ジレンマ

死体確認へ行ったマツバさんが、次の日の朝帰ってきた。

「ごめんね、連絡できなくて。昨日はリーグに泊まったんだ」

そう言って申し訳なさそうに謝るマツバさんだが、どこか雰囲気が柔らかい。
朝シャワーを浴びたのか、少し湿り気を含んだ髪からフローラル系のいい匂いがする。
それが重なって、余計にマツバさんがふんわりして見える。

それだけで、ナマエさんがどうだったのか予想がついた。


「ナマエさん、無事だったんですね」

「ああ。…そういえば、ナマエのこと話していたっけ?」

「ごめんなさい。この前、ミナキさんが家に来ていた時に聞こえちゃって」


盗み聞きした、ということは伏せておく。
それでもマツバさんは私をじっと見てから、そうかい、と苦笑いをした。


「早速だけど、ジムへ行ってくるよ。挑戦者が集まっているらしいから」

「分かりました。あの…お昼を作っていなくて、お弁当が無いんですけど」


マツバさんがジムへ行くたび、お弁当を作っていたのだが、昨日はマツバさんが帰って来なかったし、まさか家に帰ってすぐにジムに行くとは思っていなかったので、お弁当の準備をしていなかった。


「ああ、大丈夫。お弁当なら買ってきたから」


そう言って、マツバさんは持っていた黒い手提げを上げて見せてくれた。
多分、その中にお弁当が入っているのだろう。

しかし直感で、嘘だと思った。
そんな袋にお弁当を入れてくれるお店が、一体どこにあるのだろう。
マツバさんは昨日出発する前にそんな手提げを持っていなかった。
そして何より、マツバさんが心無しか嬉しそうだったのが、なりよりの証拠だ。



「それじゃあ、夕方くらいに戻るよ」


そう言って、足早に家を出て行った。
マツバさんの背中が見えなくなるまで見送り、ジムの方へ行ったことを確認してから、ふぅと息をついた。


じんわりと、しかし確実に胸が痛む。
正直、マツバさんと一緒に1ヶ月も生活するのだから、マツバさんの気が少しでも私に向くのではないか、と期待をしていた。
それだけ一緒に生活をすれば、嫌でも相手を意識してしまうだろう、と。

しかし、マツバさんの視界に私は写らない。

もどかしくなって行動を起こしても、気づかないふりをしてかわされる。



「こんにちは」


そんなことを考えていたからなのか、ナマエさんが家を訪ねてきた。
少し疲れたような表情をしていたが、にっこりと笑って挨拶をしてくれた。


「こんにちは。ご無事でなによりです。あの…もう、大丈夫なんですか?」

「大丈夫です。心配をかけてごめんなさい」

そう言って、ナマエさんは有名店のお菓子の箱を差し出した。
ふたりで食べてください、と言われて、一瞬心の中で舞い上がった。
ふたり、とは、私とマツバさんのことだ。


「ところで、あの…マツバはいますか?」

「いえ、昼前にジムに行かれました」

「そうですか……うーん」


ナマエさんはもう片方の手に持っていた書類に目をやった。
そして暫く考えこんで、顔をあげた。


「マツバが帰ってくるまで、家にお邪魔してもいいですか?」


チラリと書類を見ながらそう言ったナマエさんが、仕事の関係で用があるんだろうな、ということは分かったが、素直に頷くことができなかった。
固まった私を不思議そうに見ているナマエさんを見て、ハッと意識を取り戻した。


「ええ、どうぞ。マツバさんももうすぐ帰ってくると思うので」

ナマエさんは少し申し訳なさそうな顔をして、お礼を言った。


しかし、ナマエさんを家にあげて、正直何を話せばいいのかわからなかった。
唯一共通の話題は、マツバさんのことしかない。
しかし、彼女からマツバさんの話を聞きたくない。

どうしよう、と考えていたら、ナマエさんが予想外の行動をとった。


「…ごめんなさい、昨日あんまり寝てなくて、今日も朝から会社に行ってたから…眠くて」


ふらふらしながらそう言うナマエさんの様子から、本当に眠いのだろうということがわかる。
座敷に通してからお茶を持って行けば、机に突っ伏すように眠ってしまっていた。

そんなに疲れていたのか、という驚きと、マツバさんが帰ってくるまで寝ていてくれることに安堵を覚えた。

眠ってしまったナマエさんに、薄いかけ布団をかけた時、ふわりとフローラルの匂いがした。

マツバさんと、同じ匂い。


ふたりとも昨日はリーグに泊まったのだろうか、と髪に目をはしらせ、あるものに視線が止まった。
伏せて眠っているナマエさんの首にかかる髪の隙間から、赤い跡のようなものが覗いていた。

それを見た瞬間、あることが脳裏を過って愕然とした。
まさかそんな、と思ってみても、マツバさんとナマエさんは恋人同士で、別に不思議なことではないとは理解できる。


問題なのは、そこに思い至ってしまったことだった。

好きな人が、私ではない誰かと……、想像しかけて頭をふった。

そして、ナマエさんの左薬指にはまっている指輪が、更に追い討ちをかけてくる。



苦しい、悲しい、そしてそれ以上に、羨ましい。
初めは、こんなつもりでは無かったのに。



マツバさんの家にお世話になりはじめて、2週間が経過しようとしていた。
私は、ここに来たことを後悔している。


20110722