帰らない人


「じゃあ、行ってくる」
 彼がそう言ってこの部屋を出たのは、どのくらい前のことだろうか。いつも通りの表情で(つまり、なにも表されていない表情で)玄関の扉を開けて出て行った。それから、彼からの連絡は途絶えた。

 机の上に放り出されたこの携帯は「アシがつくと面倒だから、この携帯から俺にかけて。それから俺以外の人は登録しないでね」と、彼が私に渡したものだった。その彼専用の携帯はもう何ヶ月と鳴っていない。

 何故、専用の携帯電話が必要なのかというと、それは彼の特殊すぎる職業に原因がある。彼は殺し屋だった。彼の実家はククルーマウンテンという山の中にあり、暗殺一家として有名だ。山一帯が彼らの土地で、観光地となっているほど。彼は幼いころから暗殺のいろはを教わってきたらしく、彼が言うには、こなしてきた依頼に失敗はなかったらしい。今となってはその話が本当かどうか、もう確かめる手段がないのだけれど。

 
 そして、彼が人と違っていたのは、職業だけではなかった。彼はいつでも無表情だった。どんなに嬉しくたって頬は緩まない、どんなに悲しくたって絶対に泣かない。私からすれば哀しい人だった。
 昔、彼に「あなたに喜怒哀楽ってあるの?」と聞いたところ、「さあ、わかんない」と、短い答えが返ってきた。

 もちろん、彼が暗殺業をしてるからと言って、私も同じようなアンダーグラウンドの世界の人間ではない。私は普通の会社に勤めていて、普通に事務をして、普通にお金を稼いでいた。決して裕福な暮らしはできなかったけれど、それなりに満足はしていた。
 殺し屋とOL、そんな私たちが出会ったのは、全くの偶然だった。


******


 その日、私は急いでいた。飲み会が思ったよりも長引いたからだ。終電の時間に間に合うか、間に合わないか。そんな瀬戸際の中、私は普段通らない、駅への近道である暗い路地を通ることを選択した。
 この辺りはあまり良い噂がない。女の人が襲われた、とか、麻薬の売買が常に行われている、とか、とにかく悪い評判しか聞かないような通りだった。そんなところで長居するわけもなく、とにかく早く通りすぎてしまいたかった。

「やっぱり、送ってもらえばよかったかな……」

 細い道を小走りで進みながら、先輩からの誘いを断ったことに少し後悔した。それほど嫌いな先輩というわけではなかったのだが、どこか、下心がありそうだった、というか。

 自意識過剰だと言われればそれでおしまいなんだけど。

 はやくこの暗い路地から抜け出して、駅前の明るい所へ出ようとばかり考えていた、そのときだった。曲がり角で人とぶつかってしまったのだ。
 相手がかなりの速さで走っていたこと、そして圧倒的に相手の方が重かったことなどが災いして、わたしの体はものすごい衝撃を受け、吹っ飛んでしまった。決して、少女漫画にあるような、穏やかなぶつかり方ではなかった。投げ出された体は、至近距離にあった壁に打ち付けられる。後頭部を打ってしまったのだろうか、だんだん意識が遠のいていくのが分かった。

 視界がぼやける。どこか遠くで(もしかしたら、すぐ近くだったかもしれない)男の悲鳴が聞こえたが、そんなことは気にしていられなかった。こんなところで意識を失ってしまったら、どうなるか分かったものじゃない。私、死ぬのかな。精一杯の力を振り絞り、腹ばいになって駅のほうへ向かう。血が、流れ出ていくのが分かった。

「誰か、助けて……」

 ふ、と目の前が真っ暗になり、私の意識はどこかへ飛んでいってしまった。


 次に目が覚めたのは、自分の家でだった。いつもの天井、いつものベット、少し散らかった、私の部屋。

「あっれ……、私。いつ帰ったんだろ」

 飲み屋からの帰路を思い出そうと、額に触れる。すると、覚えの無い何かがあった。不思議に思い、ベット脇に置いてあるチェストの上の鏡を手に取った。
 映ったのは、丁寧に巻かれてある包帯。

 ……昨日の晩、何が起きた?

 終電に間に合わすために、急いで帰って、それで、普段は通らない道を選んでしまって、男の人とぶつかって、浮いて……、それから……。


「一応、手当てはしといたから」

 突然だった、男の人の声が、聞こえた。

「誰っ!!??」

 一人暮らしのこの部屋から、私以外の声があるなんて、おかしい。慌ててベットから飛び起きる。声がした方を確認すれば、そこには髪の長い、綺麗な男の人がいた。

「運が悪い、事故だったね。他人を巻き込むのはあんまり好きじゃないんだけど」

 しれっと、そう言ってのけた彼。

「人に、怪我させといて、その言い方はあんまりじゃないんですか」

 そんな態度の彼に、自然と声は大きくなってしまう。うら若き乙女の部屋に不法侵入したことはそっちのけ、今は無表情で、何の悪びれも無い彼に対して、腹が立って仕方ない。

「でも、手当てはした、しかも無料で。いつもならこんなことしないよ、ただ、なんとなく、そうしただけで」
「なんとなく?」

 意味が分からない、全く。

「もう、良いですから、はやく出て行ってください」

 うん、と彼は短い返事をして、出て行った、窓から。

「ちょっ……!!」

 ここはマンションの4階。ベランダから、飛び降りて無事でいられるような高さじゃない。急いでベランダに駆け寄ってみたが、彼の姿はもうどこにも無く、ただいつもどおりの景色が広がっているだけだった。


