いやに騒がしいロンドンの朝。いよいよ新しい年を迎えようと、世間はお祭り騒ぎ、浮かれ放題だった。
パーティ会場からそのまま飛び出してきたかのようなミニドレスを着た若い娘たちは、ストールもボレロも羽織らず、足元のパンプスは雪に埋もれそうになっていた。彼女たちにとっては、この寒さも面白おかしい何からしく、底抜けに明るい笑い声を纏い、家路を急いでいた。
明らかに酔っ払っていて、顔を赤くしながら千鳥足になっている中年男性もひとりだけではなさそうだ。
真冬の厳しい寒さも、この瞬間だけはみんな忘れてしまったかのような光景だった。吹き付ける冬の風さえもが新年を待ちわびていた。
街じゅうの人々が、新しい年を迎えようと浮き足立っていた。
そして、この孤児院もそれは例外ではなかった。クリスマス、新年に向けての飾り付けがそこら中に施されていた。
大晦日。
それはこの孤児院で暮らす、ある子供の誕生日でもあった。
「くだらない……」
この大晦日の日に誕生日を迎えるリドル少年は自室の窓から、街の喧騒を見下ろしていた。たった今、孤児院の前の通りを、酔っ払った若い男2人組が口喧嘩しながら歩き去っていった。ご陽気にも、頭にはお揃いのパーティハットを被っていたものだから、男性の荒っぽい声に迫力はあまりなかった。
今日はわざわざ近所の教会から、布教活動として修道女がやってくるらしい。聖書の朗読やらなんやらをすると、ミス・コールが言っていた。それから、聖歌の歌唱も。
1か月ほど前から、クリスマスやこの日に向けて、孤児院の子供たち全員が聖歌の練習をしていた。ただひとり、リドルを除いて。彼はこの活動をひどく嫌がった。
リドルの信仰心は、自分自身に向けられていた。生まれついての特別な力。他の孤児たちだけでなく、周囲の大人とも異なる、完全な強者で支配者であると信じていた。リドルにとって神は自分自身のようなものだった。
居もしない神に祈るということは、リドルにとってこれ以上ないほどの馬鹿げたことで、屈辱であると感じていた。
リドルのわがままが通用するのは、彼の特殊な能力のせいだ。彼の機嫌を損ねると、不吉なことが起こるというのは、孤児院の中では当たり前のことのように知られていた。このことが院外に出ないのは、職員たちがやっきになって噂の流出を防いでいたからだ。悪魔の子がこの孤児院に住んでいる、こんな話が世間に広まったら、教会からの補助金が下りなくなったり、孤児たちの引き取り手が見つからなくなったり、都合の悪いことが多いと思われた。
しかし、職員たちは、毎年毎年行われる、クリスマスパーティも年越しのパーティも、リドルの誕生日など、まるで存在しないかのように扱った。
そのことにリドルは心を痛めてはいなかった。むしろ、誰にも祝われることがないということが、リドルの中の己の評価をさらに神聖化していた。
孤児院に備え付けられた、古いベルの呼び鈴が鳴った。午前10時だった。
「おはようございます、ミス・コール」
貞淑な声が、孤児院の玄関に響いた。その声の高さから、まだ若い修道女だというのが分かった。
「よくいらっしゃってくださいましたねミス・なまえ。どうぞおあがりくださいませ」
普段は見せないようなにこやかすぎる笑顔がミス・コールの顔に現れていた。
「子供たちに会えるこの日を心待ちにしていました。今日という日をこの場所で過ごせて、私は大変喜ばしく思っていますよ」
そのセリフそのものはは、いかにも余所向けというふうだったが、彼女の口ぶりからは本心のように見えた。また、廊下の向こうにちらりと見えた子供に、愛想よく手を振ったその行動が、なまえの純粋な信仰心と慈悲心を示していた。
既に子供たちは、大晦日のパーティ用として華やかに飾り付けられた広間に集まっていた。リドルもそこに居た。彼は不機嫌であることを隠そうとはしていなかった。
なぜ嫌がるリドルを無理やりにでもそこに呼んだかというと、職員たちは、リドルを隠したまま一連の儀式を行うという不徳な行動をするより、少しでも神聖な言葉にリドルを触れさせたほうがいいと考えたからだ。
