自覚




 一生のうち、居た堪れない思いをすることは一体何回あるのだろう。
例えば、電車の中でマナーモードにし忘れていたスマホの着信音が鳴り響いてしまい、周りから白い眼を向けられたとき、授業中に睡魔に襲われてがくりと首が傾いたことを先生に指摘された時など。そう、不特定多数の人の中で自分がそぐわないことをしてしまった時に羞恥心に駆られてそんな気持ちになるのだと思う。けれど私の今の状況はそれとはどれとも異なっている。今、私はある一人の男子に対し大変申し訳なく、そしてこの上なく居たたまれない気持ちでいっぱいだ。
 それでは私の今の状況を説明しよう。信じられないことに、私、苗字名前は目の前の背中の主、クラスメイトの西谷君に絶賛おんぶをしてもらっている最中なのだ。ひたすら無言で西谷君にしがみついている私。事の発端は体育の授業まで遡るのだが。といっても時間的に見れば数十分と経たない少し前の出来事なのだけれど、どうしてこんなことになってしまったのか。


 年が明け、一年の中で一番寒いのではなかろうかこの時期。ご存じだろうか。我が校で毎年恒例行事として開催される持久走大会のことを。開催日まであと二週間に迫ろうとしている頃、専ら体育の授業は持久走、持久走、持久走である。冬は晴天が多く、からりと乾いているから、校庭の固い地面も走ってくれとばかりに主張をしてきているように感じてしまう。教室で体育の授業一つ前の数学が終わるチャイムの音に耳を傾けながら、私はぼんやりとそのグラウンドを眺めていた。

「嫌だなあ」

ぽつりと口から零れ出た言葉は誰の耳にも届いていないと思う。何を隠そう私は持久走が大嫌いだ。運動は決して嫌いなほうではないはずなのに、どうにも自分には短距離走というもののほうが合うらしく、長距離を長時間かけて走らなければならない持久走には体が言うことを聞こうとしない。更衣室で、寒い寒いと友人たちと悪態をつきながら体操着に着替え、昇降口で靴に履き替える間も、私は何とかして授業をサボることはできないものかと思考を巡らせていた。

「あ、きたきた男子たち」

 ジャージを着ていてもまだ体操すらしていない体では身震いするほど寒い。両腕で自分の体を包み込むように暖を取っていた時、近くにいたクラスメイトの女子たちがグラウンドに男子たちが集まって来たことを嬉々として告げた。通常体育の授業は男女別に行われることが多いのだが、夏の水泳とこの持久走に関しては実施場所がどうしても限られるため合同の授業となる。高校生といっても年頃だ。異性と汗水垂らしながら運動を一緒に行うことは少し照れくさいものがある。その中に気になる異性がいたら尚更。かくいう私もその中の一人、実は最近少しだけ気になる人がいる。まだはっきりとした気持ちではないし、恥ずかしくて友人の誰にも言ったことはないのだけれど。近づいてくる男子の集団の中から目当ての人物を捉えることができたのに、自分の体が得体のしれない熱を持ったのが理解できなくて、ふいと反対側に視線を逸らして気づかないふりをした。
 体操を終え、軽い準備運動の為まずはグラウンドの内周を走り出す。はっはっと少しずつ息が切れてきたというのに、未だ手足の先が温まらなくてぎこちない走り方になるから嫌になる。あの時、もう少し思い切り足を前に蹴り出して大股に走った方が体全体が温まるのかもしれない、などと馴れない動作をしたのが悪かったのだと思う。私の体は突然脳から発した右足への信号に対処できずバランスを崩してしまった。
 「あっ」と思った時には遅く、変な方向に足をついて転んでしまったと気付いたのは既に体全体が地面と接した数秒後、ビリビリとした痛みが体内に迸った時だった。直ぐに立たなくてはと思うものの、どうにもこうにもうまくいかない。これは明らかに足をくじいたとかいうやつだ。どうやら、持久走をやりたくいという気持ちが変なふうに神様に届いてしまったようだ。冷静になろう、まずは人を呼んで、と少しパニックになりそうな頭で自分なりになんとかしようと考えていた時、

「立てるか」
後ろからかけられた声に肩が震えた。
「大丈夫。でもうまく立てなくて」
「くじいた足に体重かけちゃ立てないだろ」
「あ、それはそうだね。えっと」
「ほら」

