なまえにとって貧乏な暮らしは何にも耐え難い苦しみだった。
しかし、なまえは落ちぶれた貴族だとかいうわけではない。生まれつきの貧乏な女の子なのだ。だから贅沢な暮らしなど一度も経験したことがなかった。
一攫千金を夢見て多額の金銭(あくまでもなまえにとってだが)をギャンブルにつぎ込んだこともあったが、貧乏の星の下に生まれたなまえにそんな運が巡ってくるはずもなく、さらに厳しい生活を送ることになってしまった。それっきり、なまえは賭け事にびた一文出すことはなかった。そういう事はちゃんと学ぶ、そこそこ賢い女の子だ。
次に七瀬#は玉の輿を夢見ることにした。
問題はどうやってお金持ちの男の人と出会うかだ。
相手の姿かたちはもはやなまえにとって問題ではなく、何日もお腹を空かせたり、媚びるように花を売る生活はもうたくさん。豊かな暮らしが出来るなら、それに変わるものは何もないと信じていた。
ついに、なまえは家とも言えないような彼女の住処にあった、売れそうなものは全て売り払って、なまえは今まで着たこともないくらい良い、綿で出来た服を買った。良い出会いのためには少しは見た目に気をつけなければならないと思ったからだ。
ぼさぼさに伸びきった長い髪も売ってしまった。何回も髪の毛を洗って、何回も櫛を通せばそれ相応の髪になって、思ったよりもかなり良い値段で売れた。ちょっとだけさみしくなったけれど、短くなった髪型はなまえを洗練された都会の女の子に見せる手伝いをしてくれたし、今までの暮らしにさよならを言ったようで、少し清々しくもあった。
「町に出たのは良いのだけれど……」
私は自分の生まれ育った町に別れを告げ、それなりに大きな都市にやってきた。北へ行けばきっと素敵な出会いがあるという占いに従ってのことだ。
到着した頃にはすっかり夜になってしまっていたが、これまで見たこともないような背が高くて大きな建物や、きらきら光るネオンでデコレーションされた夜の街に眩暈がして、これからの出会いに胸を踊らせた。確かにセレブな男の人は見つかりそうだと思った。
あっちへ行ったりこっちへ来たり、ふらふら上を見てあんぐり口を開けながら歩くなまえは田舎出身丸出しで、この町に住む人達にしてみれば、少し迷惑だった。まっすぐ歩けと言わんばかりにわざと肩をぶつけてすれ違う人さえいた。
そしてとうとう、なまえは誰かに真正面からぶつかってしまった。
「わ、すみません!」
慌ててその人に謝った。きっと今、私は間が抜けた顔をしていただろう、それを誰かに見られたかと思うと、今になって羞恥心が込み上げてきた。
「ちゃんと前見て歩きなよ、危ないから」
高く澄んだ声に、ちら、と見上げるとそこには男の人が居た。
その人を一目見たとき、なまえは「絶対にこの人だ!」という直感が体を駆け巡った。純粋な直感だった。
都会の男の人は髪の毛をこんなにも伸ばすのだなあ、と呑気に不思議に思う反面、どうやってこの男の人を自分のものにしてやろうかと策を巡らせた。
「……ねえ、君ってこの街の人じゃないよね」
イルミはうっかりなまえとぶつかってしまったのではなかった。
前から覚束ない足取りで歩いてくる若い女を避けるのは、イルミにとって、とても簡単なことだった。
けれど、避けなかった理由は本当のところ、イルミ本人にもよく分からなかった。
ただ単に、ふらふら歩く女に注意してやろうと思っただけかもしれないし、この子の声を聞いてみたいと思っただけかもしれない。しかし、自分がそれほど他人に興味を示した事は今まで一度も無く、ましてこんな田舎娘ならなおさら好みのタイプでないとイルミは思っていた。
だからイルミはとても不思議に思った。
「は、はい。出身はもっと南の方です」
都会の男をよく知らないので、何が裏目に出るか分からない。せめて連絡先を聞くまではボロを出さないぞ、都会の女性を振舞おうと必死なっていた。
しかし、今までのいかにも田舎者らしい行動よ時点で出身は知れるだろうし、その上こんなにも目をギラギラさせていたら不審に思われてしまう。
そんなことに気付かないなまえは、こんな素晴らしいチャンスはもうやってこないかもしれない。相手のことを何も知らなかったけれど、目の前のこの人は絶対お金持ちで、結ばれるべき人だという自分の決断に迷いはなかった。
「そう、でもだからってそんな風に歩いてると誰かとぶつかっちゃうよ」
しかし、イルミの凛とした声でそう言われると、自分が責められているような気がして悲しくなったり、恥ずかしくなったりで、なんともいたたまれない気持ちになってしまった。
「そうですね、これから気をつけます。いろんな物が新鮮に見えてしまって」
なまえはきまり悪い気分になって、俯き加減のまま笑ってごまかそうと思った。
「観光?」
「いえ、お婿さんを探しに……」
「えっ?」
しまった、と思ったが、この際打ち明けてしまった方が良いだろうか?私は何がなんでもこの男の人のお嫁さんにならねばならない。
