今までこんなにも、他人の答えに緊張したことがあっただろうか。
日吉君が私に差し出しているそれは紛れもなく、私が書いた手紙である。
頭の中はすでに真っ白で、今自分がどんな表情をしているのかも分からないし、平静を保とうとしていた意識は彼方に飛び去っている。
ただ、日吉君が発する言葉だけはしっかりと拾っていた。
「この手紙の差出人は分かるか?」
しかし、日吉君が口にしたのは、私が予想していたものとは異なるものだった。
変に身構えていた体の力が抜け安心したのもつかの間、もしかしたらこの流れで差出人は私ではないのか、と突き詰めるつもりなのかもしれない。
日吉君の言いたいことの真意はつかめないが、とりあえず落ち着いたように答えておく。
「分かるけど…」
「そうか、なら丁度いい」
再び日吉君はポケットに手を入れ、今度は別の封筒を取り出した。若草色の無地の封筒で、それには宛名も差出人の名前も書いてはいない。
それを手渡され、何がなんだか分からず戸惑った。
「それ、この手紙の差出人に渡しておいてくれ」
「は…?」
どういうことだ?と私がポカンとしていると、日吉君はじっと此方を見たまま黙り込んだ。
何だろう、やっぱりバレたのだろうかと不安になったところで、日吉君は呆れたようにため息をついた。
「この手紙をくれた奴に聞きたいことがあるんだよ。差出人の名前が無かったから、本人に渡せなくてどうしようかと困ってたんだ。……で?」
「…ん?」
「この手紙の差出人は誰だ」
ぴらぴらと赤い封筒を揺らしながら聞いてくる日吉君に、一瞬どう答えようかと思案してから、適当に誤魔化す。
「はい、私です」なんて言う勇気は今の私には無い。
「……差出人が誰か言わないでくれ、ってその子に頼まれたの。だから言えない」
「…そうか」
特に感情も無さげに頷いてから、「じゃあその手紙を渡しておいてくれ」とだけ言って日吉君は教室に入って行った。
教室に入る前に、「お前、中身見るとかやめろよ」となんとも失礼な事を言うので、「流石に私でもそういうことはしないよ」と冷静に返しておいた。
それでも、なんだか日吉君と久しぶりに話した気がして嫌な気持ちにはならなかった。
しかし、日吉君には悪いがこの手紙の受取人は私なのだ。
とっさに誰か別の人から預かった体を装ってしまったが、まさか日吉君からラブレターの返事が来るとは思わなかった。
中身を確認したい衝動にかられながらもなんとか堪え、とりあえず今日の放課後まで我慢をしようと自分を抑えた。
学校の授業が終わり、部活へ向かう人混みを縫ってさっさと下駄箱へ向かう。
頭の中には日吉君からの返事(仮)のことしかなく、いつもより足早に家に帰宅してから、若草色の封筒を取り出した。
丁寧に糊付けのされているそれをカッターナイフで開封し、ドキドキしながら便箋を開く。
差出人を分かっていないとはいえ、これは日吉君から私への手紙である。
ドキドキと胸を高鳴らせながら手紙を読むと、書いてあるのはたった1行だけだった。
しかも、日吉君のそっけない時の会話のような内容で、手紙に書く程のものでは無いように思う。
『俺はお前に返事を返さなくてもいいのか』
手紙を返しておいて、返事はたったこれだけだった。
返事というよりは質問だ。
私が名前を書いていなかったから、返事をどうしようか困ったのかもしれない。
スルーしてしまえばいいのに、返事をきっちり返そうとする辺りは、日吉君と初めて話した時とあまり変わらない。
あの時は平然とラブレターを捨てていたのに、今回の件とは対応が随分差がある。
あれから日吉君は変わったのだろうか。
しかし、変に律儀なところは変わらないなぁ、とぼんやりと感心をしながら手紙を眺めた。
日吉君はこの手紙の受取人が私だとは、恐らく気付いていないだろう。
それでもこれは私宛の手紙なのだと思うと、口元が少し緩んだ。
日吉君から手紙が貰える私って結構レアなんじゃない?なんて調子にのった発言が出来るくらいには上機嫌だった。
一応返事を書いた方がいいのかな、と早速便箋を取り出してしまう辺り浮かれているな、と自分でも思う。
ニヤニヤしながら手紙を眺めていると、ピンポーンというインターホンの音が家に響いた。
一階のリビングの辺りからドタドタとあう足音が聞こえたので、お母さんが慌てて出て行ったのだろう。
話し声のようなものが聞こえて暫くしてから、急にお母さんが私を呼んだ。
「ナマエ、降りてらっしゃい!お友達が来てるわよ!」
「……はーい」
誰だ一体、と首を傾げながらだらだらと階段を降りる。
誰かと会う約束はしていなかったはずだけど、と悶々と考えながら軽く髪の毛を整える。
さっさと要件を済ませて、あの手紙を眺めていたいと思いつつ階段を降りていたら、ふわんと脳内に日吉君が浮かんだ。
ああ、今家に来たのが日吉君だったらいいのに。
想像してにへら、と口元が緩んだ瞬間、足元も緩んで階段を一段踏み外した。
残りたった2段というところで足を滑らせ、段で背中を強打しながら下まで滑り落ちた。
凄まじい音が家に響き、更に階段から落ちた時の痛みは痛すぎて悲鳴にもならない。
ぐああああ、と内心叫んではいるが、声には鳴らず廊下で悶える。
「…ちょっとナマエ、大丈夫?」
お母さんが、どちらかというと心配というよりは驚いた様子で私に声をかけた。
大丈夫、と返そうとして顔を上げたら、玄関に日吉君が立っているように見える。
階段から落ちて都合のいい幻覚でも見えているのかと不安になったが、よく考えて見ると好きな人に階段から落ちたところなんて見られたくないので都合は良くない。
ということは、本物なのか?
「…………」
日吉君は無言のまま、じっとこちらを見ていた。
ああ、あの呆れたような冷たい目は日吉君だ。絶対にそうだ。
穴があったら入りたい。
20120623 執筆