抑えられない

正直、なんて運がいいんだろうと思った。


「いらっしゃい」


人当たりのいい笑顔で迎えてくれたのは、親戚であり、父から聞くに婚約者になったというマツバさん。
婚約者と言っても、あの父の様子からだと少し怪しい。
父は、私とマツバさんを結婚させたいようだった。
というより、マツバさんを一族の誰かと結婚させたいのが一番の理由で、相手候補に挙げられたのが私だっただけだ。

結果的に婚約の話は嘘だったが、1ヶ月マツバさんの家にお世話になるという話は、それでも私にとっては良い話だった。

私は、小さい頃からマツバさんに憧れていた。



たとえマツバさんに、恋人がいたとしても。





「……マツバさん?」

先程から、ぼんやりとしていて夕飯もろくに手をつけていない。
箸で煮豆を摘まんだと思ったら、その状態のまま数十秒固まっている。
それに、マツバさんの顔色が良くない。

私が声をかけると、はっとして顔を上げた。


「ごめん、考え事をしてた」


そう言って、黙々と夕飯を食べはじめる。
それでもやっぱり、元気が無さそうだった。


その次の日の夜、ミナキさんが家を訪ねてきた。
ミナキさんはやたらご機嫌なようで、入ってくるなり高笑いをしていた。
しかし、マツバさんがあまりにも静かなので、空気を察したのか、真剣な顔でマツバさんを心配していた。

マツバさんとミナキさんが書斎に入って行った後、悪いと思いながらも、廊下に立って盗み聞きをした。


「お前、どうした?」

「……ナマエが、」


死んだかもしれない。



その言葉に思わず驚いてしまった。
手に持っていたお盆をぎゅうと胸に抱き固まっていると、やや時間が経過してから、ミナキさんの声が聞こえた。


「どういうことだ…?」


ミナキさんも驚いたようで、声が真剣なものだった。
マツバさんは、その経緯を話した。
暴走したカイリューを誘導中、シロガネ山に落下したらしい。そして、同じくカイリューを誘導していた人物から、シロガネ山で女性の死体を発見したという連絡を受けた、と。


「…おい、大丈夫か?」

「大丈夫なわけないだろ」


マツバさんの声は、聞いたことが無いくらい小さくて力が無かった。


「昨日からずっと、千里眼で探しているんだけど、見つからない」

「…だからか。お前寝てないだろう、顔色が悪いぞ」

「寝てられないよ」


やや無言になって、マツバさんが口を開いた。


「明日、死体の確認に来いと言われてる。それがもし、ナマエだったら…」


そこで言葉が途切れた。
きっと今、マツバさんは悲痛な表情をしている。
それが私の胸にも突き刺さる。


「そう簡単に死ぬような奴じゃないだろう」

「根拠が無い」

「根拠ならある。ホウエンリーグまで行った女だぞ。そんな簡単に死ぬか」

「フライゴンしか連れて行って無いんだ」

「それでも大丈夫だ。フライゴンならナマエを守ってくれる」

「でも……」

「お前は、ナマエを死なせたいのか?」

「そんなわけないだろ」

「ならもう少しプラスに考えろ。今のお前はお前らしくない」

「…………」

「まぁ、でも、不謹慎かもしれないが……」


ミナキさんが先程までの真剣な声色と変わって、含み笑いをしつつ言った。




「お前には、ナマエがいないと駄目なんだろうな」



ジワリ、と刃物のような何かが突き刺さり、ゆっくりと痛みが侵食する。
同時にナマエさんがぼんやりと浮かび上がる。
彼女が、マツバさんの中を占めているのだと思うと、悔しくて悲しくて、羨ましくなった。



「ナマエに今のお前を見せてやりたいな。それくらい、お前がベタ惚れだと教えてやりたい」

「…………」

「なんだ、言い返して来ないのか?」

「…別に」


声色からしてマツバさんは不機嫌そうだ。
その不機嫌の理由が、果たして単純に嫌だからなのか、図星だからなのか。



「まぁ、どちらにしてもナマエなら大丈夫だろ」

「…………」

「ほら、ホウエンに行っていた時も、何度か死にかけたとか言ってただろ」

「…そうなのか?」

「ん?聞いてないか?」

「聞いてない」

「ほら、大人数の男連中に誘拐されかけたとか……」

「…なんだって?」

「…………」



中の様子は見えないが、会話の流れからミナキさんは青い顔をしているだろう。
言ってはいけなかったことを言ってしまい、どうにかマツバさんに言い訳をしているが、マツバさんは「ふーん」の一点張りだ。
確実に機嫌は良くないだろう。
それは、自分の知らない過去にナマエさんが危険な目にあっていたことを、自分には知らされていなかったからだろう。


その後、ミナキさんは、マツバさんから質問責めにあい、質問の半ばミナキさんは逃げるように帰って行った。






次の日。

死体確認に行く前のマツバさんは態度に表さなかったものの、顔色は悪かった。
玄関まで見送りに行くと、無理をして笑って出て行くマツバさんに、ついに我慢の限界が切れた。


思い切り床を蹴って、マツバさんの背中にしがみついた。
マツバさんは少なからず驚いたようで、動きがピタリと止まり、そして低い声で言った。


「どうしたの?」


「……私じゃ、駄目ですか」


私じゃ、ナマエさんの代わりになれないだろうか。
私が、ナマエさんの代わりにマツバさんを支えてあげられないだろうか。
私が、マツバさんの隣に立っていられないだろうか。


ぎゅうとしがみつけば、マツバさんに回した腕に、マツバさんが手を添える。
そして、やんわり私の腕をほどいた。


「何のこと?」


にっこりと笑ってみせるマツバさんは、無言の圧力をかけてくる。
疑問系であるが、決して答えを求めてはいない。
これ以上何も言うなと、そう言っている。


私は、何も答えられないまま、呆然とマツバさんを見ていることしかできなかった。


今まで押さえ込んでいたものが、「ナマエさんの死」によって大きくぐらついた。
いっそ、ナマエさんがこのままいなくなれば、私にもチャンスがあるんじゃないかと、恐ろしいことが頭を過った。


「じゃあ、行ってくるね」



マツバさんはそう言って家を出て行き、その日は帰って来なかった。



20110702