01話 因縁

つい最近のことである。
桃子は『赤い糸』というものが見えるようになった。


自身が『赤い糸』というものが見えるようになったと認識したのは、部の友人と待ち合わせをした先日の朝だった。
赤い糸でぐるぐる巻きになった友人を見た時は心底驚き、自分は夢でも見ているのではないかと何度も頬をつねってはみたが、現実の痛みが襲うばかりで、桃子はこの奇妙な現象を認める他無くなった。
しかも、友人にはこの赤い糸が見えないらしく、どうかしたのかと心配される始末である。
ここで桃子は、この赤い糸というものが自分にしか見えていないと知る事にもなった。

赤い糸というものは、いずれ結ばれる運命にある男女の小指に現れる。
その知識を一体何処で身に付けたのかは覚えていない。
気がつけば、そういうものなのだと知っていたし、それについて特に深く考えることなど無かった。
そのため、赤い糸というものは運命の人という存在にのみに繋がっているのだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。


「午後の調理実習楽しみだね」

目の前の席に座ったまま、桃子の方へ振り向いてそう話す彼女は、まるで毛糸玉のようだった。
左手の薬指どころか、両手の指という指から赤い糸が伸び、それが全身に絡まってしまっている。
そしてその絡み合う糸は、彼女から10数本に分岐し、それぞれが学校内の男女と繋がっていた。

赤い糸が見えるようになってから分かったことではあるが、赤い糸は必ずしも男女一人ずつを結ぶものではないらしい。
それどころか、男女を1本で結ぶ赤い糸を見るのは稀で、大体の人が2、3本の糸で他人と繋がり合っているものが多い。
夫婦や恋人同士ともなると1本の赤い糸で繋がっていることが多いのだが、複数の糸と繋がっている人や、赤い糸さえ無い人も存在する。
正直に言ってしまえば、桃子の見ている『赤い糸』がどういう法則性を持って繋がっているのかさっぱり分からない。
ひとつだけ言えるとしたら、やはり何か『縁』のある人達なのだろう。

しかし、今目の前に座る彼女の赤い糸の本数は常規を逸していた。
ふわふわと浮かんでいる半透明の赤い糸を視界に写しながら、桃子はお弁当の蓋を閉じる。
午後からは家庭科の調理実習があるため、その準備をしながら彼女の話に相槌をうつ。
お菓子作りが趣味の彼女は、今日の調理実習をとても楽しみにしていた。
純粋に自分の得意な分野の料理ができるということもあるが、何より実習での班に、彼女の想い人がいるという事が大きい。
何度も家で作ったことのあるホットケーキを作るのだと言ってはりきっている彼女ではあるが、桃子には少し気がかりな事があった。
クラスメイトの何人かもうっすらとは気がついている事でもある。
彼女の想い人へ恋する女の子はクラスにあと2人いて、何の因果か調理実習でまとめて同じ班なのだ。
彼女を含め、どの女子生徒も表立って敵対してみせるような人では無い。
しかし、彼女達の思いの先を知るクラスメイトからすると、とんでもない修羅場だった。
そして桃子の友人を含めた3人の女子生徒と、モテモテなクラスメイトの男子は、しっかりと赤い糸で結ばれている。

もしかしたら、強い想いが赤い糸というものを結びつけるのかもしれない。
そう仮定立てた桃子は、そわそわとエプロンとバンダナを取り出す友人に視線を向ける。
ライバルは何人かあれど、恋にうきうきとしている彼女はなんだか可愛らしく、桃子は素直に口元を緩ませた。
願わくば、彼女の思いが実りますように。

そんな願掛けをしてから、約1時間後。
調理実習の最中、桃子が友人の修羅場というものを忘れかけた頃に事件は起きた。

「ご、ごめん…!」
「…えっ」

ガシャーン!という金物の擦るような大きな音が調理室に響き渡り、室内の全員があるテーブルに視線を向けた。
どうやら焼けたホットケーキを、メンバーの一人がひっくり返してしまったらしい。
自身の力作を駄目にされて落ち込む友人、そんな友人を見て更に落ち込むホットケーキを落としてしまった女子生徒、先程まで想い人と楽しく話していたのに水を差され呆気にとられている女子生徒、そしてそんな彼女達の想いを集める男子生徒。
彼女達の班の惨事に、周りも何と声をかければいいのかと戸惑っている状況である。

