すべて不発

「そこ、違う」

「うっ…」


ポキリ、と握っていたシャーペンの芯が折れた。
机を挟んで私の正面に座るマツバは、読みかけの小説を片手に、私が先程書き上げた数学の方程式を指差した。


「計算間違ってる」

「…はい」


今までずっと小説を読んでいたはずなのに、まるでずっと見ていたかのようにマツバは的確な指摘をしてくる。
見直してみると、なんと足し算の計算を間違えていた。小学生以下か私は。


「…マツバは何の小説読んでるの?」

「そんなこと気にする暇があったら、さっさとそのプリント終わらせなよ」


ペラリ、とページを捲ってマツバは小説の文字に目を走らせる。
目の動きから、マツバが小説のどのあたりを読んでいるのがよく分かる。
読むの早いなー、なんてぼんやりと考えていたら、マツバにため息をつかれた。


「居残り、早くしろ」

「はーい」


私が数学のプリントを終えるまで待っていてくれるらしい。
私の他にも、教室には数学の居残り組が何人かいるが、その人達には待ち人はいない。
なんだか私だけ特別なようで、少し嬉しい。


「…そういえば、マツバ部活は?」

「……だから、数学に集中しろ」

「そう言われても」

「もうすぐ受験生だろ、そんなことでどうするんだ」


受験生、という言葉にピタリと手が止まる。
まだまだ先だろうと思っていたけど、あと数ヶ月したら3年生になるのかと改めて実感させられた。
今解いている数学のプリントも、受験に向けてのものだと思うと、高校生活の終わりがうっすら見えて、少し切なくなった。


「進路どうするのか知らないけど、ナマエもそろそろ勉強した方がいいんじゃないの?」


そう言うと、また私の書いた方程式を指差した。
よく見ると、今度は引き算を間違えていた。


「あ」

「小学校の問題からやり直しだな」


冷めた声でそう言うと、マツバは時計を確認して、徐に本を閉じた。
そして帰り支度を始めるものだから、慌ててマツバを引き留める。
もしかして、私の数学のできなさに呆れられた?


「帰るの?」

「ちょっと呼ばれてるから」


やっぱり先に帰るよ、と言い残しマツバはさっさと教室を出て行った。
どうやら、その呼び出しの時間潰しでここにいたらしい。
私が数学出来るまで待ってくれていたのだと思っていたので、なんとも言えない気持ちになった。
数分前の喜んでいた私よ滅びろ。


「ほら、ナマエ。さっさとプリント終わらせなさい」


そして気付けば、皆続々と数学のプリントを先生に提出していた。
私のプリントを見ると、まだ問題の半分も解けていない。

慌てて問題に取り組み、プリントを提出できたのは、それから15分後のことだった。






「あー…」


疲れた、とふらふら廊下を歩きながら、下駄箱を目指す。
そう言えば、マツバは誰に呼び出されていたのだろうか。
マツバは頭が良いから、先生にどの大学を目指すの?だとか、お前のレベルならこの大学へ行ける!だとか言われているに違いない。

私なんかには縁のない話だ。
私の場合は先生に「え?大学受けるの?(笑)」と言われることが目に見えている。
別に勉強をサボっているわけではないのだが、そんなに頑張っているわけでも無いので勉強はあまりできる方ではない。
勉強が出来ないという事実を知っていても、特に目指している場所も無いので焦ることもない。
なんという負のスパイラル。

玄関に着くと、さっさと下駄箱から靴を取り出して履き替える。


その時、カタンと下駄箱の向こう側で音が聞こえた。
そして、女子生徒のすすり泣く声も聞こえる。

何事だ、と恐る恐る下駄箱に隠れて向こう側を覗くと、泣いている女の子の前に、マツバが立っていた。
なんだか困っているような雰囲気ではあるが、マツバはポケットからハンカチを取り出して女の子に渡した。
ハンカチを見て、女の子はぶるぶると首をふるものだから、マツバは表には出さないものの、ため息をついたようだった。

この様子から、マツバが女の子を泣かせたのは明白である。


呼び出しって、これのことだったのか。
下駄箱に隠れて、ふうとため息をつく。
自分のために待っていてくれたと思っていたら、実は呼び出しまでの時間潰しだし、先生に呼びだされていたのかと思えば、本当は女の子からの…恐らく告白だ。


もやもやした気持ちになりながらも、もう一度下駄箱の向こうをこっそり覗く。
するとマツバは、泣いている女の子の背中を押して、そのまま玄関を出て行った。
一緒に帰るつもりなんだろうか。


二人並ぶ後ろ姿を見ていると、なんだか取り残されたような気持ちになった。

泣いている女の子は、学年で3本の指に入る秀才だった。



20100107