるで意思を持っているようだと、桃子もさり気なく手を伸ばすと、赤い糸は桃子の手の中に呆気なく収まった。それを見た赤葦はむすりと口元を引き結び、面白く無さそうにスンと鼻を鳴らす。少しだけ拗ねたような赤葦を見たのははじめてで、思わず吹き出しそうになってしまったが、桃子はなんとか口元を引き締めた。

「あっちの方から伸びてるみたいだね」

 桃子の視線の先、窓の向こうに続く赤い糸は、学校からずっと離れたところから伸びているようである。

「どこから伸びてるんだろう」
「まぁ……気になるよね」

 気にするな、という方が無理な話だ。学校の教室からでは、かなり遠くまで伸びているように思えるが、案外そちらに赴いてみると、近い場所にあるかもしれない。このイレギュラーな赤い糸の先には、何があるのだろう。探してみようか、なんて蘇った子供心をくすぐられる。さながら、虹の根元探しのような心境ではあるが、そう思うのはどうやら桃子だけでは無かったらしい。暫く何かを考えた後、赤葦は「提案なんだけど……」と言葉を続ける。

「この糸の元がどこにあるのか、探しに行ってみる?」





 日曜日、駅前。
 普段着の中でもお気に入りの部類に入る、動きやすい服装で待ち合わせ場所に立っていた桃子は、道往く人の中に知り合いがいないかとヒヤヒヤとしていた。「一緒に赤い糸の切れ端の先がどこにあるのか探しに行こう」という赤葦の提案に頷いた桃子は、赤葦と連絡先を交換し、本日その約束をしていた。
 しかし、その約束をして直ぐに脳裏に「休日に二人でいたらデートと間違われないだろうか」という一抹の不安が過った。そろりと赤葦の様子を窺ってはみたが、本人は平然としている。そんな下心のようなものがカケラもない事は分かってはいるが、高校生の男女が二人一緒にいれば勘違いされるかも……とは思わないのだろうか。……しかし、そんな事を言っていては何もできないのだが。

「ごめん、待たせた?」

 まるでデートの待ち合わせに遅れてやって来た彼氏の如く登場した赤葦は、見慣れない私服姿で桃子の前に立った。至って普通の男子高校生のようなラフな格好ではあるものの、赤葦は身長がある分様になって見える。普段見る事のない服装のクラスメイトをぼんやりと見ていると、赤葦は不思議そうな顔で「奈島さん?」と首を傾げた。

「あっ……いや、そんなに待ってないから気にしないで!」
「そう? なら良かった」

 ふぅ、と息をついてから、赤葦は自身の傍に漂う例の赤い糸に視線を向ける。先が切れてしまった持ち宿主不明の赤い糸は、どうやら赤葦の事が好きらしく、先日からずっと赤葦の後を追っている。

「それじゃあ、行こうか」
「うん」

 そうして二人は、相手不明の赤い糸の元を探すために、歩き始めた。今日までの間に、この赤い糸がどの辺りにあるかの大体のところを絞り込み、見当をつけたのがこの駅周辺である。目測でしか確認出来ていないという曖昧な部分もあるが、恐らく例の赤い糸の元は、この町のどこかにあるだろう。

「見つかるといいね」
「そうだね……見つかれば万々歳だけど」

 見切り発車な部分の多い今日の探索。目的の物が見つかればいいが、恐らくその可能性はどちらかと言うと低い。ただ、もしかしたら見つけられるかもしれないという、可能性にかけただけのものである。

「でも、なんだか意外だなぁ」
「何が」
「赤葦君て、こういうテキトーな事しないんだろうな〜と思ってたから」

 友達に少しだけ聞いた事がある。赤葦は二年生にして男子バレー部副主将、ポジションはチームの司令塔というべきセッターであるらしい。司令塔というのだから、恐らくチームのブレーン的存在、行き当たりばったりとは無縁の、計画性のある策略家のイメージがある。赤葦という人と親しくなってからそんなに時間は経過していないが、彼の落ち着き様は、まさに頭脳派の人間を思わせる。観察し、それに基づいて結論を出すタイプ。とりあえずテキトーにやってみようか! なんて考える事の多い桃子とは、真逆の性質。