そんな中、一番始めに口を開いたのは、男子生徒だった。
「だ…大丈夫だって…」と言ってホットケーキを落とした女子生徒に話かけると、それを聞いた桃子の友人はしゅんと落ち込む。
そんな友人の「彼に食べてもらいたかったのに…」という無言の意思が伝わったのか、男子生徒は慌てて「まだ材料残ってるし、小さいのは作れるよ」とフォローを入れる。
すると、女子二人を庇う男子生徒が面白く無いもう一人の女子生徒が、「皆で食べるには少ないけどね」と言葉を挟み、彼らのテーブル周辺でブリザードが吹きすさぶ。
あまりにも気まずい彼らの状況に、家庭科の先生もどうしたものかと硬直している。

そして桃子はこの時、彼らを繋ぐ赤い糸が伸び、ふわふわと浮き始めたことに気付いた。
まるで「私が真の赤い糸だ」と主張するように蠢き、絡み合いはじめたそれに視線を奪われていると、同じ班の赤葦が不意に左手を少しだけ持ち上げた。
無地のエプロンにありがちなバンダナを巻いた赤葦京治という男は、桃子にとって、ただ背の高い落ち着いた男という印象しか無い、ただのクラスメイトだった。
赤葦はそうして左手の人指し指と中指を伸ばし、その他の指を折り畳む。
じゃんけんで言うところのチョキ、写真撮影の時のピースサイン。
そう形作った手を、赤い糸の密集する空間にさり気なく持っていき、二本の伸ばした指で挟み込んだ。
まるで絡まった糸にハサミを入れるように、断ち切るように、赤葦は赤い糸を音も無く切った。

それに桃子が驚き、息を詰めた瞬間、自身の小指に熱い何かが走った。
思わず視線を落とすと、絆創膏を巻いた小指の周りに赤い糸が現れ、その糸は流れるように伸びていく。
まるで水中を泳ぐ魚のように伸びていく赤い糸は、未だ手でハサミをつくったままの赤葦の左手の小指に辿り着いた。
それに気付いたのは赤葦も同じのようで、驚いて桃子の方に振り返った。
それと同時に、3人の女子生徒の想いを集める男子生徒は、家庭科の先生の方に顔を向ける。

「あー…、先生パス」
「え?」

気まずい空気と女子生徒3人に囲まれ、その思い人であるクラスの男子はお手上げとばかりに輪の中から抜け出した。
そうして先生に全てを投げて、かの男子生徒は友人のいる別のテーブルへ逃亡する。
「いくらなんでもその態度はないんじゃないの?」と囁く女子生徒、「まぁ正直どうすればいいか分かんねぇよな」と囁く男子生徒。
どちらの意見も最もだと思うが、気まずい女子生徒3人が思う事は、どうやら前者のようであった。

途端、彼女達から伸びていた赤い糸は、切り口から消えるように見えなくなっていく。
桃子はなんとなく、それが彼女達の彼への想いが冷めていく様に思えた。
『縁』であったものがなくなる瞬間を目の当たりにしながらも、桃子は自身の指に生まれた『縁』に再び視線を落とす。
小指に結ばれた赤い糸の先にある赤葦も同じように視線を向けて、そして桃子の方へ向き直った。
恐らく、女子生徒3人と男子生徒の『縁』を切るきっかけをつくったであろう赤葦は、珍しく動揺した様子で口を開いた。

「…もしかして…見えてる?」
「うん…」

もしかしたら、初めて赤葦君と口を聞いたかもしれない。
クラスメイトが修羅場の4人に視線を奪われている中で、赤葦と桃子だけが二人だけの世界にいた。