03話 意図

 昼休み。
 お弁当を家に忘れて来てしまった桃子は、購買でパンを購入していた。
 その帰り、奇妙な赤い糸をひっかけた人を見かけ、思わず桃子は二度見してしまった。
 赤い糸というものは左手の小指から伸びている人が多い。しかし、桃子が見かけた男子生徒はあろう事か、首から伸びていた。首から伸びているというよりは首にひっかかっているような感じではあるが、何が凄いのかというと、首にひっかかり背中に伸びている赤い糸は二手に別れ、まるで綾取りの東京タワーを形作っているのだ。東京タワーの足下に伸びている赤い糸の先は何故か透けており、その先が一体誰と結ばれているのかも分からない。赤い糸が見えるようになってまだ日の浅い桃子ではあるが、こんな奇妙な糸の形を見たのははじめてだった。

 彼は何やら自動販売機の前に立ち、何の飲み物にしようかと思案しているようだった。銀色に染め上げた髪を上げている彼は随分と背が高く、桃子はちらりと赤葦の事を思い出した。やっと飲み物をどれにするか決めた彼は、意気揚々と財布を取り出した。
 しかし、財布の中身を漁って数秒後、東京タワーを背負う彼は「あっ」と言葉を漏らした。どこか切なさの含まれた声色に、桃子はなんとなく察しがついた。もしかして、お金が足りなかったのではないか。そんな桃子の予想は当たり、背の高い彼はくるりと振り返り、自動販売機を後にしようとした。そのしょんぼりとした様子に情が湧き、桃子は初対面にも関わらず、声をかけてしまった。

「あの、すみません」
「?」

 しょんぼり、とした様子の彼は桃子に声をかけられた事で首を傾げた。相手は見ず知らずの女生徒なので、この反応は仕方がない。

「もしかして、お金が足りなかったんじゃないですか?」
「えっ……うん……」
「良かったら貸しますよ」

 そう言って桃子が百円玉を差し出すと、先程まで落ち込んでいた彼は目の色を変えた。「いいの!?」と嬉しそうにしている姿を見ると、余程ジュースが飲みたかったらしい。後でお金返しに行くからクラスと名前を教えて欲しい、と勢い良く口にする彼に気圧されながら、桃子はお金を渡した。

「待ってください、木兎さん」

 桃子が彼……木兎と呼ばれた人に百円玉を渡したタイミングで、突然赤葦が現れた。振り向いて見れば、赤葦は購買のパンを片手にそこに立っていた。昼ご飯の調達帰りに丁度ここを通りかかったらしい。そしてどうやら、ジュースを買いたい彼と赤葦は知り合いらしい。

「お金なら俺が貸しますよ。そっちの方が返しやすいでしょう」
「マジでか! サンキュー赤葦!」

 先程の勢いのままにお礼を述べ、木兎と呼ばれた人は赤葦からお金を借り、颯爽と自動販売機にお金を投入する。その様子を眺めながら、桃子は目の前に広がった赤い糸の東京タワーに視線を向け、隣に立っている赤葦にこそりと話しかける。

「ところで赤葦君……」
「言いたい事は分かるよ」

 赤葦はハァとため息をつき、スポーツドリンクか炭酸のジュースにするか悩みはじめた木兎の背中に視線を向ける。これは果たして赤い糸と言ってもいいものなのか分からない代物を背中にしょった彼は、結局サイダーを購入する事にしたらしい。サイダーのボタンを押し、ガコンという音の後にピコピコとした音が響く。そしてもう一度ガコン、と飲み物が落ちる音が鳴った。

「あっ、ジュース当たった!」

 自動販売機から二本のサイダーを取り出し、木兎は嬉しそうに振り返った。ここの自動販売機は購入するとランダムでスロットが回り、当たりが出るともう1本ジュースが貰えるくじの機能がついている。なかなか当たりがでることはないので、こうしてジュースがもう1本自動販売機から出て来るのを見るのは初めてだ。
 木兎はもう1本出てきたサイダーを手に取り、数秒思案してから、桃子の方に顔を向ける。

「君、名前は?」
「奈島です」
「そう、奈島さん。これあげるよ!」

 さっきの気持ちのお礼! と言って木兎は桃子にサイダーを手渡した。同時に先程渡したままになっていた百円玉も返してくれた。

「赤葦は今度ジュース奢るから、今日は我慢してくれ」
「いいですよ、お金返してくれるだけで大丈夫ですから」

 木兎さんという人は、恐らく赤葦の部活の先輩だ。先輩相手にたしなめるような事を言う赤葦を横目に、二人揃って自身の教室へ戻って行く木兎を見送った。桃子もここで購買に急ぎたいところではあるが、木兎さんの赤い糸の事について、赤葦と話したくてたまらない。

