水上ロマンス

日吉との付き合いは、幼稚舎6年生の時に同じクラスになった時に遡る。

当時日吉は、一匹狼で人を寄せ付けないその雰囲気からクラスの皆から距離を置かれていた。
私も正直、日吉は性格が悪くて怖いやつだと、なんの根拠も無く信じていた。
そんな私が、友人達とのゲームに負け、”日吉に話しかける”という罰ゲームをさせられたのはいい思い出だ。
よく図書室にいるというのを聞いたので、普段はあまり行かない図書室まで足を運び、怖い本の並ぶコーナーで物色している日吉に話しかけたのが最初である。




「本当、日吉ってあの頃から変わらないよね」

「お前もな」


記憶の中の幼稚舎の頃の幼かった日吉が、少年と青年の間の成長した男の子に変化する。
ペラリ、と本のページをめくる姿は無駄が無くて色っぽい。


「いっつもこんな薄暗いコーナーの本ばっかり読んでさ…」

「お前は恥ずかしい恋愛小説ばかりよく読めるな」

「いいでしょ、別に」


適当に手に取った怪談の本をめくり、もくじを流し読みしてから気になったタイトルのページを開く。
そこには勿論、甘く切ない言葉は無く、おどろおどろしい文章がつらつらと続いているだけである。
本を閉じて元の場所に戻してから、運動場から聞こえる声を耳が拾う。
受験生となった私達3年生はすでに引退しており、今運動場でボールを追いかけたり走り込みをしたりしているのは2年生以下の生徒達だ。


「日吉は大学に行ってもテニス続けるの?」

「当然だろ」

「うん、なんとなく予想はついてたけど」

「…お前は続けないのか?」

「続けたいけど…でもちょっとだけお遊びサークルとかも気になるかな」

「お遊びサークル?」

「ほら、キャンプに行くサークルとか旅行に行くサークルとか」

「費用がかなりかかりそうだな」

「そうなんだよね…」


また適当に本を抜き出してため息をつきながらそう言うと、日吉がフッと微かに笑った。


「金欠になったお前が目に浮かぶな」



日吉は幼稚舎で会った時から、性格的に随分と丸くなった。
私が罰ゲームで話しかけた時はそれはそれは機嫌が悪そうに、わずらわしそうに話していた。
しかしそれから妙な縁もあり、日吉と席替えで席が近くなったり、同じ委員会になったり、3年連続同じクラスになったりした影響もあり、日吉とはそれなりに話すようになったのだ。
話していくうちに日吉のことを知り、私もまた日吉に自分のことを話した。
お世辞にも良いとは言えなかった仲も落ち着くどころか、今ではお互いの家にお邪魔することがあるくらいに打ち解けた。


今、日吉がこんなにも柔らかく笑っているところを見ることが出来るのも長い付き合いのおかげなのだ。

今までの付き合いの中で、私が日吉のことを好きになるのはすぐだったし、こうやって二人きりになっても、お互いにそれが当たり前だと思えるのはきっと日吉は私だけだし、私も日吉だけだった。
月日が経つ毎にお互いに言葉にしなくても、相手の感情が分かるようになっていき、今ではまるでそれが夫婦のようだと友達にからかわれる事がある。
しかし、実際は未だに友達という枠に収まったままだ。

自惚れかもしれない上に、願望も入り交じっているが、日吉もきっと私の事が好きだ。
それがなんとなく分かっていても言葉に出さないのは、言葉にしないこの関係が心地よいことと、今まで同じ場所にいたことによる。
それが私達の関係をより曖昧にしているやっかいな原因だ。


しかし、それもここまでなのだ。
高校までずっと一緒にいた私達は、大学はお互いに別のところへ進学する。
日吉は既に推薦で希望の大学に進学することが決まっているし、私もついこの間試験を受けて結果待ちの状態である。


この曖昧で心地よい関係は高校までなのだと分かってはいる。
しかし、温かなぬるま湯に浸かっていた私達が、熱湯なのか冷水なのかぬるま湯なのか、そんな曖昧な場所に飛び込むのは勇気が必要なのだ。

