始まりの音

「真田が好き」


放課後、日直であった俺と苗字の二人で教室に残っていた時のことだ。
俺は黙々と日誌を書き、苗字は丁寧に黒板を消していた。
俺は早く部活に行きたいということしか考えておらず、苗字の話を流すように聞いていたため、何かと話しかけてくれる彼女の話の内容はあまり覚えていなかった。
しかしタイミングが悪かったというかなんというか、日誌を書ききり息をついた時だった。
彼女が、先程まで俺に話していたままの音程、雰囲気で衝撃的なことを口にしたのだ。



「真田が好き」


カタン、と思わず握っていたペンを落としてしまい、前を向けば苗字はいつの間にか黒板の清掃を終え、じっとこちらを見ていた。
いままで全く気付かなかった。

暫く思考が停止していて、すぐに言葉が発せずただ彼女を見ていると、冷静な様子でこちらを見ていた苗字の顔がだんだん赤くなり、教卓に寄りかかって俯いた。
ポツリと、なんで聞こえてるの、という彼女の嘆きらしい言葉が聞こえてこちらも顔が熱くなる。


告白は、それなりにされたことはある。
幸村が言うには、スポーツの出来る男はもてるらしい。
だから、そちらの方面に疎い俺にも声をかけてくれる女子がいるのだと仁王も言っていた。

何だか馬鹿にされたようだったが、自分のそういうところはそれなりに自覚しているし、正直言って…その、色恋沙汰のことはよく分からない。
恐らく俺は、今まで誰にも恋愛感情というものを抱いたことがない。そもそも興味があまりないのだ。

今はテニスに集中したい。
それだけが俺の中を占めていたはずだったのだ。


「………真田」

「……む」


何故だろう、苗字に告白されたことに、口元が緩む。

今まで告白された時には無かった現象だ。
気持ちを受けとるのは素直に嬉しい。
しかし、俺にはそれを返すだけの感情も器用さも持ち合わせていないし、正直彼女らと付き合うくらいならその時間をテニスに回したい。
そう考えてしまう時点で彼女達に失礼だと思い、なんとかその事実を伝え謝ることしかできない。中には泣かせてしまった者もいた。
申し訳ないと思う反面、どうにもできない自分が嫌になったこともある。


「今の聞かなかったことにして」

「………」

「って言っても無理か、ごめん。返事はいいよ、分かってるから」

「待て」


理解できていないのに、口が先に動く。
これをどう表現すればいいのかわからない。


ただ、俺は彼女からの告白を素直に嬉しいと感じている。
それに何故か顔も熱いし、動悸もだんだん激しくなってくる。
何かが胸に詰まったような、しかし心地の良いこの感覚。
初めて知るこの感覚の名前を教えて欲しい。



「………」

俺の言葉に従ってか、苗字は黙ったままこちらを向いている。
その目が少し潤んでいることから、また泣かせてしまったのかと少し慌てた。


待て、と言ったはいいが、引き留めて何をするつもりだったのか考えていなかったことに気付いて、更に慌てる。
何がしたいんだ俺は。

ぬう、と思わず呻いてしまい、それを聞きとったらしい苗字は、教卓に肘をついてクスクスと笑った。
何故笑われるのか不思議で苗字を見るが、それでもクスクスと笑ったままだ。
訳も分からず笑われるのは不愉快なはずだ、それなのに、何故だか不快ではない。


「真田のそういうところ、好き」


ふわり、と笑う彼女の笑顔に胸がありえないくらい高鳴った。高鳴りすぎて吐き出してしまうかと思った。

愛いらしい、などと柄にもないことが脳裏を過る。
それと同時に、幸村がいつか言っていたことを思い出した。



『笑ってる顔見ると、好きだな〜って思うんだよ』
滅多にそのようなことを口にしない幸村のこの発言に、度肝を抜かれたのを覚えている。
幸村は表向き穏やかで優しそうではあるが、実際のところ性格に少々問題があると思う。
それが災いしてか、想いを寄せている彼女にかなり辟易していた。その彼女との関係が変わった今でも、それは相変わらずだが。


……笑った顔か、と苗字を凝視すれば、先程まで笑っていた顔が急に固くなり、俯いて再び赤くなるものだから、なんと言えばいいのか…本当に可愛らしい。
笑った顔もいいが、こういう表情も悪くない、と考えている自分にはっとした。
唐突に、あることに思い至ったのだ。



「俺は苗字が好きなのかもしれない」



20120314