「そんな事ないよ」

 ふっと笑いながら、赤葦は目の前の赤い糸に視線を滑らせる。相手のいない切断された赤い糸は、構って欲しいとばかりに、赤葦と桃子を繋ぐ赤い糸の傍を揺れている。

「俺も普通に面倒くさい事はしないよ、考えるのが嫌になったらテキトーな事するし」

 今日のが良い例だ、なんて言いながら、赤葦はゆるりと右手を持ち上げる。そうして揺れる赤い糸に鋏を入れるように、指で糸を挟み込む。しかし、赤葦に鋏を入れられる前に、浮かぶ赤い糸はふわりとすり抜け、切られるものかと漂う。いつからだろうか、赤葦と桃子を繋ぐ赤い糸は、赤葦に切られまいと逃げるようになった。

「今日みたいに、見つかるかも分からないもの探しに出てるのも、全部面倒くさくなっただけだしね」
「あはは、私なんて最初からそうだよ」
「みたいだね」

 クスクスと笑いながら、赤葦は悪戯に赤い糸を追いかけるのをやめた。秘密を共有してから早数週間。赤葦とこんな風に喋ったのは、初めてかもしれない。

「それに」
「……?」
「宝探しみたいで、ちょっと楽しくない?」

 困ったように笑ってみせた赤葦は、存外子供っぽい好奇心を持ち合わせているらしい。
 そうして雑談をしながら歩く事、一時間程。普段こんなに二人きりでいる事なんて無いものだから、話題が尽きないかとドキドキとしたが、その心配が杞憂に終わるくらいには、とりとめの無い話が続いた。普段全く接点が無かったからこそというべきか、二人は程よく互いの事を知らなかった。出身の中学校はどこか、部活動はどんな感じか、今度の試験についてはどうか、どの辺りに住んでいるか。そうしてお互いに情報交換をしている途中、何故だか赤葦の表情が固くなった。

「赤葦君、どうかした?」
「いや……なんだか嫌な予感がする」

 え? と桃子が首を傾げると、赤葦は先に伸びる赤い糸を眺めた後、ポケットから携帯を取り出した。画面を操作し、何かを調べてから「まさかな……」なんて呟くが、桃子にはさっぱり話が分からない。

「何かあったの?」
「……もしかしたらなんだけどさ、」
「うん」
「この赤い糸……俺の家の方に伸びてるかもしれない」
「……え?」

 いやでも可能性の話だし……なんて眉間に皺を寄せた赤葦は、しかし疑惑を捨てられずにいるらしい。今日家を出た時はなんとも思わなかったらしいが、思い返してみると自宅の方向に赤い糸があった気がするのだと、赤葦は盛大にため息をついた。

「何で気付かなかったんだろう。駅前に待ち合わせじゃ、かなりの無駄足だったかもしれない」

 赤葦の家のある方へは、便の多いバスが通っているらしい。とりあえず、赤い糸が近くに見えるところまで進んでみようと、二人はバス停に足を運ぶ。そうして待つ事数分。やって来たバスに二人が乗り込んだ丁度その時、バスの窓越しに予想外のものが通り抜けて行った。
 ブゥン、と音を鳴らし走り去る軽トラック。カバーをかけられている荷台から、なんと二人が探している赤い糸が伸びていた。一瞬の出来事、走り去る目的の赤い糸を呆然と眺めている間に、二人が乗り込んだバスのドアが閉まった。そしてバスがゆっくりと走り出してから、先に我に返ったのは赤葦だった。

「……さっきの見た?」
「うん」

 走り去ってしまったトラックの姿はもう見えない。バスの進行方向と反対側に走って行ってしまったトラックを追いたいところではあるが、今からバスを降りられるはずもない。せめて降りるとしても次の停留所だ。
 しかし、二人の間を過る様々な疑問、ツッコミ所とも言えるべきことが様々浮かび、脳の処理が追いつかない。まず、何故先程の赤い糸はトラックの荷台から伸びていたのか。カバーがかけられていて、荷台に何が乗っているのか分からない状態ではあったものの、走行中のトラックの荷台に人間が乗ることなど基本的に無い。それなのに、人と人を結ぶ赤い糸があそこから伸びているのは何故か。一体あの荷台に、誰が……何が乗っているのだろう。深まるばかりの疑問に、赤葦も桃子もいい加減に疲れてきた。

