「ねえ、キスしてもいい?」
ロンドンへ向かうホグワーツ特急。リドルとわたしの二人きりのコンパートメントの中、突然の彼からの要求だった。
外気温との差のために、窓ガラスは結露でびしょ濡れだった。
この冬休みはめずらしく、リドルは孤児院へ帰るらしい。マグルの世界でやりたいことがあるとか、ないとか。
ここ最近の長期休暇は、いつもホグワーツに残っていた。寂しいと思ったことはないと言っていた。彼なりに、ほとんど一人きりの学び舎で、静かすぎる暮らしを存分に楽しんでいるようだった。
一方、わたしはたいてい帰省する。クリスマスは家族と過ごすものだし、学校に残っても仕方ない。一度、リドルが残るなら、と思って帰らなかったこともあったが、母に3日に1回は手紙を出したり、昼過ぎまで寝て過ごしたり、とにかく退屈で死にそうだった。
なにも起きない学校の様子を手紙にしたためるのは、骨が折れる。
リドルだって、常に話し相手になってくれるわけではなかったし。
リドルがホグワーツにいつも残るのは、孤児院へ帰る理由がなかったからだ。リドルにとって孤児院とは、劣等の象徴で、受け入れがたい過去だった。
それが、今年は一緒にホグワーツ特急に乗り込んでいる。
荷物棚にトランクを乗せようしたとき、リドルが、
「貸しなよ」
と、とてもスマートに手伝ってくれた。いつもひとりでよろめきながら持ち上げていることを思い出して、ああほんとうにリドルと一緒に帰るんだな、と思った。
「案外軽いんだね。女の子の荷物って多くて重いものかと思ってた」
「着替え用の服とかはなにも入ってないからね。課題と、この前ホグズミードで買った香水くらい。他のものはだいたいうちにあるし」
「香水?」
リドルが怪訝そうな顔で聞き返してきた。わたしが香水をつけるのはそんなに変なことだろうか。
「うん。小瓶がどうにもかわいくて。思わず買っちゃったの。お花のいい香りで、癒されるのよ」
見てみる?と問いかけてみるも、全く興味がなさそうだった。単に、わたしが香水を付けることに違和感があっただけらしい。
「君も、そんなもの使うようになったんだね」
「身だしなみだもん」
リドルは手持ちのカバンからぶ厚い本を取り出し読み始めると、返事もしなくなってしまった。本のタイトルは『偉大なる魔法使いの系譜となんとか』とかいう聞いたこともないものだった。
こうしてみると、リドルはほんとうに顔が綺麗だ。入学当時から美形だとは思っていたけれど、いつの間にかすらっと背が伸びて、長い手足を余らせている。癖のある黒髪もリドルから生えてるとなんだかかわいいし、セクシーだ。
「ねえリドル、何読んでるの?」
「君には関係ないものだよ」
こちらを見ることなく、返されてしまった。
「ふーん……。リドルはお勉強も抜群にできるうえ、そんな余計な知識まで頭に詰め込めるのね」
ちらっと見たところ、歴史の授業の課題範囲ではなさそうだった。いろんな魔法族の家系図を見て、何が楽しいのかさっぱり理解できない。
「リドルって歴史オタク?」
オタク、という言葉に反応したのか、むっとした顔で睨み返された。
「失礼だな」
「ほんとのことじゃない、たぶん。それ、歴史の本でしょ?あと、褒めたのよ。リトルのこと」
わざと嫌がるようにリドルの頬っぺたをつついてみた。1年生の頃は、このコンパートメントも広く感じたけれど、今じゃ向かい合わせに座ると足先が当たってしまうほどだった。
案の定、わたしの指は冷たく払い除けられてしまった。
「今のが褒め言葉だって?」
「そうよ。学校で習うこと以外も、リドルはたくさん知ってて、スゴいねってこと」
「僕の努力を軽々しく見てる?」
「リドルは努力家さんだもんね」
「僕は努力も惜しまないけど、それ抜きにしても、才能があるんだよ」
