どうしよう、本当にいろいろと終わった。
忍び足で教室の前まで来ると、ドアも開いているし、明かりもついているので確実に日吉君は教室にいる。
このまま帰ってしまおうか、しかしカバンを置いて帰るのは流石に避けたい。
それに日吉君も、私が教室に荷物を置いているからこそ待っているのだから、やっぱり私は教室に入らなければいけないようだ。
暫く教室の手前で立ち尽くして、なんとか心を決める。
決心がつく前に一人生徒が廊下を通りかかり、不思議そうな目で見られたのが少し恥ずかしかったが、息を飲んでからそっと教室を覗いた。
しかし、教室に日吉君の姿は無い。
ドアが開きっぱなしになっているから絶対にいると思ったのに、と首を傾げつつもう一度教室内を確認するが、やはり日吉君はいない。
あの日吉君が日直の仕事を放り出して部活へ行くとは思えないが、日吉君の机にはカバンはかかっていない。
やはり、部活へ行ったらしい。
意外だとは思いつつ、教室に日吉君がいなくてよかったと安堵した。
あんな無理矢理に手紙を渡した後だったから気まずいものもあったし、逆に都合がいい。
さっさと荷物を持って帰ろう、と教室に入って2歩目で、背後でドアが閉まった。
パタン、と控えめな音が聞こえ、息を飲んで立ち止まる。
つう、と背中に汗が流れるような錯覚を覚えた。
嫌な予感がしてゆっくりと振り向けば、ドア沿いの壁に日吉君が持たれていた。
ラケットバックを肩にかけ、空いている左手でドアを閉めたようだ。
教室の奥ばかりを見ていたから、ドア近くの方は確認できなかった。というか普通にしていても気付かないだろう。
そんな死角に立っていた日吉君の意図は、不敵に笑っているその表情から瞬時に読み取れた。
逃げ場は、無い。
「あ…あれ、日吉君部活は…?」
「ああ、そろそろ行かないといけないな。だからさっさと要件を済ませようか」
「よ、要件…?」
「何だよ、返事が欲しいんじゃないのか?」
ぴら、右手に持っている赤い封筒を私に見せるように持ち上げた。
この封筒は恐らく、先程私が押し付けたものだ。
開封された跡があるから、もう読んでしまったらしい。それは日吉君のこの発言からも伺えるのだが。
「……やっぱり、遠慮しとく」
「…へぇ、何で?」
「は、恥ずかしいし」
「この状況でそれを言うのか」
ハァ、と呆れたようにため息をつかれて肩がびくつく。
日吉君の表情はいつもとは何ら変わらない、赤くもなければ不機嫌そうでもない。
ただじっと無表情に私を見ているだけだ。
日吉君の考えていることが、分からない。
「良い返事なら聞きたい、と書いたのはお前だろ」
持っていた赤い封筒から取り出した便箋を広げて、私の前に差し出された。
恥ずかしいから本当にこういうことは止めて欲しい。
その便箋を日吉君から奪い取ろうとしたら瞬時にかわされた。
便箋を高々と上に持上げられ、更に身長差もあり便箋には手が届かない。
何度か飛んでみたが駄目で、不意に目の前に立つ日吉君を見上げたら、じっと私を見ていたようで途端に恥ずかしくなる。
「あの……その、」
どうしよう、辛いわけでも無いのに泣きそうだ。
ただ緊張しているだけなのに、涙が出そうになるのは初めてだ。
「返事はいらないのか?」
日吉君は無表情から、少し笑ったような表情でそう聞いてきた。
答えは先程の発言で分かってしまったから、素直に首を横にふる。顔が、今まで感じたことがないくらいに熱い。
「…いります」
「聞こえない」
「いります!」
「そうか」
フッ、と緩んだように笑って日吉君は私の頭をぽんぽんと撫でた。
なんでこんなに日吉君は余裕そうなんだろう。
私なんか頭に日吉君の手が触れただけで、何かを言いたいのに頭がうまく回らないし、この状況が恥ずかしくて混乱しているというのに。
「……日吉君だけ余裕そうで狡い」
「誰かさんがかなり動揺してるみたいだからな」
「…………」
「…まぁ、要件も済んだし。俺は部活に行く」
「ちょっと待て」
「何だよ」
「返事は!?」
「はぁ?」
「さっき返事聞かせてくれるって言ったじゃない!」
「返事をするとは言ってない」
「な…に!?」
「それに、空気読めよ。分かるだろ」
私の頭の上に乗っていた手が、輪郭をなぞるようにスルリと頬に降りてくる。
熱くなっているであろう頬を触られることは少し恥ずかしかったが、それも日吉君の顔が近付いてきたことにより吹き飛んでしまった。
近い、触れそうな程に。
今までこんなに異性と接近したことがあっただろうかと、思考の端でぼんやりと考えながらゆっくりと目を閉じた。
「……バーカ」
温かな感触が唇に降ってくることはなく、耳元に吐息がかかった。
驚いて目を開くと、私の耳元に顔を寄せていた日吉君は顔を上げて、少しずれたラケットバックを担ぎ直した。
呆気にとられたままその様子を眺めていると、何故か教室の鍵を渡された。
どういうことだ、日吉君の代わりに鍵をかけて帰れということなんだろうか。
「部活が終わるまでここで待ってろ」
「え、」
「いいな?」
「え、あ、はい」
良く分からないながらも頷けば、また日吉君は私の頭をぽんぽんと撫でてから教室を出て行った。
撫でられた頭に手で触れると、そこだけ熱いような気がする。
「……これは、」
一緒に帰ろう、というお誘いと受けとっていいのだろうか。
部活が終わるまでに、沸騰して蒸気が出そうになる頭をどうにかして落ち着かせなければ、と思いつつ、緩む口元は当分締まりそうにはない。
綴るラストステージ
20120703 執筆