「どうする? 次バスが止まったら降りる?」
「そうだね……」

 二人の当初の目的は、赤い糸の切れ端の元を探す事である。しかし、妙な疲労感に襲われ、やる気というものが少しだけ失われる。人間、あまりにも意味不明なものを目の前にすると、好奇心よりも面倒臭さが勝ってしまうものだ。あんなものの謎が解明できるのだろうか、むしろ解明する必要があるのだろうか。別にいいのではないか。そう思うのは、赤葦も同じであるらしい。しかし、わざわざ二人で休日に約束を取り付けてここまで来た、という事実が、二人の足を踏みとどまらせるのだ。
 そうしてとりあえず、二人は次の停留所でバスを降りた。赤い糸を乗せたトラックがどこへ行ったのか分からないが、バスの進行方向とは反対に糸が伸びているのが確認できる。
 さて、これからどうするか。そう赤葦と相談しようと桃子が口を開きかけたタイミングで、赤葦が「あ」と声を漏らした。

「あれ、赤葦じゃん!」

 オーイ! と聞き覚えのある声に顔を上げると、数メートル先の建物から出てきたであろう、木兎を見つけた。以前の一件以来、木兎とは校内で会うと軽く会釈しあう程度の顔見知りになった。そんな彼と、こんなところで出くわすとはなんという偶然だろう。そんな事を呑気に考えていた桃子ではあるが、しかし。木兎の後ろに続くように現れた背の高い男達にギョッとする。「よーし、次は木葉の奢りな」「は?」などと話しながら現れた男達は、赤葦と桃子を見つけて立ち止まる。「最悪だ」と赤葦がボソリと呟くのが聞こえた。

「赤葦? ……何でここに」
「……なぁ、もしかして隣の子、彼女じゃねぇの?」
「デートか」
「あぁ、だから今日用事あるって言ってたのか」
「つーか、赤葦彼女いたんだ……俺知らなかったんだけど……」

 どうやら、彼らは全員赤葦の知り合いらしい。木兎がいることから、恐らく部活の先輩達だ。高校生の男女が、私服で二人だけで一緒にいれば、デートをしていると思われても仕方が無い。
 理由は話せないが、そうではないのだ。赤葦のためにも訂正しようとした桃子ではあったが、それよりも先に木兎が口を開いた。

「あぁ、奈島さんは彼女じゃないんだって!」

 「この前俺も気になって赤葦に聞いたんだけど、違うんだってさ!」などと明るく言い放った木兎の言葉を聞き、赤葦はグッと眉間に皺を寄せた。事実であるのに、木兎が「赤葦からそう聞いた」と言うだけで、赤葦が木兎を誤摩化しているように聞こえるのは何故だろう。そう思うのは桃子以外の人間も同じようで、ニヤニヤとした笑みを浮かべつつ「そっか〜、付き合ってないのか〜」と赤葦を見ている。そんな視線を集める赤葦は、ついに片手で顔を覆った。誤解だと言いたいが、説明するのも面倒くさいのだろう。赤葦からかなりの疲労感が窺える。
 ここは私が説明して、誤解を解くべきではないのだろうか。顔見知りではない、背の高い男の人達に話かけるというのはなかなかに緊張するが、桃子が「彼女ではない」と言えば、彼らはあっさりと納得すると思うのだ。

「あの、違うんです。私は本当に彼女じゃなくて……」

 ただのクラスメイトなんです、と続けようとした桃子ではあったが、視界の端で通り抜けていったトラックに気づき、言葉を止めた。見覚えのある、荷台にカバーをかけられている軽トラック。その荷台からは赤い糸が伸びており、赤葦と桃子が追っている車と同じものだと瞬時に察した。どうやら、引き返して来たらしい。道でも間違えたのだろうか、などとぼんやりと考えた桃子ではあったが、今はそれどころではない。
 引き返して来たトラックに気付いたのは赤葦も同じで、そしてタイミングが良いと言うべきか、停留所に次のバスがやって来た。行き先は、先程の軽トラックの進行方向と同じである。このバスに乗れば、軽トラックの後を追えるのではないかと、考えるのは自然な事だった。

