私は集合賃貸住宅、いわゆるアパートに越してきた。独り暮らしで、まだご近所さんとは挨拶程度しか面識がなかった。
そんなある日、チャイムが鳴って私は駆け足で玄関に向かった。サンダルを履いて除き穴を覗くと、何度か見た顔が笑顔でそこに居た。
ドアを開けて笑顔で挨拶をした。

「こんばんは、どうかしましたか」

ドアの向こうにいたのはお隣さんで、何の仕事なのかは知らないがいつも夜になってから出掛けて、朝方に帰って来る二十代のお兄さんだった。
お隣さんは笑顔で私を見た。

「こんばんは、実は夕飯の準備をしていたんだけど、足りなくて」

お隣さんは私に困ったように笑いかけた。これぞお隣どうしのやり取り、夕飯に足りない調味料の貸し借り。可愛い話に私は笑いながら聞いた。

「ああ、私の家に有れば、お貸ししますよ」
「本当に、良かった。絶対に有りますよ」
「何ですか?お砂糖?」

そこでお隣さんは笑顔になって今まで後ろ手に隠していた右手を前に出した。

「あなたの血を少々分けて頂けないでしょうか」

右手には注射器が握られていた。
注射器は封に入ったままの新しい物で、細く、華奢な物だった。
私は笑顔のまま固まって、注射器を見た。

「有れば…頂けるんですよね?」
「いや、え…ちって、血液…」
「はい、血液」
「もらって、どうするんですか」
「飲むんです」

私はお隣さんの顔を見た。お隣さんは徐々に不安そうになっていく顔で私を見下ろしていた。夜なので廊下の蛍光灯が光り、それに照らされたお隣さんの顔は少し青く見えた。

「あ、あなた、まさか…吸血鬼…」

私は今までのお隣さんの夜にしか出掛けない事や、青い顔を見てまさかと思いながらもその予測を口にした。お隣さんは吸血鬼で、私は血を吸われて吸血鬼になるのだ。太陽とはもうお別れなのだ。まさか、本当にこの世に吸血鬼がいたなんで。
ところがお隣さんは私の反応に目を丸くして、急にクスクス笑いだした。

「な、何か、おかしいですか」
「今まで血を分けて欲しいと言って、変質者扱いせずモンスター扱いしたのはあなたが初めてです」
「へ、変質者なんですか!」

私は慌ててドアノブを掴んで閉めようとしたが、お隣さんは足を使ってそれを阻んだ。

「変質者でもないです、信じては貰えないでしょうけど…。自分の血はこれ以上抜けないんです、お願いします、飲めないと仕事に行けないんです、貧血で倒れるわけにもいかなくて」

お隣さんの必死な姿に、私はドアを閉めようとする力を弱めた。

「自分の血…飲んだんですか…」
「これは甘えかもしれないですが、病名が有るんです…気持ち悪いですか」
「はい、だいぶ気持ち悪いです…」
「随分正直ですね、気を使ったりしないんですか」
「でも、病気なんですね?」
「…はい」

お隣さんはそこで眉を寄せて注射器を持っていないほうの手を壁に着き、ふらついた足に代わってバランスを取った。
青い顔は貧血を表していたんだと悟った私は、変質者でないというお隣さんの言葉と無理強いしない姿勢を信用し、一旦家に上げた。

「病名は、ヴァンパイアフィリア。吸血病です」
「ヴァンパイア…やっぱり!」
「やっぱり、の意味はわからないです」
「あ、いいですよ」

私は腕捲りをして自分の腕をお隣さんに差し出した。お隣さんは驚いて突然の私の行動に目を丸くした。

「え…いいんですか?」
「いらないんですか?」

お隣さんはニッコリと笑い、いいえ貰います、と言った。

「飲むとどうなるんですか?」
「…何も起きませんよ、飲みたくて飲みたくて、でも自分のがもう飲めなくて。それで助けを求めに来たのです」
「刺し違えないでくださいね」
「注射は得意です…おかげでね」

お隣さんは封を開けて注射器を取りだし、消毒もせずに私の腕に刺した。
注射器に吸引された血は、静脈血で赤黒かった。

「それをどうやって飲むんですか」

私がそう言い終える前にお隣さんは待ちきれないとばかりに上を向いて注射器のピストンを逆に押して口に流し込んだ。
私は無意識に舌を出して、お隣さんの行動を嫌悪感たっぷりに見た。お隣さんは私が隣にいる事やここが私の家である事をすっかり忘れているかのように安堵の表情を浮かべてソファーにもたれ掛かって深呼吸をした。

「…美味しいですか?」
「はあ…いいえ、かなり気持ち悪い味ですよ」
「えええ…」

じゃあ何で飲むんだか。
そこでお隣さんは私を見た。私がご満足?という呆れ顔に近い笑顔で見返すと、お隣さんは急に私の方に身を乗り出した。
両手首を取られた私は抵抗する間もなく、壁に追い込まれた。
変質者じゃないって言ったじゃーん!と私は心で抗議したが、恐怖から声が出なかった。

