甘い声で聞かせておくれ

私と柳蓮二は所謂幼馴染みという関係だ。

小学校5年の頃に私の家の正面に引っ越して来た彼とは小学校も同じでクラスも同じ、仲良くなるのにはそんなに時間はかからなかった。
更に、私にはもうひとりの幼馴染みがいた。彼女は蓮二の隣の家に住んでおり、私と彼女は元々仲が良く、その中に蓮二が入ってきたようなものだった。
私達3人は仲良し、なんて小学生の頃は楽しかった。



中学に上がって、蓮二がテニスに没頭するようになってからは会話をする機会は随分と減ったが、家族ぐるみで仲の良い私達は互いの家でご飯を食べるということもままあった。
廊下ですれ違えばそれなりには話すし、別に全く関わりが無いわけでは無い。



「すまない、少し手伝ってもらえないか?」

「……いいけど」



部活の後、教室に忘れたままになっていたお弁当箱を取ってから下駄箱に向かっている途中、書類を大量にかかえた蓮二に遭遇した。


「両手が塞がっていてドアが開けられないんだ」


困ったように笑う蓮二に頷いてから、一つだけ明かりのついた教室のドアを開ける。
恐らく生徒会の仕事なのだろう、こんなに遅くまで大変だなと思いつつ、ひとつ気になることを見付けた。
それを聞こうと口を開きかけた時、先に蓮二が言葉を発した。


「あいつは、今日は用事があるとかで帰ったぞ」

「そうなんだ…珍しい」


思わず本音がぽろりと溢れてしまって内心慌てた。
チラリと蓮二を伺うと、なんら変わりない様子で机の上に資料を置いてから、古っぽいソファーに腰かけた。


「確かにそうだな」


特に表情を変えず、急に蓮二がソファに横になるものだから私の反応が遅れてしまった。
何故いきなり横になるのか、と真っ当なつっこみを蓮二に投げ掛けたが、それには答えず、長い足を綺麗に組んでから、両手を組んで自分の腹の上に落ち着けた。


「少し仮眠を取りたい。10分経ったら起こしてくれ」


そう言って体の力を抜き、ソファーに沈む蓮二を見て呆れると同時に、少し気が抜けてしまった。
幼馴染みという気軽さゆえに、こういう無防備なところを見せてくれるのだと思うと素直に嬉しい。
体の力を抜いた蓮二がすぐにすうと寝息をたてて眠ってしまったのには驚いたが、顔を覗きこむとうっすら隈が出来ていた。
そんなに疲れていたのか、と驚くと同時に、蓮二の綺麗な顔を思わず凝視してしまう。
男の人とは思えないほど滑らかな肌に、すっと通った鼻筋、長く繊細な睫毛に整った眉、いつもはキリッとしている表情も、眠りにつくとどこかあどけない。


仮眠は10分でいいのだろうか、と蓮二の寝顔を眺めていると、ガラガラと教室のドアが開いた。
驚いて振り向くと、そこには蓮二から帰ったと聞いた幼馴染みが立ってた。走ってきたらしく息が上がっている。

「あ…ナマエちゃん、蓮二君も…ちょうど良かった…」


彼女も蓮二と同じ生徒会の役員だから、この場所に蓮二がいると分かっていたのだろう。
寝ている蓮二を確認してから、幼馴染みは声のボリュームを下げて教室に入ってくる。
肩にかけていたカバンをゆっくりと机に置いてから、そっと蓮二の寝顔を覗きこむ。
そして微笑むようにクスリと笑みを溢すから、思わず視線を逸らしてしまった。


「…今日は用事があったって聞いたけど」

「うん、さっき終わったの。
ちょっと先生に用事があって、もう一回学校に戻ってきただけ。蓮二君やナマエちゃんに会えるかなーと思ってたんだけど、ナイスタイミングだね」