「凄いでしょ、あの人の赤い糸」

 桃子が先程から気にしている事を察している赤葦は、購買のパンを3つほど揺らし、苦笑いを浮かべた。



 木兎と遭遇した後、彼の赤い糸について何やら知っている風な赤葦に話を聞くため、桃子は赤葦と一緒に体育館傍のベンチに腰掛けた。二人共昼ご飯を食べていなかったために、昼食を取りながら話す事になったのだが、これではまるで付き合っている男女が昼ご飯を一緒に食べるそれである。第三者が見たら完璧に勘違いされてしまいそうだ。それを少しだけ気にしている桃子をよそに、赤葦は黙々とパンを口に運んでいる。

「木兎さんて言うんだ、あの人。部活の先輩で、ああ見えてバレー部の主将でエースなんだよ」
「そうなんだ……凄い人なんだね」

 言われてみれば、明るさの中にオーラがあるような人だったように思う。それになりより、あんな奇妙な赤い糸を背負っている人だ。きっと普通の人ではない。

「木兎さん、前は普通の赤い糸が1本小指に結ばれてるだけだったんだ」
「えっ、そうなの?」
「それが最近、あんな形に変わったんだ」

 何があったのかは分からない。しかし、赤い糸というよりもはや綾取りのような状態になってしまっている木兎の『縁』が、特異なものになったのは分かった。そして気になるのは、東京タワーの足の部分、その先が誰に伸びているのか分からないところである。

「木兎さんの赤い糸は二人の誰かに伸びているんだろうって事は分かるんだけど、相手が分からないっていうのは初めてなんだよね」
「私も……糸の先がどこか分からないパターンは初めて見た」
「だろ。そこが俺もひっかかってるんだ」

 もぐもぐと焼きそばパンを食べた後、赤葦は先程の自動販売機で購入した紙パックのジュースをじゅーと飲んだ。分からないことだらけでもはやお手上げ、と言いたげな遠い目をしている。

「どんな意味があるんだろう」

 桃子が何気なく零した言葉に、赤葦は不意に動きを止めた。特に深い考えも無く桃子が口にした事に、赤葦はひっかかりを覚えたらしい。ジュースを飲み終え、紙パックを丁寧に畳みながら、赤葦はそのひっかかりを口にした。

「そもそも、意味ってあるのかな」

 言いながら、赤葦は自身の左手の小指に視線を落とした。赤葦と桃子の小指を結ぶ赤い糸は未だに健在で、二人の周りをふわふわと浮遊している。

「意味も何もないなら、なんでこんなものが見えるのか説明ができないじゃない?」
「……確かにそうだけど、なんというか……腑に落ちないんだ」

 赤葦はきっと、難しい事を考えている。眉間にやや皺を寄せながら、赤葦は二人の間を漂う赤い糸に触れようとした。しかし、赤い糸は赤葦の手をすり抜け、その場に停滞し続ける。その様はまるで、お前達に自分は掴めないのだと言われたような気がした。

「赤い糸を切ったり、結んだり……俺達ができる事って、普通できる事じゃない。他人の考えや行動に介入できるんだ……介入できると言っても、多分そんな大それた事じゃないけど」

 そう言いながら、赤葦は畳んだ紙パックを捨てようとベンチから立ち上がった。体育館のすぐ傍とおいう事もあって、二人の座っている場所のすぐ近くにゴミカゴが置かれている。

「例えば、あそこに二つのゴミ箱がある。この紙パックをどちらに捨てるか、その結果を変えるくらいの影響力くらいしかなさそうだけど」

 どっちに捨てると思う? などと赤葦が言うものだから、桃子は少し考えてから「右」と答えた。右を選んだのは特に深い意味はない。ただ、そちらの方が口にしやすかった、それだけだ。それを聞いた赤葦は、空になった紙パックをゴミカゴに放った。薄く平らな長方形はくるくると回転し、桃子の言った右側のゴミカゴに収まった。

「でも、そんな些細な力に、なんの意味があるんだろう」

 恐らく、他の大きな外的要因にかき消されてしまうほどの力。影響力と呼ぶには微細すぎる要因。そこに意味を求めるのは何か違う気がするのだと、赤葦は言う。赤葦は、桃子の思いつかないような事をいくつも考え、悩んでいるようだった。

