覚悟はまだいらない
向こうから歩いてくる伊作に気づいたなまえは、持っていた盆を抱え、遠慮がちに小さく手を振った。いつもの営業向けではなく、自然な笑みが思わずこぼれた。
伊作はこのところよく見かける少年だ。
彼の来店に、ただ単に客が来てくれたという喜びではない、より特別なときめきがなまえの胸を踊らせた。
彼との出会いは、同い年くらいの男の子たちに引き連られてやってきたときだった。まだ店を始めたばかりの頃だったので、彼らも新しいお団子屋さんの噂を聞いたのだろう。
なまえは、終始賑やかに騒ぐ彼らを見て、羨ましく思わずにはいられなかった。
幼い頃から働きづめで、歳の近い友達と心から思いきりはしゃいで遊んだ記憶はあまりなかった。なまえの友達と言えそうなのは、店によく顔を出してくれる常連のおじさんやおばさん、あとは残りものを恵まれに来る気まぐれな猫ぐらいだった。
現在はそこそこの歳になって、団子屋の看板娘として働いていた。格別な美人というわけではなかったが、愛嬌のある笑顔と、人当たりの良い性格で、客のウケは悪くはなかった。
「やあ、元気にしてた?」
「こんにちは、伊作さま。おかげさまで。いま、お飲みものをお持ちしますから、こちらでお待ちくださいね」
「それから、団子をひとつちょうだい」
「わかりました」
ぱたぱたと小走りで店の奥へ駆けていったなまえの足音が、心地よく伊作の耳へ届いた。
忍者のたまごといえど、六年生にもなると校外での実習や委員会やらで、それなりに忙しい日々を過ごしていた。頻繁にお団子屋へ通ってる暇などあまりないのだが、それでも伊作は少しの休みが出来ると、一人でこの店へ足を向ける。
団子を食べたいからという理由で通っているわけではなかった。
伊作の同級生たちはこういう伊作の行為を、ほどほどにしておけよ、と嗜める程度で、特に取り沙汰されるでもなく、2人の間柄はいたって平和であった。
伊作は、表に備え付けられた長椅子に座り、向こうにいるなまえの作業をこなす慣れた手つきをぼんやりと眺めた。
しばらく見ないうちに、この仕事が板についたようで、ひとつひとつが精いっぱいだった数ヶ月前に比べて、随分と手際よく作業を進めていた。湯呑みにとくとくとお茶を注ぎながら、他の客と楽しげに談笑する様子は、伊作が初めて訪れた頃には見られなかった。
そんななまえに成長が感じられ、微笑ましい反面、伊作の知らない彼女を見たような気がして、どこか寂しくもあった。
自分がもし、普通の町で暮らすまったく普通の男ならば、彼女のいるこの店に足繁く通い、結婚の申し込みなどしたのだろうか。
そんなふうに、ふと考えてしまうことがしばしばある。
忍の道に生き、より多くの人を助けると心に誓ったのだ。忍者には向いていないと言われようと、この志は変わらない。
三病とはうまく言ったものだ、と伊作は自嘲した。
「はい伊作さま、お茶です」
「ああ、ありがとう。ところで、最近はどうだい?」
なまえが仕事中なのはよく分かっていたが、今ここに居る連中は常連だろうし、仲間内で談笑している。少しの間くらい自分の世間話に付き合ってもらってもいいだろう、となまえを隣に座らせた。店の奥を伺う素振りを見せたものの、嫌がりはしなかった。
長椅子の真ん中に座る伊作に対し、端のほうにちょこんと腰掛けたなまえとの健全すぎる距離は、悪くないが、本当はもどかしいとも思っていた。
「最近ですか……、別に変わったことはありませんよ。いつもと同じです。朝起きて、お店の掃除とか、下ごしらえとかして、お店が終わったら夕飯の用意の手伝いをして、床に就いて、また朝になるんです」
自分の来訪が、なまえにとって「変わったこと」であればいいのに。
「そういう伊作さまはどうですか?」
僕は、つい最近まである城へ実践演習に行ってきたんだ。仲間の1人が軽いケガをしたけれど、タフな奴だし、こういうことを学んでいる者にとっては、どうということもないよ。
