策士の足を掬う

何回も訪れたことのあるこの家の構造はだいたい把握しているので、お風呂場から柳の部屋までは難なく移動することができた。
というのも、狙ったかのようにこの家に柳のお姉さんやご両親がいないからできたことなのだが。

流石にこんな格好で柳の両親の前に立つ精神は持ち合わせていないし。
バスタオルを羽織り、柳の部屋をノックしてから、顔だけを覗かせた。



「…柳」

「……やはりな」

フッと笑ってから、柳は目を通していたらしい本を閉じ、こちらに顔を向けた。
意地悪そうな笑みを浮かべながら、ベッドに腰かけたままの状態で膝に肘を置き、頬杖をついた。
小首を傾げるあたり白々しいが、それが絵になるから憎たらしい。


「お前がそれを着る確率は85%だった」

「…そりゃあ、乾燥機に入れてた制服が無いからこうするしかないじゃない」


柳は用意周到にも、乾かしていた制服を乾燥機から取り出してどこかへ持っていってしまっていた。
幸い、下着だけは別のカゴにバスタオルと一緒に入れておいたから良かったものの、彼女の制服を持ち出すとはどういう了見だ。



「抜かりは無かっただろう?」


悔しいが、全くもってその通りだ。
制服の無い私が身に纏うものなんて、柳の用意したYシャツとバスタオルくらいしか無かった。
バスタオルを巻くなんて持っての他で、妥協するとやはりYシャツを着るという選択肢しか私には残されていない。

柳を脱衣場まで呼び出して、代わりの服を出してもらうという手もあったが、柳を呼びだした時の格好も憚られた。
更に、ここまで用意周到に仕組んだ柳のことだから、脱衣場に呼んだとしても上手く丸め込まれてしまう気がしたのだ。というか、丸め込まれるだろう。


選択肢が存在しないのなら、いっそ立ち向かってやろう、と半ば自棄になって柳の部屋にまでやって来た、というのが現状だ。

楽しそうに笑っている柳に、なんとか一矢報いたいところだが、その手段は未だに考えついていない。

それ以前に、柳に一矢報いるという行為自体が無理な確率99%…なんて。


「入って来たらどうだ」

「無理、というか他の着替えを貸して」

「お前が部屋に入って来たら貸してやろう」

「…柳のスケベ」

「スケベで結構。…だが、お前も人のことを言えた義理ではないぞ」


柳はゆっくりとベッドから立ち上がり、デスクの前にある椅子にかけてあったカーディガンを手に取った。

同時に、誰もいなかったはずの一階から物音が聞こえた。
それは玄関あたりから響いたもので、靴を脱ぐ音から廊下に上がる音まで聞き取ることが出来た。
柳の家族の誰かが帰ってきたと、簡単に予想できた。


足音は一旦リビングあたりに止まっていたが、暫くしてから動き出し、なんと階段を上がってきた。
どうしよう!とパニックになったというのも、階段を上がりきってしまえば私が今立っている場所が丸見えなのだ。

バスタオルを羽織ってはいるものの、中身はYシャツ一枚という格好でご家族に会えるわけがない。


回避方法は、柳の部屋に入るしかない。
ゴクリ、と息を飲んだと同時に腕を引かれ、そのまま柳の部屋に引き込まれてしまった。
それと同時に柳が肩にふわりとカーディガンをかけてくれる。

そして柳は、私と交代するように部屋の外に出て行った。


暫くしてからお姉さんと柳の会話が聞こえ、それから直ぐに柳が部屋に戻ってきた。
しかし、会話を盗み聞くことに集中していて、今の格好を隠すのを忘れていた。


部屋に戻ってきた柳はドーナツの箱を持っていたのだが、ドアを開けて突っ立ったままの私を見て固まった。

固まったまま、柳があまりにも私を見てくるものだから、肩にかけられたカーディガンを取って晒されている足を隠した。


「…あんまりじろじろ見ないでよ…恥ずかしいんだけど」

「ああ……すまない。しかし、」

一瞬、視線を反らしたような気がしたが、柳はすぐにいつもの調子で微笑んだ。
口元に手をあて、クスリと口から息を吐く。


「存外いいものだな」

「………!」


カァ、と顔に熱が集まるのが分かったが、それを抑える術を私は知らない。
どうすればいいか分からず、無言のまま俯いて固まっていると、柔らかな笑い声と共に頭を撫でられた。


「すまない。…少々意地悪が過ぎたな」


見覚えのあるジャージをスッと差し出され、反射的にそれを受けとる。
学校中で知らない人はいないくらい有名な、テニス部のユニフォームである。


「それでも着ていろ。今の服装よりはマシだろう」


そりゃあ、Yシャツ一枚という格好自体が特殊過ぎて、そのジャージで無くともマシといえる格好はいくらでもあるだろう。
柳はこちらに背を向けて、先程持って来たドーナツの箱を開けている。
今着替えてもいいぞ、ということらしいので、シャツから晒されている足を隠すために貸してくれたズボンに足を通しかけて、ふと動きを止めた。


最近、やたらSで隙あらば意地悪をしかけてくる柳にしては、やけに潔く無いか?
今回のことがどこからどこまで柳の手のひらの上のことだったのかは分からないが、私の予測する範囲では、今日雨が降るということからすでに作戦が始まっている。
雨が降らなければ着替えるという行為は無かったはずなのだ。しかも、集中豪雨である。
雨が降ると知ったうえで、柳は勉強会をしようと私を呼んだのではないか。
いや、ここまでのことの運びを考えると絶対にそうだ。間違いない。

柳は、これだけ緻密に計算していたはずなのだ。
その計算の答えは、私が柳のYシャツを着るという…所謂、彼シャツというものなのだが…それが目的だったはずだ。
それなのに、こんなにあっさり引くのはおかしくないか?

他にも、何か仕掛けているのかもしれない。


着替える手を止めて、じっと柳の背中を見る。
普段進んでは食べないはずのドーナツの箱を開けた状態からピクリとも動かず、箱をじっと見つめている。
その状態のまま暫く時間が経過し、柳の様子がおかしいということに気が付いた。

先程から動きが止まっているのだ。
これも何かの作戦なのか?と背後から様子を伺っていると、不意に柳が振り返った。


「…なんだ、まだ着替えていないのか」


物音が止んだので、私の着替えが完了したのだと思ったらしい。
振り返った状態から、再び背中を向けてドーナツの箱に視線を戻した。


しかし、柳が振り返り様に見せた視線の泳ぎは、見逃さなかった。

羞恥という感情も浮上してきたが、それよりも、おかしくて思わず笑いそうになってしまった。
もしかしたら今日は、柳に勝つことが出来るかもしれない。


ニヤニヤと口元を緩ませながらこっそりと柳の背後に近付き、息を整えてから、背中から柳に抱き付いた。
びくり、と柳が震えたものだから、余計に口元が緩む。

柳の首に腕を巻きつけてから、肩越しに柳の耳元に口を寄せる。
ごくり、と柳が息を飲んだ。



「柳の、意地悪したいっていう気持ち少し分かったかも」

「…ナマエ、」


「ねぇ、策士策に溺れる、って言葉知ってる?」



聡い柳が知らないはずがない。
気付いているくせに口を閉ざしたままの柳に、嬉しくなって笑みが零れる。
意地悪がしたいというだけで、こんなに大胆になれるものなのかと、自分でも驚いている。


「今の柳だよ」


耳元でそう囁いたら、柳は片手で顔を覆ってしまった。




20120726 執筆