■ 13. それが、彼の交渉術

 あと10分で家を出なければならない。それなのに、今日着ていく服がまだ決まっていない。いまいち、どれもこれも、しっくりこないのだ。
 そんなときに、リドルがとんでもない要求をしてきた。

「え、何。もう一回言ってみて」
「だから、僕も学校に行ってみたい、って言ったんだよ。まだ寝ぼけてるのかい七瀬?」
「いやいやいや。ありえないでしょ」

 気に入らなかった3枚目のジャケットを脱ぐのを途中で止め、リドルのほうに向きなおった。 

リドルが学校に行きたいですって?

 無意識に思いっきり顔をしかめてしまった。眉間にぎゅっとしわが寄ったのが自分でも感じられた。リドルとゆっくり話してる場合じゃないし、なによりも、右腕にひっかかったジャケットがうっとうしい。
 それなのに、今、リドルと話そうとしている。つまり、よほど衝撃的な告白だったということだ。

「学校って言ったって、リドル、私が通ってるのは語学のクラスだよ?英会話のクラス。リドルが受けたってつまんないよ、意味ないしさ」
「それでも行きたいんだよ。一体、僕がどのくらいこの狭い部屋に閉じ込められてると思う?丸々1か月だよ。もういい加減うんざりなんだ。少し外の空気を吸う権利くらい、僕にだって認められていいはずだ」

 確かに、そう言われると、本当にその通りで、リドルがこの部屋に来てから、彼を外に連れ出したことは今まで一度もなかった。

 何冊かリドルの好きそうな本を買ってきたり借りてきたり、テレビを見せたりはしていたものの、ついにとうとう外出要請が出てしまった。「息が詰まりそうだよ」と、心底嫌な顔をするリドルを見ていると、ちょっと罪悪感のような何かが、私の心をちくちくと刺激してくる。

 一応、リドルも人間みたいなものだから、そりゃこの部屋にずっと閉じ込められっぱなしだと、嫌にもなるかもしれない。さらに、リドルの行動範囲は決まっており、あの日記帳からあまり離れられないらしいし。

 代り映えのしない窓から見えるものといえば、向かいのアパートや、少しの街路樹、そして曇った空ばかりだ。
 あまり考えないようにしてきたけれど、リドルは朝から晩までずっとこの部屋の中だけで過ごしていたのだ。人嫌いの彼が、人だらけのこのアパートで。

「この日記帳を、たった1冊、カバンに忍ばせるだけでいいんだよ。たいしたことじゃない。」
「そうは言っても、」

 問題は、カバンの重量じゃない。リドルが学校についてくるということだ。確かに、現地の学生と同じ授業を受けるクラスもあるけど、だいたいが会話だったり、読解のクラスで、リドルがおもしろいと思うような授業はないと思う。

「それに今日は、薄い教科書ばかりの日だろう?」
「なぜそれを」
「何日君と過ごしてると思ってるんだい」

 この押し問答に、リドルもそろそろ飽きてきたのか、さきほどまで半透明のあの幽霊スタイルだったのに、いつの間にか普通の人みたいな姿に変わっていた。
 彼はお行儀悪く、テーブルに腰かけている。それでも余る長い足が憎らしい。足首を重ねて、右腕だけをテーブルについた。

「でもリドル、ほら、えっと何だっけ、その、マグ……マグル?が嫌いじゃない。マグルだらけよ、きっと」
「最近、ちょっと慣れてきたの」

 少しだけ不機嫌で、少しだけ甘えてくる。なんだか憐憫を感じてしまう。

 知っているのだ。こいつは自分の容姿の良さを完璧に理解していて、それを利用する術も習得済みらしい。自分をどう見せると効果的なのか、それを十分に分かっているのだ。

 そのうえで、私がどんな時に頼みを断れないのか、知っている。理論じゃなくて、少し心に訴えかけるようなこと。いつも生意気言ってるイケメンの彼が、すこし拗ねて見せたりする、そのギャップ。
 そういった、女の子だったら誰でもキュンとしてしまう仕草や、振舞いをリドルは知っているんだ。それを交渉にうまく利用するやり方も。

 なんだかんだ言っても、リドルにちょっと恩を感じていたりする部分もあるし、私は最近そのことを自覚し始めた。こうなったら、リドルを無碍に突っぱねたりできない。

 目の端に、家を出るまであと2分しかないことを告げる時計がちらっと映った。服はまだ決まっていない。なんなら、カバンの用意だってしていない。ああ、もう。


「今日だけだからね」

 この言葉を引き出すための、リドルの画策にまんまとはまってしまった。ああ、自分が情けない。

「頼んだよ」
「うわ、なにその笑顔。気持ち悪いんだけど!」
「失礼だなぁ」

 これはわざとらしい、リドル流お礼用の笑顔だ。
 これを、こうやって彼の笑顔を切り捨てることでなんとか自分の立場を確保しようとしてみるものの、ほとんど意味をなさないことに、私は気づいている。

 それでもこう言っておかないと落ち着かないのだ。

「わからないことがあったら、こっそり教えてあげるかもしれないじゃないか」
「そんなこと言って、私のことバカにする気でしょう。やな人!」

 私がそう責めると、否定もせず、リドルは肩をすくめ、目をそらした。せっかく私がリドルに付き合ってやろうというのに、彼には会話を続ける気はないようだ。やっぱり失礼なやつで、やな人じゃないか。

「そのベージュのジャケット。今日はそれにしなよ」

 リドルは脱ぎ散らかった何枚かの服の下敷きになっているそれをちょいと指差した。


「ほんとに、今日だけよ」
 くぎを刺してみるけれど、たぶん無意味だ。こいつはまたねだりにくる。

「今のところはね」

 日記帳を渡しながら、ふふ、と楽しそうにこぼした笑みは、リドルの本心からか、例の策略なのか。私には判断できなかった。


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