ふふふ、と笑う彼女の表情は小学生の頃から変わらない。
昔から可憐でおしとやかなお嬢様のような子ではあったが、歳を経るごとに更に磨きがかかり、今ではちょっとしたアイドル的存在である。
中学入学と同時に蓮二にくっついてテニス部に入部しマネージャーとなり、そつなく仕事をこなすうえに可愛いと評判だ。
一時期、テニス部ファンの女子生徒に嫌がらせをうけるようなこともあったが、日頃お世話になっているテニス部員がなんとかフォローに回ってくれたおかで、彼女に甚大な被害は出なかった。
彼女に大事がなくて良かったと思ったと同時に、どうしようもなく羨ましくも思った。
彼女は私の持っていないものをたくさん持っている、たくさんの人からの信頼、美しい容姿、穏やかな内面、そして蓮二への素直さ。

彼女が蓮二に恋しているのは随分前から知っていた。彼女の蓮二にたいする態度を見れば周りもなんとなく分かっているし、恐らくそれは蓮二も同じだ。それに本人も満更ではなさそうなのだ。
二人はいつ付き合いはじめるのだろうか、いつ来てもおかしくないその恐怖にいつも追われている。

今更、彼女にも蓮二にも、私も実は蓮二が好きなのだと言えるはずもない。



「ナマエちゃん、私ちょっと職員室に行ってくるね」

「わかった」

はぁ、とため息をついて時計を確認すれば、あと3分で蓮二を起こさなければいけな時間だった。
幼馴染みが教室を出て行っても、相変わらず寝入ってしまって起きる気配のない蓮二に視線を落とす。
昔から何を考えているのか分からない奴だ、えらく頭が切れて、何枚も上手で、感情的では無く、学生らしくもなく落ち着いた奴だった。

その蓮二が何故、彼女の気持ちを把握しているのにそれを行動に移さないのか。それが非常に気になっている。
タイミングでもあるのだろうか。何にしても、早くとどめを刺して欲しい。
まるでじわじわと精神的に追いつめられているような感覚に陥ってしまう上に、もしかしたらなどと言う期待がちらついてしまう。


「…あ」


そうこう考えている間に、蓮二が仮眠をとり始めて10分が経過した。
慌ててソファーから立ち上がり、蓮二の肩に手を置く。


「柳、時間だよ」

「……」

「柳」

「……」

蓮二がこんなに寝込むのは珍しいな、と思いつつ肩をつかんで揺さぶる。
どうやら本当に疲れているようで、もう少し寝かせてあげたい気もするが後仕事がどれくらい残っているのかも分からないので、とりあえず揺り動かす。

「……」

「柳、起きて」

「………」

「…蓮二」

「……久しぶりだな」


やっと目を開けたと思えば、意味の分からないことを口にした。
そしてむくりと起き上がり、前髪をかきあげた。
暫くぼんやりとしていた目は次第にはっきりとしていき、流し目でこちらを見てから、視線を机の上のカバンに向けた。


「…あいつが来ているのか」

「うん、先生に用事があるんだって。今職員室に行ってるよ」

「……そうか」


やや視線を落としてから、蓮二は再び私をじっと見た。
何だろう、顔に何かついているだろうかと無意識に頬に触れると、蓮二はおかしそうに笑った。

「顔に何かついてるかな…と思った確率100%」

「…まぁ、そうだけど」

蓮二のおなじみの発言に思わず笑ってしまった。
こんなことは伝わるのに、私の気持ちは彼には伝わらないのがおかしくてしょうがない。
今までずっと知られないように隠し通してきておいて、この発言は矛盾しているというのは分かっている。しかし、心のどこかでいっそ伝わってしまえばいいのにと思っている自分がいるのも確かだった。

「…想定外だな」


不意に蓮二がぽつりとそう呟いた。
一体なんのことだ、と首を傾げると蓮二は真面目な顔でこちらを見た。
いつもと何か違う、と脳裏を過ったと同時に両手を蓮二につかまれた。
とっさに反応出来ずに驚いたが、なんとか笑みを作って「何?」と言えば、そのまま両手を引かれた。
蓮二の力の強さにふんばれず、そのまま蓮二に倒れ込んでしまってから血の気が引いた。

