02話 糸車
奇妙な夢を見た。キイカラカラ、キイクルクル。
特徴的な音をたてながら、糸車を回す狸の隣で、糸の紡ぎ方を教えて貰う夢だった。
家庭科調理実習の翌日、桃子はどうにか赤葦京治と接触できないかと様子を伺っていた。
赤い糸が見えるのか。
先程、糸を切ったように見えたが、あれはどういうことなのか。
聞きたい事は山のようにあるが、桃子は何より自分と同じ状況の人間がいるということがなにより嬉しかった。
悩みというわけではないが、赤い糸のようなものが見えているというなんて事、とても友達には相談できない。
そしてやはりというべきか、そう思うのは赤葦亰治も同じだったらしい。
「奈島さん、お弁当の後時間ある?」
丁度これから昼ご飯というタイミングで、赤葦がわざわざ桃子の席の前までやってきた。
こうして話すことすら数回目であるため、お互いに何だか違和感を覚える。
大して仲が良いわけではないのに、とてつもない秘密をお互いに共有しているというこの状況。
一足飛びに関係だけが縮まったような、妙な感覚に陥りながらも、桃子はこくりと頷いた。
そうして、昼ご飯を早々に食べ終えた二人は、人通りの少ない教室裏の階段辺りで落ち合った。
特に色っぽい関係であるというわけでは無いのに、赤葦と桃子という普段見ない組み合わせが揃うと、周りからの伺うような視線からは逃れられない。
さっき通りかかったクラスの男子も、きっと内心で「あの二人付き合ってるのか?」などと勘ぐっている。
そんな事を気にもしていない様子の赤葦は、手すりにもたれ掛かりつつ、早速本題を切り出した。
「この糸、見えてるんだよね」
この糸、と赤葦が指差したのは、二人の間にふわりと浮き上がる赤い糸である。
先程の家庭科の調理実習中、赤葦と桃子の間に生まれたばかりのものだ。
その糸はお互いの左手の小指に結ばれており、いざその状況を直視すると気恥ずかしいものがある。
「うん…赤葦君も見えてるの知ってびっくりした」
「俺もだよ」
「いつから、この糸が見えるようになったの?」
「つい最近、確か部活中だったと思う」
赤葦は少しだけ目を細めて、遠くを見つめるように腕を組んだ。
「本当になんの前触れも無かったんだ。部活中に突然、赤い糸がたくさん見えるようになった。最初は目がおかしくなったのかと思って病院に行ったんだけど、異常はない…きっと疲れているんだろう…って言われてさ」
「あぁ……」
「それで、この糸は何なんだろう…ってずっと考えるようになったんだけど…」
言いながら、赤葦は自身の右手をゆらりと上げた。
そうして人差し指と中指以外を握り込み、ジャンケンで言うチョキを作ってみせる。
「赤い糸って、運命の相手と繋がっているって言うだろ?」
「うん」
「でも、これはそうでも無いみたいなんだ」
そして赤葦は何の躊躇いもなく、自身と桃子の間に浮かんだ赤い糸を、手で作った鋏で断ち切った。
唐突な事に驚いた桃子を他所に、赤葦は酷く落ち着いた様子である。
断ち切られた二本の糸は二人の周りを漂い、その様はまるで相手を探しているかのようだった。
「俺、いろいろ試してみたんだ。それで、この糸を切る事ができるっていうのが分かった」
しかし、赤い糸を切るにしてもいろいろなパターンがあるのだと言う。
こうして赤い糸を切ってみても、再度繋がりあって元通りになるものもあれば、近くを通りかかった見ず知らずの人と繋がるもの、赤い糸自体が消滅してしまうもの、逆に倍以上増えて伸びていくもの、と反応は多種多様だったらしい。
「こんなでたらめな赤い糸が運命だって言うのは、なんだか違う気がするんだ」
二人の切られたばかりの糸は、消滅することも相手を見つけて結びつく事なく、この場で浮遊しているだけである。
今回はこうなったか、と一人納得した赤葦は、自身の小指から伸びる糸を掴もうとした。
しかし、赤い糸は赤葦の手をすり抜け、その場に停滞し続けたものだから、桃子は思わず目を見開いた。
「えっ……なんですり抜けたの?」
「分からない。でも…俺は、この糸を切ることはできるのに、触れないんだ」
目の前で起きる事を受け入れ、口にしていく赤葦は、とても同い年とは思えないくらいに冷静だ。
まるでひたすらに実験を繰り返し、その結果を確かめる研究者のようである。