確かに、リドルにはいろんな才能があるように見える。もちろん勉強も誰よりもできるけれど、箒に乗るのも上手そうだし、先輩からも好かれてる。女の子からも、人気がある。
リドルは、また本のほうへ視線を落とした。わたしとこれ以上会話を続ける気はないということだろう。
しばらくの沈黙が流れた。
リドルが本を捲る音が聞こえる。彼が防音魔法を室内にかけたおかげで、外からの声や汽車の走る音はほとんど聞こえない。
「隣に、座ってもいい?」
リドルは何も答えなかった。嫌だったら嫌というはずなので、別に嫌だということはないのだろう。
わたしはリドルの横に座り直した。
リドルの匂いがする。どこか懐かしい匂いで、落ち着く。
彼が読む本は、やっぱり小難しい。見慣れない単語ばかり並んでおり、どう生活すればこれに興味を持つに至るのか、まったくわからない。
彼の学校生活が特殊かといわれれば、優秀すぎるがゆえに、いろんな授業でお手本にさせられたり、女の子からきゃあきゃあ騒がれたりすること以外、特別変わってはないと思う。ふつうにルームメイトがいて、ふつうに友達がいて、ふつうに勉強している、はず。
人よりちょっと顔が良くて、人よりちょっと頭がいいだけ。まあ、頭のほうは、ちょっとというより、ずいぶん良さそうだけど。さらに、何をやらせても器用にこなす。たぶん箒も上手に乗るんだろう。
ちらっとリドルのほうを見た。美しい横顔だった。
特にやる事もなく、手持ち無沙汰だと、汽車の絶妙な揺れが、うとうととさせてくる。
「こっちおいでよ」
リドルがわたしの服を引っ張った。肩を貸してくれるみたいだ。
「うん」
少しリドルのほうへ詰めて座って、そのまま、リドルの肩を枕にして目を瞑った。頭に、リドルの頬がひっつく感触がした。
腕を絡めるほど、お互いの気を許してはいなかった。
でも、自分の体がリドルに触れている部分はあたたかく、愛おしさを感じた。今、もう一度目を開ける勇気はなかった。べつに目が合うわけじゃないけど、2人の距離をちゃんと見るのが気恥ずかしかった。
リドルもまた、本を閉じたみたいだった。わたしのほうへ体重を預けるのが分かった。ぎゅっとくっついたんだと思った。
このまま、眠ってしまおうと思った。
「なまえ」
不意にリドルがわたしの名前を呼んだ。優しくて、穏やかな声だった。
「ねえ、キスしてもいい?」
わたしは驚いて、顔をあげた。あんまりにも、わたしを愛おしそうに見つめるから、声を失ってしまった。見たことないリドルの表情だった。
無防備に座席に置いたままにしていたわたしの手に、リドルの手が重なった。彼の指先はひんやり冷たいものだったのに、なぜか熱く感じた。
そのまま手を取られて、ぐっと引っ張られた。おかげで、リドルのほうへ体勢を崩されてしまった。
「ひゃっ……」
あわてて、空いている方の手で、窓に手をついた。側から見たら、わたしがリドルに迫ってるみたいなんじゃないか。頭の中のどこか冷静な部分が、わたしたちのことを俯瞰的に見てそう感じた。
「誰も見てないよ」
わたしの考えを読み取ったかのように、リドルは優しく微笑んだ。わたしもリドルも何も言わなかった。彼の吐息が唇にかかる。
やがて、リドルが目を閉じた。長いまつ毛が震えているようにも、見えた。
わたしも同じように目を瞑った。こうするしかなかったけど、不快だとは思わなかった。お互いの距離が縮まり、静かに唇が触れ合った。
これが、永遠なんじゃないかと思った。
そしてゆっくりと離れた後、わたしとリドルの視線が絡み合う。こんなに幸せなのに、リドルはどこか不安げで、不幸そうだった。
「君のキスの中に、消えてしまいたいよ」
リドルが震える声で、わたしを強く抱きしめた。