今はどんな状況なのか理解したと同時に、もう一人の幼馴染みの顔が頭をかすめたからだ。


「柳、何を…」

「蓮二でいい」

「そうことじゃなくて、」

「嫌か、ナマエ」


背中に腕が回され、顎を掴まれグイと上を向かされる。
いつもは閉じている目が開かれにみつめられると、何も言えなくなってしまう。
こんなにも蓮二と接近、いや密着したことがあっただろうか。それを意識してしまったら急に体温が上昇して泣きそうになってしまった。


「…今、お前が何を考えているのか手に取るように分かるぞ」

「えっ…」

「嫌じゃないんだろう?」

「………」

「無言は肯定ととるぞ」

「違う」

「嘘だな」


フッと鼻で笑うと、顎を持ち上げていた手の親指が私の唇をそっとなぞった。
この先の展開を一瞬想像してしまい、思わず蓮二から視線をそらしてしまった。
駄目だいけない、あの幼馴染みはどうなるのだ、と自分に言い聞かせても隠しようが無かった。
だってしょうがないじゃないか、私は彼のことが好きなのだ。


「ずっと考えていた。お前が考えていることは予測が困難で、どうしてやろうかと思っていたのだがな。考えるより行動した方が効果的であることが分かったと同時に、今証明された」

「………」

「目を閉じろ、ナマエ」


これから何が起こるのか分からないはずが無い。
どうしようどうしようどうしよう、と罪悪感が脳内を駆け巡ると同時に、本当に期待をしていいのか不安になる。
距離が近づくほどに思考は正常に作動しなくなり、最終的に私に残ったのは自分の本音だけだった。
目を閉じると、唇に熱く柔らかい感触が触れた。
一瞬だったかもしれないが、私にとってはとても長く感じる瞬間だった。

それが離れたと思えば、再び口を塞がれる。
顎を持ち上げていた手はいつの間にか私の後頭部にまわり、より深いキスを落とされる。

思考が飛んだ。
蓮二を押し返していた腕は無意識のうちに彼の首に回り、もっととそれを求める。
何度も繰り返されるそれに、お互いの息から吐き出される甘い吐息に酔ってしまいそうだと、再び口づけると廊下の方から足音が聞こえてきた。
そこではっと我に返り、とっさに蓮二を強く押したが、それ以上の力で蓮二が私を強く抱きしめるものだから距離は一切変わらない。


「柳、」

「お前を縛っているのはあいつなんだろう?…ここにいるのは想定外だったが、むしろ好都合だ」

「離して」

「もう遅いさ」

「蓮二」

「幼馴染みなんていう関係はいっそ壊してしまえばいい」


足音がどんどん近づいて来る。早く蓮二から離れなければ彼女に見られてしまう。
彼女は蓮二のことが好きなのだ、その蓮二と私のこんなところを見られでもしたら本当に幼馴染みという関係にひびが入るどころか、本当に崩壊してしまう。

蓮二君のことが好きなの、と私を信頼して話してくれた、当時小学生だった彼女が過って涙が出た。


再び蓮二に深く唇を塞がれると同時に、教室のドアががらりと開く音が耳に入った。
そちらを見なくても、それは私たちの幼馴染み以外の誰でも無い事は私も蓮二も分かっている。
うっすらと目を開くと、蓮二は流し目がちにドアの方を見てから、こちらに視線を戻し再び目を閉じた。


ドアが開いた音が響いた後、しんと静まり返った教室に吐息だけが響く。
その後数秒してから、ドアに立っていた人物が走り去る音が耳に入り、ついに関係の崩壊を知らせる。
私は彼女を裏切ってしまったのだと、罪悪感に押しつぶされているというのに、蓮二とのキスは止められない。

ああ、もうどうでもいい。逃げるように思考を放棄してから、蓮二に寄りかかった。


「これで障害は何も無くなった」


ふ、と笑う蓮二だが、どこか泣きそうな表情をしていた。
もしかしたら彼も、私と同じように苦悩していたのかもしれない。


「すまない、お前が好きなんだ」