そもそも、この赤い糸を触ろうとは思うかもしれないが、切るだなんて早々に思いつきもしないだろう。
しかもわざわざ、指で鋏をつくってみせて切断するだなんて、赤葦は本当にいろいろと試してみたに違いない。
この赤い糸は何なのだろうと疑問に思いつつ、特に深く考えもしなかった桃子は、少し恥ずかしくなった。
そして、一通り自身の知る赤い糸について話し終えた赤葦は、今度は桃子に自身の知らない情報を持っているか尋ねる。
しかし、桃子はこれといって赤い糸について調べていなければ、考察する事も既に止めてしまっていた。
それ故に、赤葦に話せる事と言えば、ただの一つの事しかなかった。
「私は、赤い糸に触れるよ」
そう口にして、桃子は宙に浮いた赤葦の赤い糸を摘んでみせた。
この瞬間だけは、親指と人差し指の間に細い何かが存在する感覚を感じ取る事ができる。
赤い糸に触る事がでいkない赤葦はそれだけで充分驚いたようで、瞬きを何度か繰り返し、桃子が糸を掴んでみせたことに感心していた。
「奈島さんは触れるんだ」
「そうみたい」
赤い糸が見えるようになった当時、赤い糸を掴んではみたものの、それをどうするべきかなんて思いつかなかった。
それ故に、桃子はただ「触れる」という事実を知っているだけで終わっている。
今こそ何か試すべきだと、桃子はとりあえず、宙に浮いたままの自身の糸の端を掴んだ。
「この糸、結べるかな…?」
「どうだろう……ちょっとやってみてよ」
この赤い糸の正体をつきとめたい、という意思よりも、好奇心の方が強かった。
桃子は手に持った二本の糸を交差させ、一度結んでから再度リボン結びをしてみせた。
スルスルと滑りの良い糸は結びにくかったものの、なんとか形にはなったので桃子はフンと鼻を鳴らす。
「結べた…!」
「……確かに結べてはいるけど…これでどうなるかは分からないな」
うーん、と唸った赤葦は、赤い糸の結び目に視線を落とす。
既に緩みはじめているその赤い糸が、運命の人同士を繋ぐものだと思っていないからか、自分たちの糸が切れようが結ばれようが、あまり気にならない様子である。
「この糸に何かすると、何かしらの影響が出るはずなんだ」
「…そうなの?」
「俺が今まで試した結果の話だけどね…。例えば俺が糸を切ると、糸で繋がっていた人は一時的に、精神的な距離が開くんだ」
「あぁ……そういえば、調理実習の時もそうだったね」
調理実習の時、赤い糸で結ばれた1人の男子と3人の女子のいざこざが収まったのは、赤葦の力によるものだった。
赤葦が赤い糸を切る事で、1人の男は女子3人への対応が面倒になり、女子3人はそんな男に幻滅した。
そのせいで4人をまとめていた赤い糸は無くなってしまったが、なんの後腐れもないというのが皮肉である。
一時的にではあるが、縁を切ることができる。
それが赤葦にできる赤い糸への干渉であり、その副作用なのだ。
「あれ、じゃあ今私は赤葦君と精神的に距離感があるってこと?」
「多分。でも、全然そんな感じしないね」
そもそも俺達、今日の今日までまともに話したこともなかったし、離れる程の距離がなかったのかもしれない。
そんな仮説をたてながら、赤葦は宙に浮かんで揺れる赤い糸に視線を向ける。
「奈島さんも同じような事が出来るんじゃないかと思ってたんだけどな……」
「当てが外れた」といった様子の赤葦がやや目を細めたタイミングで、桃子が結んだ赤い色はスルリと解けてしまった。
そもそも結ぶ事には向いていないのか、この後何度か結び直してみても、解けてしまうという結果は全て同じである。
桃子の「赤い糸に触る事ができる」という力は、本当にただそれだけらしい。
「何で結べないんだろ…」
「…この糸って、結べるようなものじゃないのかもね」
そもそも、人間同士の縁に干渉できている時点でおかしい話なんだし。
そう言って目を伏せた赤葦は、手すりにもたれ掛かったまま遠くに視線を向けた。
何か思うところがあるのか、少しだけ静かになった赤葦の隣で、桃子はふと、今朝見た夢の事を思い出した。
「……そういえば、赤葦君って切った赤い糸が元通りになるところ見た事あるんだよね?」
「あぁ……うん。あるよ」
「その時、どんな感じだった?」
「そうだな……なんていうか…切り口が捩じれるみたいに、くっついていった感じだった」
でも、急に何で?