たとえ修道女だとしても、神の力を信じていれば、リドルに何かいい影響があるかもしれない。また、あわよくばこの不幸で不気味なリドルを教会側がもらい受けてくれるかもしれないと考えてのことだった。
ミス・コールたちの不安をよそに、式は順序良く執り行われた。式といっても、ただ聖書の言葉を子供たちと一緒に朗読し、いくつか聖歌を歌い、簡単なゲームをみんなで楽しむというもので、厳粛な雰囲気ではなかった。それでも、子供たちは修道女という、神に身をささげた者のそばで過ごすことに、ちょっとした非日常感か、神のありがたみのような何かを感じていた。
リドルが例の力を見せつけなかったのは、ほんの気まぐれであった。
もしかしたら、10代の若い修道女を困らせることに少なからず罪悪感を抱いたからかもしれない。それでも、リドルは行事に積極的に参加することは一切なく、終始腕を組み、しかめっ面だった。
一通りのレクリエーションが終わり、昼食も終えたあと、なまえは食器の片づけを手伝いながら、リドルについて、ミス・コールに尋ねた。
「あの子の名前はなんというのですか?」
「あの子?」
ミス・コールは確認のため聞き返したが、本当は誰のことか気づいていた。
「ええ、あの癖っ毛で黒い髪の、7歳くらいの男の子のことです」
このくらいの背丈の、と手でリドルの身長を示しながら、なまえは答えた。彼女はリドルの不遜な態度をその場で咎めはしなかった。リドルのことが気になったのは、なまえの目に、ただ恵まれない憐れむべき子として映っていたからで、彼が叱責の対象にはなることはなかった。
幼いリドルが抱える、心の仄暗い部分が気がかりだった。
「ああ、トム・リドルといいます。ええ全く、悪い子でしてね。私どもも手に負えなくって」
ミス・コールは、リドルの簡単な身の上話をなまえに話した。臨月の妊婦が孤児院に飛び込んできたあの夜のこと。母親が心から愛していた父親の名をそのまま与えられたこと。今日が誕生日であることも話した。しかし、リドルの身の回りで起きる、薄気味悪い出来事はもちろん黙っていた。
「そりゃあ、可哀想な子ですがね。それでもほかの子供たちとはちっとも交わろうとしませんで。ええ、ええ。いつもああなんですよ。ほんとに困っていてね」
冬の冷たい水道水は、食器を洗うなまえの手を真っ赤にしていた。なまえが食器を洗うと申し出たとき、ミス・コールは断らなかった。
「愛想なんてありゃしないんです、あの子には」
ほとんど愚痴ともいえるミス・コールが語るリドルについての情報を、なまえは黙って聞き続け、ひとこと、「そうですか」と返した。
「案内していただけますか?トムのところへ。おこがましいですが、あの子のお話を聞きたいのです」
「いいですけど……。覚悟してくださいね、あの子は、その、普通じゃないですから」
広間の片づけがある程度終わったあと、ミス・コールはなまえをトムの部屋の前まで連れて行った。階段をのぼるとき、きぃきぃと軋む音が大きく響いた。それだけ、この孤児院が老朽化しているのだろう。
最近のリドルはほとんど部屋の外に出ることがなかった。近くの図書館で借りてきた何冊もの本を、自室で読んで過ごすというのがリドルのいつもの行動だった。
「これが、トムの部屋です。それでは、私はここで」
そう言って、トムの部屋の前になまえを残し階段を下って行った。
なまえはドアを3回ノックしたあと、リドルに扉越しに話しかけた。
「こんにちは。私を部屋へ入れてくださいませんか?」
少し待ったが、部屋の主からの返事はなかった。
「トム、少しお話しがしたいのです」
「トム?」
三度目の呼びかけにして、やっとドアの向こうから返答があった。
「僕には話したいことなんてないよ。だから帰ってよ」
「私はただの修道女です。だから高尚なお説教もできませんし、もちろん洗礼なんてできません。ただ、あなたとお話しがしたいのです。一個人として。どうしても、いけませんか?」
「……すぐ、帰ってよね」
そっと、リドルの部屋の扉が開いた。リドルは扉の陰から、ほとんど睨みつけるようになまえを見上げた。