たとえぬるま湯の確率が高くとも、もしもそれが違ったらという不安は拭えない。
それがどんなに確率が低かろうとも、臆病な自分がその確率を引き上げる。

しかし、これからも二人でいるためには、それを改めて伝えるしか無いのだ。
曖昧な感情を確かめる術は、はっきりと相手にそれを尋ねるしかない。


「日吉くん」


私が日吉を呼ぼうと口を開きかけた時、日吉越しに凛とした声が響いた。
声のした方に視線を向けると、同じクラスのクラス委員長が資料をかかえてそこに立っているようすがチラリと見えた。
瞬間、嫌な予感がして日吉を見上げたが、日吉も委員長の方を向いていてその表情は確認出来ない。


「日吉くん、今日日直だったよね?これ、先生が明日までに整理しておけって」

「ああ」


資料を受け取り、それに目を落とした日吉に対して、委員長はやや姿勢を正した。
きっと委員長は、日吉の影になっている私の存在に気づいていない。


「あ、の…日吉くん」

「何だ?」


長い付き合いだからこそ分かる、日吉は案外自分へ向けられている好意に鈍い。
もじもじとしている委員長を見ればなんとなく察することが出来そうなものを、日吉は特に警戒もせずに委員長に視線を向ける。


「その資料の整理、大変だよね?」

「…まぁ」

「あの、良かったらなんだけど…」

「?、何…、」



不意に日吉の言葉が止まったが、委員長はそれには気付かずに恥ずかしそうに話す。

日吉の言葉が止まったのは十中八九私のせいだ。
本棚に向かった姿勢をやや傾けた状態で話している日吉に隠れて私が見えないことと同じように、これもまた委員長には見えていないだろう。

日吉の右手に手を伸ばし、緩く握ったまま委員長が次の言葉を紡ぐのを待つ。
狡いな、私は。


そしてゆるりと指を絡めて握り返されると、どうしようもなく逃げたくなってしまうから矛盾している。



「大変そうだし、私も手伝おうか?」

「…いや、一人で大丈夫だ」


「……そっか」


少し声のトーンの落ちた委員長の表情は、ここから上手く見えないが想像はついた。
そのまま委員長の気配が消えたのを察してから、握っていた手を離す。
するりと日吉の手を滑るように離れた手には、離したくないという未練のようなものが感じられて、恥ずかしくなる。
きっと日吉に伝わってしまった。

日吉がこちらを向いたのが気配でわかったが、いたたまれなくてそちらを向けない。
読みもしない本達の背表紙を凝視したまま、日吉が口を開くのを半ば願うように待った。



「……なぁ」

「…何」

「卒業したら、こうやって図書室に来ることも無くなるんだろうな」

「…そうだね」

「……そろそろ、はっきりしないか」


耳元という近い距離に声を感じて思わず顔だけ振り向けば、後ろから両腕を私の体を挟むようにつき、逃げ場を封じられる。
嬉しいのに逃げ出したい、しかし日吉が壊してくれるだろう私達の関係を変えたい。
日吉の腕に閉じ込められたまま、意を決して体を後ろに向け、向かい合う。
日吉とのあまりの近さについ怖じ気づいて本棚に後ずさると、その距離を埋めるように追い詰めてくるからたまらない。


「お前は?」

「…もう、分かってるんでしょ」

「それはずっと前から、お互い様だろ」


本棚についていた手を片方下ろしてから、先程私が握っていた手を指から絡める。
いとおしむように絡めあう手にはいやらしささえ感じられる程、お互いの気持ちは膨らんでいるのに、行動には何一つ移せていない私達の焦れったさが現れているようだった。



「もういいだろ。もどかしくて、辛い」



切な気に目を細める日吉の背中に腕を回してから、日吉に気持ちを伝えるために口を開く。
指を絡め、更に気持ちを絡めれば次はきっと唇が絡めとられる。

ああ、やっとはっきりするのだ、とぼんやりと考えながら言葉を紡げば、水面下で繋がっていた私達はやっと光を浴びる。


水上ロマンス

20121017