「仕事の為に血を飲む事が必須だったんです、飲まないと興奮できないから。でも自分の血じゃ興奮出来なくなって来て…」

どんな仕事してんだよう。離せよう。

「ごめんなさい、変な事はしないから、触らせて下さい、お願い、我慢出来ない」
「い、嫌だ、変な事しないって触ったら…」

お隣さんは私の言う事なんか全く無視をして私の首に口を落とした。お隣さんは首に吸い付き、舐めた。首だけでなく手首や下顎、とにかく口に納めては吸い付き、舐めた。
私の太ももに当たってるお隣さんの息子さんは随分元気になっていたが、お隣さんは本当にそれ以上何もしなかった。
お隣さんは一度私の肩に額を預けて息を吐くと、元気な息子さんをそのままにして私の部屋からいなくなった。
私は電話に駆け寄って受話器を上げたが、110を押そうとして伸ばした手はそれをしなかった。
結局お隣さん、何もしなかったと言えば何もしなかったわけだし、血をあげたのは合意の上だし。通報するのはやめよう。
しばらくしてお隣さんが外出する音が聞こえた。

三日後、お隣さんはまた封のしてある注射器を持って私の家を訪ねて来た。
私はお隣さんを招き入れ、同じように腕を出し血を抜かれ、お隣さんが待ちきれないとばかりに飲む様を舌を出しながら見た。
お隣さんはまた私を見て、私を壁に追いやり、首や手首に唇と舌を這わせた。私が何も言わずに受け入れているとお隣さんも何も言わなかった。
お隣さんの息子さんはまた元気になっていたが、お隣さんはそのまま何も言わずに帰っていった。

私はそれから定期的に鳴るチャイムや、血を抜かれて飲まれる、そのあと身体中にうっ血を残されて行く事を習慣のように思い、慣れて来た。

ある日私は初めてお隣さんの家のチャイムを鳴らした。晩御飯作りの途中に、鍋を見ると無意識に一人分以上ある量を作っていたのを見て、思い付いた事を伝えに来た。

「晩御飯、一緒に食べませんか」
「今日は…大丈夫です」
「いや血じゃなくて。私の主食は血じゃないですから、ヴァンパイアさん」
「メニューにニンニクは入れないで下さいね」

ヴァンパイアジョーク。
お隣さんとクスクス笑いながら私の家に戻った。お隣さんを居間に座らせ、私は晩御飯作りの続きを始めた。
自分の為の食事なら雑になりがちだが、今日は栄養のバランスも考えよう。そもそもお隣さんは栄養偏ってそうだし、足りてなさそう。もりもり食べさせないと。
意気込んでサラダ用のプチトマトを半分にしようとした時、ピチピチなプチトマトの上を包丁が滑り、私は指を切る羽目になった。

「わちゃー」

なんてこった、今は居間にヴァンパイアがいるのに。駄洒落じゃないよ。
私は慌てて水道水で流してお隣さんから隠そうとしたが、私の奇声を聞きつけてお隣さんはすでに隣にいた。

「切っちゃいました」
「…舐めてあげましょうか」

お隣さんはすっかり私の存在を忘れ、私の指から溢れる血を見ていた。私は水道水を止め、指をお隣さんの方に少し向けた。お隣さんは私の手を掴んで指を口に運んだ。
お隣さんが私の肌から直接血を飲むのは初めてだった。飲むというほど血は出ていなかったが、お隣さんは私の指に吸い付いて離れなかった。
お隣さんは、私を見た。その合図を私はもうよくわかっていた。
お隣さんが私を壁に押し迫る事をちゃんとわかっていたし、首や手首にまたいつものように吸い付いた。

「不快だったら…目を瞑って下さい…、今日はこの後行く場所がないから…」

お隣さんは息を上げ、私の首元に顔をうずめたまま、片手で自分の息子さんを触り始めた。私は言われた通り目を瞑って、じっとしていた。
お隣さんは息づかいだけでなく、ところどころで声を漏らしながら私の首や耳たぶにかぶりついた。その声があまりに艶っぽく、官能的だったので誘惑に負けた私は目を開けた。首を横に向けると目を瞑って私の注射痕に唇を着けているお隣さんの横顔が見えた。私は衝動的にその顔を自分の方に向けさせて、お隣さんが目を開けた瞬間にキスをした。さんざん私の肌に触れた唇だったが、私の唇に触れた事はなかった。

「んっ」

お隣さんはキスした口の中で短い声を発して、同時にイッた。私の服を汚した精液の匂いにまとわれながら、私はお隣さんにキスをし直した。
唇を離して止めていた息を吐きながら、私は目を開けてお隣さんの表情を見た。お隣さんは浅く息をしながら艶めいた目で私を見ていた。
私の予想の全く別に、お隣さんはそのまま唇を押さえて、ポタポタと泣いた。私が驚いて放心していると、お隣さんはもう一度私を見て、今度はお隣さんから軽くキスをした。
お隣さんはそのまま私の家を出て行った。自分の部屋に戻る音は聞こえず、外の階段を降りる音が聞こえた。

お隣さんはアパートを出て、二度と帰って来る事はなく、私に二度と血をもらいに来る事もなかった。


隣の吸血鬼



お隣さんは、死んだんじゃないかなっていうのが私の予想です。しかし何も残さなかったので、真相は闇の中です。
私はお隣さん好きです。"私"もお隣さんを結構好きだったんじゃないかなあって、気がします。でももしかしたら、全然好きじゃないかもしれません。

written by ois







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