「こんにちは、トム」
「で、用件はなに?」
リドルの口調はひどくとげとげしかった。誰も信用することができない、周囲に対する敵意をまるで隠す気もないようだった。
「あなたの部屋に入ってもよろしいですか?」
「……どうぞ」
不満げにリドルは返答した。
「今日の催しは楽しかったですか?」
「そんなことが聞きたかったの?あんなの、誕生日のパイ投げ以上にくだらないね」
「そうですか。それは申し訳ありませんでした」
なまえの必要以上にへりくだった態度が、もともと苛立っていたリドルをさらに苛立たせた。大人から丁寧に接せられたことがなかったため、馬鹿にされていると感じたのだ。
「何?僕のことバカにしてるの?いい加減にしてよ」
一方、なまえにはどうしてこんなことを言われるのかわからなかった。彼女にとってはいつも通りの言葉遣いのつもりだった。
「……どうしてそう思うのですか?」
「大人は……、大人はいつも偉そうだ。そんなふうに振る舞う資格なんてないのに。傲慢で、横暴で。最低だ」
リドルは床をじっと見つめていた。なまえの問いに対しての答えにはなっていなかった。これは、彼が日ごろ考えている大人への評価だった。
こんなことが口をついてでたのは、リドルの本心では、なまえが彼のことを馬鹿にしているわけではないと知っていたからかもしれない。
俯きながら切羽詰まったように、大人についてこう語るリドルの様子は、ひどく傷ついて儚げに見え、また、大人からの愛情を受けたことがないようだった。
「神は人々を平等に愛してくださるのですよ、トム」
神、という言葉を聞いたリドルはぴくりと眉を動かした。気に食わない単語だった。彼は少し考えたあと、#七瀬#に向けて意地の悪い質問を投げかけた。
「なまえは?ジョーイと僕、どっちが好き? あいつってばとってもいい子、だったでしょ。仕切りやで、愛想ばっかりふりまいて。かわいいヤツだっただろ?」
「私も、二人共を同じように愛しています」
「ふーん、そうやって僕たちなんてどうでもいいってこと、ごまかすんだ」
リドルの頑なな態度に#七瀬#は困ったように微笑んだ。
「人からの愛というものは……、自分が愛されているということは、なかなか気づけないものですね。ほら、いらっしゃい」
そっぽを向いたリドルがどうにも愛らしく、またその様子に、憐れみを感じたなまえはリドルに向かって両腕を広げた。
リドルは意地でも#七瀬#のほうに振り向かなかった。飛び付くとでも思っているのか。死んだって思い通りになんかなってやらない。リドルは向こうを見たまま、黙り込んでいた。
「まったく、素直じゃないんですから」
なまえはリドルの方へ歩み寄り、そっと抱きしめた。
リドルは、まだなまえの半分ほどの背丈であり年齢だった。リドルなりの背伸びと抵抗を見せる彼は、憎らしいというよりは、ただただ愛おしく、いじらしかった。
生まれてすぐに親を亡くし、ずっとひとりぼっちで暮らしてきた。孤児院でも、リドルが魔法の才能に気づいてからはすっかり腫れもの扱いで、今や彼とまともに会話する人など、誰もいなかった。
なまえの腕にぎゅっと抱かれた時、顔をどちらに向けていいのか、手をどこへやったらいいのか、そういった些細なことが分からなかった。知らなかった。
リドルが困っているのは、腕の中でもぞもぞするリドルの様子から感じ取れた。
「あなたは、愛されているのよ」
なまえはそう言って、リドルの癖のあるつややかな黒髪を、指で梳いた。
「そんなの、分かんないよ」
今にも涙が溢れそうなことを、リドル自身が1番否定していた。嬉しいのか、悲しいのか、悔しいのか。リドルには分からなかった。
人間から発せられる37℃の暖かさに、戸惑っていた。
たぶん、初めての感触だった。
「そうですとも」
なまえはリドルのつむじに、やさしいキスをひとつ落とした。
「トム、お誕生日おめでとう。あなたが生まれたこの日に、神のご加護がありますように。生まれてきてくれて、ありがとう」
リドルはなまえのスカートを、少しだけ握った。
2016.12.31