桃子が唐突にそんな事を聞いてきたものだから、赤葦は軽く首を傾げる。
そんな赤葦の様子を尻目に、桃子は先程思いついた事を試そうと、再度赤い糸を掴んだ。
二本の糸の切り口同士を少しだけ絡ませてから、桃子は親指と人差し指で糸同士を挟み込み、指の腹で転がすように
すると、切れてしまっていた赤い糸は1本の赤い糸に戻り、二人の小指を結んだまま漂いはじめる。
それを見た赤葦は相当驚いたようで、暫く繋がった糸に視線を奪われた後、恐る恐る口を開いた。
「嘘だろ、どうやって…」
「
「より…?」
「糸をこう、捻ってみる事なんだけど…」
桃子が指を擦ってみせるも、赤葦は驚いて固まったままである。
「ほら、
「えっ…うん」
「縒りを戻す、っていう言葉もあるでしょ?」
「……成る程…いやでも、待って」
全てが、ただの偶然だった。
桃子が今朝見た夢は、小学生の頃の国語の授業で習った『たぬきの糸車』というお話になぞらえたものだった。
綿を紡ぐ際に「縒り」をかけるのだと、夢の中で狸が言った。
捻ることで糸にするのだと、その教えの賜物がまさか、現実に現れるとは思いもしない。
縒りをかけるとは、糸を捻って、より強固にすること。
反対に、縒りを戻すとは、縒っていたものを元に戻すことではあるが、男女の仲を元通りにするという別の意味も含んだ言葉である。
実際にやってみせた桃子にも信じがたかったが、赤葦はもっと信じられないようだった。
「ただの言葉遊びだろ…?」
「でも、赤い糸は元に戻ったよ」
「……」
赤葦はもの言いたげな顔をしているが、糸が元に戻ったという現実を目の前に、文句も言えず固まっていた。
桃子も桃子で、不思議な感覚だった。
何故今朝の夢を思い出したのかも、その中のセリフを覚えていたのかも、その意味をこうして自身が口にできたのかも分からない。
普段ではありえないくらいに頭が冴えている。
これは偶然なのだろうかと、桃子も考えずにはいられなかった。
糸を切ることのできる赤葦と、糸を元に戻すことができる桃子がこうして出会った事も含んで。
「何もかも都合が良すぎる、これじゃまるで……」
運命。
二人の間に過った言葉は、間違いなくこれだった。
同時にお互いに目が合い、ドキリとして気恥ずかしいような、生暖かい空気が流れる。
なんだろう、このふわふわとした感覚は。
目の前がクリアに澄み渡っていくように感じるのは何故だろう。
これが、桃子が糸をくっつけた事による副作用なのだろうか。
浮ついた空気が流れる事数秒、二人を現実に引き戻すかのように、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。
昼休みの後は掃除の時間となっており、生徒が自身の掃除担当場所へ移動する足音や、話し声が耳に入った。
ここにもそのうち、掃除担当の誰かがやって来るだろう。
「この話は、とりあえずここまでにしておこうか」
「うん」
赤葦も桃子も、配分されている掃除場所に向かわねばならない。
二人の担当場所は、教室と教室前廊下とわりと近いところである。
結局向かう場所は同じという事で、二人揃って教室に戻る。
通りかかった隣のクラスの生徒が、チラリとこちらを見た気がするが、気付かない振りをして歩き続ける。
「それにしても、本当に何なんだろうね、この糸……」
「その辺は、やっぱり調べてみないと分からないかな。時間がかかりそうだけど……」
スタスタと歩く赤葦に付いて行けるように小走りになりながら、桃子は何か言いたそうにしている赤葦を見上げる。
今日まで、まるで関わりの無かったクラスメイトだったというのに、随分と気心が知れた仲になったような気がする。
きっと、仲間意識というものなのだろう。
そしてそれは恐らく、赤葦も同じだ。
「俺達だけに赤い糸が見えるっていうのは何か意味がある事なのかもしれないし、意味のない事なのかもしれない。でも、今それを考えたところで、答えは出ないんだ」
全ては、結果次第。
「……まぁ、調べたところで赤い糸がなんなのか、分かるのかも分からないけどね」
「……確かに」
そして二人の、奇妙な秘密の共有は始まった。