「いや、その、つまり……」
やっぱり正直に話すのは憚れる。初対面の人にお婿さんを、なんてちょっとどうかしていると思われそうだ。
なまえが口ごもっていると、
「名前、なんて言うの?」
という、予想外のイルミの問いかけになまえは驚いて顔を上げた。
そこで初めてイルミの顔をじっくりと見たなまえは、その気品のある美しい顔つきに見惚れて、なんて質問されたかも忘れてしまった。自分の育った地域にこんなにも綺麗な人は、男も女もいなかった。やっぱりこの人はきっとどこかの貴族に違いない、と確信した。
「俺の顔になんかついてる?」
あんまりにもなまえがじっと見つめるものだから、イルミはたまらなくなってその理由をなまえに尋ねた。
「いえ、そんなこと無いです!あなたって、すごく、すごく綺麗で、私びっくりしたわ!」
「は?」
2人してどきっとすることになった。
なまえはこんな事を言うつもりは全く無くて、自分の口から男の人を褒めるような言葉が簡単に出てきたことに驚いているし、一方イルミは真っ向からこんな風に言われたのは初めてで面食らっていた。
2人ともこの気まずい空気を持て余していた。
それでも、2人はこの場を離れることはなかった。
「えっと、私の名前はなまえよ」
沈黙を破ったのはなまえだった。つられるようにイルミも自己紹介を済ませた。
イルミは悩んだ。
今日泊まるところあるの?と聞きたかったからだ。ただ、このちょっと頭の緩そうな田舎から出てきたばかりの娘が、都会のホテルの複雑な手続きを済ませた上でこの通りをうろついていたと思えなかったというだけで、他意はなかった。
手には大きいとはいえないが膨らんだ包みを持っていたし、その中にはたぶん衣服や必要なものが入っているだろうことは、ふらふらしながらも大事そうに抱えていたことから、なんとなくそんな気がした。
しかし、仮にも若い女の子にそのような不躾な質問をするのは躊躇われた。およそ普通の家庭とは言い難い家庭で育ったイルミでもそういう常識は持ち合わせていたのだ。
「こんなに遅い時間に女の子1人で出歩くなんて、感心しないね。どこに泊まってるの?そこまで送っていくよ」
なんでこんなことを言ったのだろう、イルミはますます自分が分からなくなっていた。放っておけばいいのに。自分が分からないなんて、こんな感覚いつぶりだろうか。うまい口実を思いついたと得意になる反面、奇妙で名付け難い感情が自分の心を蝕んでいくのを感じていた。
「あ、そういえば……。でも、いいの」
「いいって?」
ここで馬鹿正直に「お金が無いので野宿するつもりでした」とは流石に言えない。泊まるところなんて、これっぽっちもなまえの頭になかった。
「ええっと、とにかく、良いんです。なんとかしてみせるから!」
「なんとかって……もしかして、泊まるところないの?」
「あの、そうわけじゃなくってね、あの」
なまえは考えた。これってイルミさんとお近づきになれる絶好のチャンスでは?持ち前の底抜けた明るさで、アタックするのよ!慎重になってるなんて、私らしくない。
「あの……、私、イルミさんに一目惚れしちゃいました!」
がっちりイルミの手を握って、しっかりイルミの目を見て叫んだ。
実のところなまえには「一目惚れ」がどういう気持ちなのかは知らなかった。
イルミさんの何に惚れたの?と聞かれると、よく分からなかったし、お金に惚れたんでしょ?と聞かれたら否定するのは難しいとなまえは思ってしまったけれど、背に腹は変えられない。
なまえは玉の輿に乗るのだと心を決めて育ち故郷を去ったのだ。こんな機会を逃すわけには絶対にいかないのだ。
「だから、イルミさんのうちに泊めてほしいの!」
「は!?俺、そういうのはちょっと」
なまえはもっとイルミの手をきつく握った。
「いいえ、私はもう決めたのよ!知ってるの、あなたが私の運命の人で、私の生活をすっかり変えてくれる人だってこと!」
「いや、意味が分からないし」
イルミは握られていた手をぱっと振り払って、もうなまえのことが見えないかのように歩き出した。
しまった、あんな頭のおかしい子相手にするんじゃなかった。よく訓練された心だと自負していたのに。
「あーっ!ちょっと待って!」
後ろから女が早足でこっちに向かってきている気配がした。俺はすぐさま裏道に入る角を曲がって、彼女から逃げることにした。この辺りは入り組んだ作りになっているし、人通りも多い。一本違う道に出るだけで一般人をまくには十分だろう。それが田舎出の女ならなおさらだ。
そういえば泊まるところが無いって言ってたな
ちらとそんな事が頭をよぎったが、やっぱり俺には関係ない。
「ぜったい、イルミさんのこと忘れませんからーー!!ぜったいに逃がしませんからーーー!!!」
彼女が追いつくはずもなく、喚き声だけが後ろから追いかけてきた。その声もすぐに聞こえなくなった。
1人歩きながら、ふっと、笑ったような息が漏れた事にイルミは気づいてはいなかった。