なんて馬鹿げた妄想をしてみる。こうやって事実を言ってしまえば、この胸の内を晒してしまえば、すっきりするのかもしれない。そんな考えが伊作の頭をよぎり、ちょっとした自己嫌悪だ。
「僕にも変わったことなんてないよ。いつも通りの仕事をして、たまにここへ来てお団子を食べるんだ。でも、毎日楽しいよ」
伊作の仕事は農業だ、と伝えてあったが、なまえは伊作のプライベートを詳しく聞いてくるようなことはなかった。それほど自分に興味がないのだろうかとも考えたことはあったが、なまえのそういう態度はかえって伊作を安心させた。
「こうして、君と話しているのが1番楽しいよ」
「嬉しいことを言ってくださるんですね。どうせ、言い慣れているんでしょう。伊作さまはきれいなお顔をしてらっしゃる」
もっと初心な反応を期待していたのに、こんな風にあしらわれて、少し残念だった。けれど当然だとも思う。団子屋で働く娘なのだ、こんな言葉をよく受けるのだろう、伊作もただの客の1人だと、そういう反応だった。
「こんな町はずれた団子屋に、伊作さまのような美男子は、ちょっと不釣合いですよ」
なまえはこう言ってから、すぐ後悔した。
営業トークとしてはもちろん、ただの雑談だとしても今の発言は不適切だったと思ったからっだ。
普段からこう思う事はあったけれど、なにも今、言わなくてはいけないことではない。
どうして、こんな可愛げがなくて卑屈で、つまらない事しか言えないのだろう、となまえの笑顔の裏で、自らの発言にダメ出しをしていた。なまえは無意識に膝の上に置いていた盆の端をぐっと握った。
「参ったなあ」
ははは、と伊作付き合いで笑ってくれてはいるが、これは完全に苦笑いだ。こんな会話をしたかったわけじゃないのに。
でも、どうせ伊作とどうにかなるわけではないと、理解しているからあんなことが口をついて出たのかもしれない。
慎重になる必要はない。伊作がなまえのことを気に入るなんてことはない、と思っていた。
本当に不釣り合いだと思うのは、地味な土地柄とではなく、なんの取り柄もないなまえと伊作とのことだったかもしれない。
投げやりななまえ自身の態度に、自分でもほとほと嫌気がさしていた。しかし、どうすることも出来なかった。
伊作の普段の生活を想像してみれば想像してみるほど、自分とは違う人種のように思えてしまう。
農業で生計を立てている、と以前言っていたが、伊作の器用そうな指先や、品の伺える仕草、教養のある話し方、そういったものから、きっとまともな家の生まれか何かだというのが、いやでも分かった。
親の顔も覚えておらず、働き口を探して転々としてきたなまえとは、違うのだ。
誰かにひそかに憧れ、恋心を抱くという、普通の女の子らしいことを経験できたというだけで、なまえには恵まれた幸運なのだと言い聞かせていた。
そして、なまえの想いが報われることがないのは、伊作がこの店に訪れる頻度からも先ほどの軟派な言葉からも、よくわかる。伊作にとってなまえはただの働き娘にすぎず、こうやってたまに覗きに来てくれて、中身のない言葉を交わして、それで十分だった。
「やだ冗談ですよ」
こんなごまかし、無いほうがマシだ、と思っても、もう何をどんなふうに伊作に言葉をかけるのが正解なのか、なまえには分からなくなっていた。
がくん、と不意に視界が揺れた。その直後には、臀部に鈍い痛み。
声も出せないほどの一瞬の混乱のあと、椅子が突然なまえのほうに傾いたのだと気づいた。
椅子の足が折れたのだ。
「わ、なまえちゃん!大丈夫かい?」
「はい、なんとか。ちょっと痛いですけど、あの、大丈夫です。……この長椅子、古くなってたんですかね、申し訳ありません……」
「うわー、きっと僕のせいだよ……。ごめんねなまえちゃん……」
ああーと声にならない声で嘆きながら、伊作は頭を文字通り抱えてうずくまった。
「いいえ、私どもの点検不足ですから、あの、こちらこそごめんなさい」
