洗濯も掃除も片付け、時間を確認すれば午後3時だった。
今日の夕飯の下ごしらえもしてあるし、なかなかスムーズに家事が進む日だと自分でも感心した。
マツバさんが帰ってくるのは夕方なので、それまではゆっくりしていようと座敷に寝転がる。
仰向けに寝転がり、今となっては見慣れてしまった天井を見上げる。
左手を天井に向けて伸ばした時、あることを思い出した。
ゆっくりとスカートのポケットに手を入れ、それを取り出す。
プラチナにひとつだけダイヤがついている、シンプルだが可愛らしいリングだ。
それを自分の左手の薬指に収める。
指輪はするりとはまったが、少し緩かった。
彼女の指に収まっていた時は、緩くもなく、きつくもなく、まさにピッタリという感じだった。
それが悔しくて唇を噛む。
そしてもっと悔しいのは、羨ましさあまって彼女の指輪を、しかも無断で拝借してしまったことだ。
もはや拝借ではなく、盗みでしかないことも分かっている。
あの指輪をはめてみたい、というただの好奇心だった。
彼女の指からコレを抜き取った時に、ちょうどマツバさんが帰って来てしまった。
彼女の指輪を元に返す間もなく、そのままスカートのポケットに仕舞って、今に至る。
緩くはまった指輪を見ながら、掌を天井に翳す。
キラリと光るそれは、手入れが行き届いているようで、綺麗な白金に輝いている。
どんな風にこの指輪を貰ったのだろう。どんなプロポーズをされたのだろう。
どんなふうに、マツバさんに愛されているのだろう。
ぐるぐるぐるぐると考えても、なんの意味もないことは分かっている。
簡単な話、ずっと昔からしていた恋が、知らないうちに失恋してしまっていただけ。
今まで行動もなにも起こさなかったくせに、舞い込んできたチャンスにやっと行動を起こしたら、手遅れだったという、だけの話。
考えて悩んで、どうこうなる問題ではないのだ。
キラリと輝く指輪を眺めてぼんやりしていたら、だんだん眠くなってきた。
眠るつもりは無かったのだが、だんだん視界がぼやけ、目を開いているのがだるくなったから、瞼を閉じる。
暫くは真っ暗な中にも意識はあったのだけど、いつの間にかプツリと意識が途絶えていた。
目を覚ました時は、ちょうど夕暮れ時だった。
空は赤く、だんだんと夜の闇へと変わっていく景色の中に、金色の髪が視界に入る。
ゆっくりと覚醒する意識の中、それがマツバさんであることが分かった。
クリアになっていく視界で、マツバさんは私を見ていなかった。
マツバさんの視線は、私の腹部に向いている。
何だろう、と思い自分でも視線を走らせてみれば、お腹の上には私の両手が重ねられていた。
薬指にはめたままだった指輪が、きらりと光った。
瞬間、私は飛び起きた。
「…マ、マツバさん、」
「それ、どうしたんだい?」
夕焼けを背景に、マツバさんの表情に影がかかったように見える。
しかしその影は、夕焼けのせいだけでは無い気がする。
「あの…これは、…その」
「これは、君にあげたものじゃないよ」
そう言うと、マツバさんは無表情で私の手を掴み指輪を抜き取った。
指輪を抜き取った後に、だからか、と呟いたのを私は聞き逃さなかった。
「気付いてたんですか?」
「…いや。昨日ナマエが指輪をつけていなかったから」
どうしたのか心配になった、とでも続いたのかもしれない。
その後マツバさんは何も言わなかったが、そう言っているような気がした。
ナマエさんの指にソレが無いことに直ぐに気付くということは、普段から意識して見てしまうということだ。
「…ごめんなさい。ただ指にはめてみたかっただけなんです。タイミング悪く返せなかったんです」
「……そう」
「…怒ってますか?」
「そりゃあね」
マツバさんは微かに笑ったが、内心は全く笑っていない。
いつもの穏やかさの中に、隠しきれないものが微かに見える。
それは怒りというより、苛立ちに見えた。
「ご、ごめんなさい!」
「いいよ、もう」
「でも、私……」
「もういいよ、謝るだけなら」
いつものマツバさんでは無いみたいだ。
どこかトゲを含んだような言い方に思わず涙が零れたが、マツバさんはこちらを見ても表情ひとつ変えなかった。
「…悪いけど、君のお父さんの考えていることは大体分かってる。分かった上で、僕はそれに従う気は無いよ」
「知ってます。だけど…私は、一族のためにここに来たわけではありません」
「………」
「私、は……マツバさんのことが、」
好きです、とは言葉にならなかった。
ここまで言えばマツバさんだって気付くはずだし、現にマツバさんは既に勘づいている。
だからこそ、私とのお見合いを進める父の話を持ち出したのだ。
告白をする前に、遠回しに拒否されたようなものだ。
涙がポタポタと溢れてきて、手で拭うとマツバさんはハンカチを差し出してくれた。
先程の影が、消えたような気がする。
「ごめん、言い過ぎた。これじゃあ、ただの八つ当たりだ」
「…いえ、」
グス、と鼻をすすってからハンカチを受けとる。
マツバさんは、不安そうにこちらを見ていた。
「ごめん」
「何でマツバさんが謝るんですか。謝るのは私の方です。
…それとも、私の気持ちに対する、ごめん、ですか?」
「どちらにも」
分かってはいたが、流石にグサリとくる言葉だった。
ここで正式に、私はフラれてしまった。
「僕は、シノさんの気持ちには答えられない」
「そう……ですよね…」
「ごめん」
「…謝らないでください」
暫くハンカチを目にあてて、何も言えずに泣き続けた。
目をおさえていたからよくは分からないけれど、マツバさんはじっと私が泣きやむのを待っていた。
泣くというのは、不思議なものだ。
自分の気持ちを吐き出して、吐き出している間に落ち着かせてくれて、気持ちを楽にしてくれる。
辛いはずなのに、楽になる。
「…ごめんなさい、マツバさん。ご迷惑をおかけして」
「いや、そんなことは無いよ」
「……………少し、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「ナマエさんの…どんなところを好きになったんですか?」
泣いて吐き出したからか、不思議とそんなことが聞きたくなった。
自分の気持ちを締め上げるはずの質問なのに、意外と冷静でいられたし、興味があった。
マツバさんは予想外だったのか「えっ?」と驚き、固まった。
じっとマツバさんを見ていたら、マツバさんは少し照れくさそうに話してくれた。
「彼女とは幼馴染みなんだ。小さい頃から一緒にいて…アイツといると素の自分でいられるんだ。それに、素でいられるのが、心地いい」
「…アイツ?」
「あ、」
しまった、とマツバさんの表情に少し出ていたが、気付かないふりをした。
温厚な雰囲気のマツバさんから、"アイツ"という少し荒い言葉が出てくるとは思わなかった。
しかも、恋人…いや、結婚を約束した人に対して。
それが、素のマツバさんなのだろうか。
知りたいとは思うが、きっと知ることは無いだろう。
マツバさんの言う、素でいられるマツバさんを知っているのは、恐らくナマエさんだけだ。
「……妬けちゃうなぁ」
「え?」
「いえ、何でもないです」
接戦で負けた悔しさというより、完敗した悔しさに近い。
そのせいか、心のショックは少なかった。
20110811