「すみません、ちょっと俺達急ぐんで!」

 先輩達に詫びを入れ、赤葦は咄嗟に桃子の手首を掴み、軽く走り出した。引かれるままに足を動かし、桃子も木兎達に頭を下げたが、すぐにまずい事に気がついた。赤葦は、言外に「行くぞ」と言いたかったがために桃子の手を引いてくれたのだろうが、今交際を疑われている手前でこんな事をしていいのだろうか。余計に誤解をされてしまったような気がするが、全ては手遅れである。
 木兎達は窓の向こう側、ニヤニヤしながら二人を見送るように手を振っている。そしてここで、赤葦も自身の咄嗟の行動が悪手である事に気付いた。

「ごめん、余計勘違いされたかもしれない」
「……ううん。私も何かごめん、赤葦君」
「いや、俺が巻き込んだようなものだし……今度会ったときに誤解は解いておくから」

 はぁ、とため息をつき、赤葦はゆるりと桃子の手首から手を離した。そういえば、同級生の男子にこうやって手を掴まれたのは初めてかもしれない。今更そんな事を実感し、何故だか少しだけ恥ずかしい。
 そうして、暫くバスの進行方向と同じところへ伸びる赤い糸を追い、揺られること十五分程。今度は住宅街の方に伸びた赤い糸を追うように、赤葦と桃子はバスを降りた。まだ待ち合わせをしてからそんなに経っていないはずなのに、二人して妙な疲労感に襲われている。そんな二人の事を知ってか知らずか、赤い糸の切れ端は、誘うように住宅街の細道を漂っている。

「こんなに誘導してくる赤い糸を見るのは初めてだな……」
「そうだね、何か意味があるのかな……?」
「意味がありそうで無いのが、これだからなぁ」

 ずっと赤い糸とは何かを考えていた経験のある赤葦は、頭が痛そうだった。これ以上赤葦の頭を酷使し、神経をすり減らす事になるのは可哀想に思い、桃子は全く別の話題を振った。急に話題が変わったものだから赤葦は最初首を傾げたが、なんとなく桃子の話題の切り替えの理由を察したのか、律儀に桃子の質問に答えてくれた。しかし、世間話をしながら歩いている間に、再び赤葦の表情が強張っていく。今日何度目かと赤葦の微妙な顔に、赤葦がこんなに表情豊かな人だとは思わなかったと、桃子は見当違いの事を考えた。

「どうかした? 赤葦君」
「いや……」

 赤葦の顔色が悪い。これで何か無い方がおかしいだろう。そんな事を考えながら、桃子は丁度目の前にある突き当たりを曲がった。そして目の前に現れた見覚えのある軽トラックを見つけて、目を見開いた。
 軽トラックの荷台にかけられていたカバーは外され、そこにあったのは様々な花の植木鉢だった。どうやらこの軽トラックは花屋のものらしく、鉢植えを配達中であったらしい。そして赤葦と桃子は、荷台に乗せられている鉢植えの一つから、例の赤い糸が伸びている事に気がついた。
 植物から赤い糸が伸びているのを見たのは初めてである。赤い糸とは人と人を結んでいるものではないのかと呆然としている二人をよそに、トラックの運転手はその鉢植えを持ち上げた。そしてトラックが停車している傍の家から一人の女性が現れ、運転手はその鉢植えを女性に手渡した。
 嬉しそうに鉢植えを受け取り、運転手にお礼を述べた女性は、ふと顔をあげる。

「あら、おかえり亰ちゃん。早かったのね」

 花屋の軽トラックの運転手から、腕に抱える程度の鉢植えを受け取った中年女性は、赤葦を視界に入れるなりそう言った。呆然としている赤葦の隣で、桃子は女性が立っている玄関の壁の傍に『赤葦』という表札がある事に気付いた。赤葦という苗字は、この辺りでは珍しい。そして先程から固まっている赤葦の様子から、この女性が誰なのか自ずと分かった。
 そして、この女性……いや、赤葦の母親は、自身の息子の隣に同年代の女が立っている光景を目にして、口元に軽く手を当て「あら……!」と口元を緩ませた。
 休日。息子が私服の女子と一緒に出かけたとなれば、思い至る事はひとつだろう。赤葦に降り掛かる災難は、まだ続くらしい。

 そうして、鉢植えから伸びていた赤い糸は、二人に見つけられて嬉しいとばかりに揺れてから、溶けるように消えてしまった。