 変な人、私が彼に抱いた第一印象だ。私でなくとも、誰もがそう思っただろう。普通じゃないのは、確かだ。ただ、丁寧に巻かれた包帯を見ると、実はそんなに悪い人じゃないのかもしれない、なんて甘い感情が心を過ぎった。 

 それから、一日。彼はまた、私のうちいた。会社から帰ったら、当然のようにソファに座り、コーヒーをすする彼が目に映った。

「ちょっと、何してるんですか!」



 ごく自然に、私からしてみればとっても不自然に、彼と私の関係は出来上がっていった。同居人、それが私たちの関係。彼には大きな実家があるにも関わらず、何故か私の部屋に住み着いた。
 初めは、仕事場に近いから、という理由だった。その意味は分からなかったが、何故か逆らう気にもなれず。というか、彼の真っ黒な瞳が有無を言わせなかった。それが怖い、と感じたのは最初のうちだけだったけれど。私も彼とおなじように「なんとなく」彼をうちに置いておくことにしたのだ。

 気がつけば、私の生活は大きく変わっていた。もちろん、住む人が増えるのだから、生活が変わるのは当たり前だと思う。だけど、私が想像していたよりずっと、大きく変わったのだ。

 初めは、彼はソファ、私はベットで寝た。二人とも違う種類の食器を使った。

 今は違う。同じベットで寝るようになった。おそろいのマグカップを使う。彼と私は生活周期が違うから、出て行くときは、冷蔵庫のホワイトボードに一言書いていくようになった。食事を作るときは、彼の好みも配慮するようになってしまった。


******

 その彼は、今はいないのに。その癖はなかなか直らない。

 ふと、彼はこっちより、こっちのほうが好きだから、今日はこうしよう、と思い、彼がいないことに苦笑する。そんなことがずっと続いている。

 そして、寝るときは、彼が帰ってきたときの為に、一人分余分なスペースを空けて眠りにつく。彼は、夜遅くに帰ってくることが多かったのだ。


「馬鹿みたい」
 二人分のマグカップに、コーヒーを注ぎ、そのことに嘲笑する。どうせ飲みきれず、片方はいつも流しへ捨ててしまうのに。
 分かっていても、止めることはできないのだ。


 彼の仕事上、いつ彼が命を落としてもおかしくない。確かに彼は強いけれど、どうしようもないときはあるかもしれない。

「帰って、きてよ……!」

 一人暮らしの寂しさは、とっくに慣れたはずだったのに。彼と過ごした思い出が、それを邪魔する。未だに残る、彼との日々の断片は、残酷にも彼の存在を思い起こさせるのだ。彼が、心の中でよみがえってしまう。



「ピンポーン」

 家のチャイムが鳴った。彼かも、なんて思うことはない。何故なら彼は律儀にインターホンを押すようなことは一度もしなかったからだ。どうするのかは分からないが、彼はいつも鍵を使わずに家の中へ入ってきた。

「はーい、ちょっと待っててください」

 涙をこすって、とりあえず何事も無かったように振舞おうとするものの、玄関先の鏡に映る私の目は赤く腫れていて、先ほどまで泣いていたことは、誰にでもばれてしまうだろう。
 軽く深呼吸をする。この際、仕方ない、すぐに帰ってもらおう。

「なんでしょう?」

 扉の先には、想像もしていなかった、ある子どもが立っていた。銀髪の、12,3歳くらいの男の子だ。

「ん、何かご用事?」
 男の子に目線を合わせようと、しゃがむ。

「あの、なまえさん?」
「うん、そうだよ」

「俺、キルア=ゾルディックってんだけど、」

 ゾルディック……?彼のファミリーネームだ。どきりと胸が痛む。

「兄貴は、死んだよ」

唐突に告げられたその訃報に、目の前が真っ白になる。彼が、死んだ?

「兄貴、なまえさんのこと気に入ってたみたいだから、知らせとかなきゃって思って……。あと、これ」

 渡されたのは、私の家に置かれている携帯電話と対になっているもの。ところどころに、血が固まって、黒く変色しているのが見える。

「それじゃ、」

 待って、と言う前に、その子はもう居なくなっていた。いつかの、イルミのように。

 
 手に持っている携帯電話で、私に電話してみる。懐かしい、何ヶ月も聞いていなかった着信音が、聞こえた。

何を思ったか、メールボックスを開けば(私はあんまり他人のプライベートに干渉するのは好きではないほうなのだ)いくつかの、未送信メールがあった。



****/**/** **:**
to:なまえ
from:
sub:無題

愛してるよ



 同じ文章、それが一週間に1回ほど。躊躇っていたのだろうか、愛の言葉を送るのを。そういえば、彼は不器用だったなあ、と。
 馬鹿な人だ、本当に。


 彼は、もう居ない。もう、帰ってこない。


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