この大きな物音に驚いた客と店主が集まってきた。伊作は、いつもの不運体質のせいなのだ、と慌てて説明したものの、なまえにも店主にも、いまいち伝わらず、壊れた椅子の修理を手伝い、帰ることしかできなかった。
とぼとぼと歩きはじめた伊作の頭の中は、どうしても不運を呼び寄せてしまう自分には制御不可能な運命を恨む言葉でいっぱいだった。
いつもは同級生がなんとかフォローしてくれるし、下級生に被害が及んだとしても、それはそれで、結果としてはいい経験を積むことに繋がっていた。
しかし、今回はただなまえに怪我を負わせただけだった。さらに悪いことには、相手が女の子で、臀部のけが、しかも公衆の前だっただけに、「手当しようか」とも言い出せず、応急処置のアドバイスを残すことしか伊作には思いつかなかった。
これ以上なく、自分が情けなかった。
急いで追いかけてくる足音が、なまえのものだというのはすぐに判別できた。職業病のせいなのか、彼女をよく観察しているせいなのかは、はっきりとはしないが、とにかく、砂利を蹴るあの草履の音は、確かになまえのものだ。
「伊作さまーっ!」
なまえが息を切らしてこちらに向かってきた。
「どうしたのなまえちゃん? あの、腰は大丈夫?」
「やっと追いついた。ええ、大丈夫です。少し打っただけですから、心配しないでください」
走ったために頬が赤く、胸で息をしながらも、なまえはにっこり笑った。
「えっと、これ、渡そうと思って。次にいついらっしゃるか、分からないし」
なまえが持っていたのは、桃色の髪紐だった。
「あの、これ、お守りなんです。私の。これを付けた日は、いいことがよく起きるんですよ。例えば、えっと、お掃除中に、失くしたと思っていた櫛が出てきたりとか、甘味の新作を試食させてもらえたりとか……。卵が双子だったり。それと、あと、伊作さまが来てくれたりとか。あー、でも、とにかく、この髪紐は縁起物なんです、私にとってですけど。可愛すぎますかね」
そう言っている途中から、もしかして全然いらないものを押し付けに来ただけなんじゃないか、と考えなしに店を飛び出してきたことを後悔しはじめたが、今さら引き返せなかった。
「不幸な伊作さまに、」
どうぞ、と半ば強引に、伊作の手に髪紐を握らせた。
「不運なんでしょう? 私の幸運のおすそわけです」
「あ、ありがとう……」
突然の予想していなかった出来事に、伊作は目を丸くしてその髪紐を受け取った。
「やっぱり、可愛すぎますよね。思いつきも過ぎるというか」
「そっそんなことないよ! すごく嬉しい! すごく嬉しいよ! ありがとうなまえちゃん」
「そう言ってくださると、私も嬉しいです」
仕事があるので、と再び駆け足で店へ戻っていくなまえをしばらく見送った後、伊作は手に握ったままの髪紐を見つめた。
はっきりと色の出た、桃色の髪紐。使い古されているのかもしれないが、そんな風には見えず、大事に扱われてきたことがうかがえるような、鮮やかな桃色だった。先端もきれいに切りそろえられていて、やはり、なまえにとって大切なものだったのだろう。
この髪紐を見ていると、どうしてもなまえのことが思い出されてしまう。
高すぎない澄んだ声。ちょっと不器用に結われた髪とか、足先の小さな爪とか。
なまえのことが好きなんだと思う、と伊作は自己分析していたが、しかし、どうすることもできないというのを十分知っていた。
自分の素性すら伝えられない。なまえが知っているのは、普段は畑を耕して生計を立てている、ちょっと兄弟の多い、ただの伊作だ。苗字だって名乗っていなかった。
それでも、伊作はこの状況に満足していた。
こうやって贈り物まで貰えて、これ以上なにか要求することなどあるだろうか?
一流の忍者を目指して、今は学を修める身なのだ。誰かと契を結ぶようなことはいらない。
忍として死ねるのなら本望。そうだ、特別な人と共に生きるなどという覚悟は、まだいらないのだ。