「意味があった、なんて所詮結果論なんだ」

 この糸が、例えば運命の赤い糸だとして、それがそうだと過程の段階では気付けないんだ。
 そんな赤葦の言葉に、桃子は何か良い返しを思いつくことができなかった。確かに赤葦の言う事は正しい。それ故に言い返す事ができなかったのだが、口だけは何かを言いたくて半開きになる。何故なのかは分からないが、赤葦に「そうじゃない」と言いたくなった。しかし、悩んだところで特に良い言葉も思いつかず、桃子は話を逸らす事しかできなかった。

「赤葦君、何かあった?」

 赤葦の表情が先程から固い。今までそんなに話した事の無い人ではあるが、こんなに考えて思い詰めるような人ではない気がした。そんな桃子の言葉に赤葦は少しだけ動きを止め、細く長い息を吐き出して再びベンチに腰掛けた。
 未だに難しそうな顔をしているが、先程よりは深刻そうでない様子に、桃子はひっそりと安堵する。

「……実は俺、赤い糸が切れるって事に気付いたすぐ後に、木兎さんに伸びてた赤い糸を切った事があるんだ」
「えっ……そうなの? 何で……」
「木兎さん、赤い糸が結ばれている人と喧嘩したみたいだったんだ。そのせいで何日も調子崩してて、見ていられなくなってさ」

 その後、木兎と女子生徒を結ぶ赤い糸は消滅してしまったらしい。それから木兎と女子生徒がどうなったのかは分からない。しかし、縁が切れたおかげなのか、木兎は調子を取り戻したらしい。同じバレー部に所属する人間としては喜ぶべきところなのだが、後日木兎と赤い糸で結ばれている人を見かけて呆然としたのだという。

「相手の人、気まずそうに木兎さんを避けてた」
「……」
「先輩に聞いた話なんだけど、前は普通に仲が良かったらしい。それなのに最近はあんまり喋っているところ見かけないし、どうしたんだろうって」
「……」
「俺のせいかもしれないんだ」

 桃子は、赤葦がここまで深く考え込んでいる理由をここでようやく理解した。自分の行なった事が影響し、二人の人間の関わりを大きく変えてしまったのではないかと不安なのだ。それ故にこの赤い糸が何なのかずっと考え続け、最終的に答えが出ない事が分かって立ち尽くしている。
 答えが出た時はすでに遅い。何の手だてもなく、結果を飲み込むしかない。

 なんと言って赤葦を元気づけたらいいんだろう。桃子がそう考えながら視線を上げた時、目の前に漂う赤い糸が二本ある事に気がついた。一本は赤葦と桃子を繋ぐ糸、更にもう一本浮かぶこの糸はなんだろう。何度か瞬きを繰り返し、桃子はその糸に触れた。そしてそれに気付いた赤葦も、目の前に浮かんでいる誰かの赤い糸に目を見開いた。

「びっくりした、いつの間に……」
「本当、誰の糸なのかな……」

 目の前に突如現れた赤い糸に気をとられ、二人揃ってベンチから立ち上がる。赤い糸は体育館をぐるりと一周し、自動販売機のある方へと伸びていた。そして二人は、自動販売機の前に二人の生徒が何やら話し込んでいる姿を見つけた。
 一人は話題の人物の木兎さん、そしてもう一人は先輩らしき女子生徒だった。その女子生徒を視界に入れた瞬間、赤葦は「あ」と言葉を漏らした。

「あの人……」
「?」
「木兎さんと赤い糸が繋がってた人だ」
「えっ」

 赤葦と桃子は体育館の壁に身を隠しながら、木兎と女子生徒の様子を窺う。何やら女子生徒は木兎に謝っているらしく「ごめん」という謝罪の言葉だけは耳で拾う事ができた。そしてその謝罪に対し、木兎はカラッとした笑顔を返していた。二人の周りには赤い一本の糸が漂い、木兎の背中からは東京タワーの姿は無くなっていた。そんな二人を結ぶ糸が、わざわざ赤葦と桃子のいる体育館の裏の方にまで伸びてきていたのは、果たして偶然なのか、それとも。

「これで、木兎さんの調子も、二人の関係も元通りになったね」
「…………」

 あまりの都合の良い展開に、赤葦は言葉を無くしているようだった。しかし、先程まで思いつけていた表情が和らぎ、呆れたような表情を浮かべている赤葦は、どこか嬉しそうだった。

「ね、やっぱり。赤葦君がやった事には意味があったんだよ」

 もしかしたら、赤葦君が赤い糸を切った事で一時的に二人の距離は開いたものの、それが上手く作用して元通りになったのかもしれない。桃子がそう言うと、赤葦は酷く脱力した様子で呟いた。

「……結果論でしょ」

 そう言った赤葦は、どこか安堵したように笑った。