悋 燧 | 敵総大将の消息は知れず。 その報を告げる兵士はこれで何人目か。 天を焦がす炎の舌を見上げて陸遜は嘆息する。夜闇を赤く染める熱は孫呉の勝利に届いた。だがこの手は自身が求めるものには届かず終わった。 歓喜に沸く我が陣営、其処で一人沈んだ顔を出来る訳がなく、陸遜は部下らを労う為にも笑みを浮かべた。 ざり、と兵士にしては軽くしかし戦い慣れをした摺り足の音を聞いて陸遜は振り返る。 「これは姫様、ご無事で何よりです」 呉妹君、孫家の公主、呉公孫権の妹君。 孫尚香は陸遜に向かって微笑んでみせる。 「残念ね、陸。私知らないの。玄徳様が何処に居るのか、連れて行かれたのか、私は全く知らないの」 陸遜は憐憫の情を尚香から感じ取り、応えるように眼を細めた。 「受け容れて頂けず、取り残されたという……お顔ではありませんね」 孫権はこの戦いに先んじて、尚香に戻って来るようにと書状を出していたはずだ。だが悉くを撥ね退けてこの姫は国よりも伴侶、劉備をとって帰りはしなかった。 政略にしか過ぎない婚姻でも、当人の間には結びついた何かがあったのだろう。 初めて尚香の元へ訪れた時の相手の姿を、陸遜は今でも覚えている。 二人とも背後に蠢く謀略を知らない訳がないだろう。それでもこの邂逅をその為だけのものにしたくないと手を取り微笑み合っていた。 何が、何故かは、判らない。 ただその時より陸遜は忘れられないでいる。 劉備の声音も顔も仕草も纏う空気さえも。 いつかはもっと近くで関わり合う事があるかもしれないと、薄っぺらい希望は劉備と孫権の関係悪化により砕かれた。 亀裂の入った同盟に楔を打ち込み叩き割るためのこの戦いに、陸遜はもしかしたらと期待をかけていた。自分の手足となる忠実な配下や、気心の知れた甘寧や凌統にもそれとなく伝えていた。劉備を見つけられたら殺さずまず捕えろと。 尚香と陸遜が劉備の事で言葉を交わした事はない。にも関わらず尚香の眼は今、陸遜を鋭く射抜いていた。憐みと嘲りの表層の下から煮えるような感情を滲ませている。この眼は陸遜もよく知っている。尚香と劉備が仲睦まじく共に在る様を見る時の己の眼だ。 「知らなければ、教えようがないでしょう? 本当に知らないんだから、利用のしようもないわよね? 私がそれを望んだのよ、陸」 尚香は打って変わって、幸せそうな微笑を浮かべる。目の前に居る陸遜よりも遠くを見ている目が、何を想っているかなど判り切っている。 「馬を。姫を丁重にお連れするように」 気の利く兵がほぼ同時に曳いてきた馬に陸遜は尚香を誘導する。兵の手が支えようとするより早く、尚香は軽やかに馬へ跨り手綱を引いた。まるで長年乗せている主人に対するそれのように、馬は喜び嘶いてみせる。勇ましい武人と引けをとらぬ尚香の凛とした様には、馬も敬意を抱くようだ。 馬首を巡らせる寸前に、先までの微笑を消し去った尚香が陸遜を見下ろした。 「ねぇ陸。私のお腹にあの人の子がいたら、殺していた?」 「とんでもない。大切にお迎えいたしますよ」 にこりと笑う陸遜に、尚香はそうね、と頷いた。 「私の腹を裂いてでも、取り出したでしょうね。だから私はあの人の傍を離れてあの人を守ろうと思ったのよ」 それ以上の問答は交わされず、陸遜は尚香が馬を進めるのを見送った。意識せず、苦笑が漏れる。 尚香が戻って来るのは予想外だった。 あの気性の剛い姫君は、自分が選んだ相手に添って最期まで戦い抜くとばかり思っていた。 その知恵は劉備軍の誰に吹き込まれたか、それとも尚香自身の成長の結果か、いずれにしても賢しい手段を覚えてくれたものだ。 だが些末な抵抗に変わりはない。 ここで手に入れられなければ、別な手段を講じるだけだ。 欲しいものがなくなってしまった廃墟に興味はない。 陸遜は燃え盛る敵陣をもう一度見やって、静かに踵を返した。 |