空気を読め

「帰れ」

「えええ…」


ジムを訪れ、なんとかマツバのいる場所まで辿り着いたらマツバからの第一声がそれだ。
それはいくらなんでも酷くない?しかも、彼女に。

今思い返せば、恋人になった日から私達の間にはあれから何も無い。
あの日は何だったんだろうか。
もしかして、私は幻覚を見ていたんだろうかと本気で心配になってきた。
だからと言ってマツバに、私達恋人ですよね?なんて聞く勇気は湧かなかった。
聞いた後、マツバに「は?」なんて言われたら本気で立ち直れない。


「で、何の用だ?」

「あの…クッキー焼いたんだけど」

「…クッキー?」

予想外だったのか、マツバはキョトンとしてこちらを見た。
以前、マツバにクッキーをあげた(奪い取られた)際にリクエストされた通り、ゲンガーだけでなくゴースやゴーストの形のクッキーを焼いてきたのだ。
しかも今回はクッキーだけではなく、紅茶まで持ってきたのだ。
あわよくば、お茶をしよう……などと考えていたが、そんな浮かれた気持ちも「帰れ」発言で撃沈である。


「はい、クッキー。…それじゃ」

「ちょっと待て」


帰ろうと踵を返したら、腕を捕まれた。
流石にマツバも慌てたか、と期待をこめて振り返ると、先程から表情ひとつ変わっていなかった。


「これ、食べても大丈夫なんだろうな?」


ああ、やっぱりマツバの恋人になった日のことは幻覚なんだろうか。幻覚なんだな、ちくしょう。


「ええ、食べても大丈夫ですよ」

「……ナマエ?」


少し怒気を含ませて言えば、マツバは眉間にシワを寄せた。
マツバに捕まれた腕を振り払い、勢いよく駆け出した。
しかし、何故だか分からないが、何も躓く要素のない所で躓き、体がふわりと宙に浮いた。
体が傾いた先には床がなく、ただ下で黒い煙が渦巻く得体の知れない空間があるだけだった。
重力に逆らえるわけがなく、ひゅうとその空間に落下。
そして、気が付いたらジムの入り口の付近に倒れていた。
やっぱり、これどうなってんの?


「ナマエ!」


遠くでマツバの声が聞こえた。
どうやら、こちらに走ってきているらしい。
足音がだんだん近付いてきている。

「おお、マツバさん。隣のササキさんから回覧板じゃ」

「あ、どうも」


ちょ、空気を読んでくださいイタコさん。
そのまま暫く話し込んでいるらしく、マツバがこちらに走ってくる気配は無い。
むくりと起き上がり、薄暗いジムの通路の向こうを見るが、それでもマツバが来る気配は無い。
暫く待ってみたが、話が終わっても足音は全く聞こえない。


何よ、これ。
これはいくらなんでも彼女に対する仕打ちでは無いだろう。
何だか悲しくなって涙腺が緩んだ。ツゥと涙が頬を流れる。


「くっそー…」

ぐし、と涙を拭ってジムのドアに手をかけた時、ドアの取っ手を掴んだナマエの手の上に別の手が重なった。


「ごめん、やり過ぎた」


耳元で聞こえたマツバの声には、焦りが含まれていた。
しかし、そんなことよりももっと驚くべきことがあった。


マツバが、ごめん、と謝った。あの俺様マツバが。


「おい…筒抜けだぞ」
「あれ」
「口に出てる」
「…あら」


口に手をあてても口に出たものは手遅れだった。
ハァとため息をついて、マツバはナマエと向かい合うように、ナマエの体をくるりと回した。
そしてマツバは目を見開いた。


「………やり過ぎた。泣かせるつもりは無かったんだ」


そう言ってマツバは涙の伝った跡をなぞった。
そのマツバの表情を見たら、落下していた気持ちがゆっくりと浮上してきた。


「許す」

「……ああ、そう」

なんだか複雑そうな表情を浮かべこちらを見るマツバの目には、呆れも含まれていたが、気にしない。
今の私はとても幸せだと思うから、小さなことは気にならないのだ。

勢いでマツバに飛び付き、肩口に顔を埋めた。
マツバは少しよろめいたが、なんとか私を受け止めてくれた。

「重い」

「失礼な……」


少し気分が下がったが、背中にマツバの腕が回ってきたので、また上昇する。
やっぱり、私達は恋人なんだ、なんて安心した。


「マツバさん。そんなところでイチャイチャしていたら挑戦者の方が困りますよ」


「…………」
「…………」


イタコさん、まじで空気読んで。


(空気を読めていないのは私達だと気付くのに、数秒かかった)


20110104