パニックで思考と動作が間々ならない私に声掛けしてくれて安心させてくれたのは、どうやら私のすぐ近くを走っていた男子だったようで、私に手を差し出してくれた。ありがたい、一体誰なのだろうかと、ゆっくりとした動作で顔を上げて私の思考は完全に停止した。彼は西谷夕君、いわゆる私の気になるその人だったのだから。
 今まで大して会話という会話をしたことがない彼が私の目の前にいて、しかも覗き込むようにして手を差し出してくれている現実が直視できない。そうこうしているうちに、先生が駆け寄ってきてくれた。他にも騒動に気づいたクラスメイトたち。何があったのかとこちらへ向かって来るのが視界に入る。私はなんだか気まずくなって伸ばしかけた手をひゅんと引っ込めてしまう。ごめん、西谷君。

「苗字、どうした」
「あ、先生。俺ちょうど苗字さんの後ろ走っていたんだけど、苗字さん、足がもつれて転んで右足を挫いたみたいだ」
「そうか、じゃあ保健室に」
「俺、一緒に行ってきます。本当に俺のちょうど目の前で、もしかして俺のせいかもしれないし」
「そんな、あの私」
「頼めるか。すまんな。じゃあ西谷、苗字を保健室へ頼む」

私の口が言い出す前にトントン拍子に話が決まっていく。これだけは断言ができる。絶対に西谷君のせいではない。というか西谷君は今私を保健室へ連れて行くと言ったか、確かに言った。どういうことだ、こんなことってあるのだろうか。今年同じクラスになって気になっている人に理由は何であれ接近をしてもらい、一緒に保健室に。足の痛みも何処へ、今度は別の思考でいっぱいになってしまった。

「苗字さん大丈夫か」
「だ、大丈夫。ほらこっちに重心かけてっと、よし立てた」
「おっ。自分で立てたのか。じゃ、乗っかって」
「乗っかるって」
「その足じゃうまく歩けないだろ。おぶっていくから」
「えっ」
「おーい西谷、ひょっとして苗字さん、お前が小せえから背負えるかどうか心配してんじゃね。びっくりしてるぞ」
「うるせえなお前ら、俺は背が小さくたって背中は広い男なんだ」

一人で立ち上がることができた私の目の前には、しゃがんで背を向けてくれている西谷君。躊躇いがちにも、今時漫画じゃなくても、おんぶをして連れて行ってくれるような人っているもんなのだなあと一歩引いて冷静になった。普段はムードメーカーのような存在で男子の中でおちゃらけているイメージの強い彼だけれど、行事の時なんかは場を盛り上げつつ皆を引っ張ってくれる頼れる存在なのだ。囃し立ててくる周りの男子たち、好奇心ありありの視線を送ってくる女子たちに少しムッとしながら西谷君の背中を見つめる。うん、大きくて広い背中だ。私はその背中にそろりと近づいて西谷君の背中に背負われた。

「重いけどごめん」
「おう。任せとけ」


 こうして、西谷君に背負われて保健室へ無事にたどり着き、めでたしめでたしとなればよかったのだろう。だけど、ここで冒頭へ戻るである。グラウンドから歩みを進め、距離にして十メートルほどだろうか。たったそれだけ進んだだけだというのに、私には大きな後悔と西谷君への申し訳なさ、居た堪れなさの気持ちの波が押し寄せている真っ最中だ。
 なぜならば、私たちの間にずっと沈黙が続いているからだ。本当は嫌だったのではなかろうか。私が彼の目の前で転んでしまったばかりに、変な責任感を押し付けてしまったような気がしてならない。しかもあろうことか、私はこんな機会またとないチャンスだと、この広い背中に吸い寄せられるようにおんぶされてしまった。そのくらい安易な気持ちだったのだ。このくらいの足、引きずっていけばきっとどうってことはないはずなのに、好意に甘えてしまった。「期待してたんでしょ」と友人に言われたら言い返せる自信は全くない。そしてそれが凶と出て最悪な展開になろうとしている。いや、現になってしまっている。こんな居た堪れない思いをするくらいならいっそ……。
 ちらっと後ろを振り返ると、クラスメイト達がまだこちらを見てはやし立てているのが視界に入ってしまい恥ずかしい。「ほら、お前たちは早く走れ」先生が促している声が聞こえるが、どうしてもそれらの視線がじろじろと私たちを見ているのを感じる。これが更に私の気持ちの波へ拍車をかけてくる。
 私は、おぶわれている西谷くんの肩に、ぐっとできるだけ顔を押し付けて、私はできるだけ縮こまるふりをした。隠れられるわけがないのに、藁にもすがりたい思いだからどうか分かってもらいたい。こうすれば皆の視界も気にならないようになるかもしれないではないか。すると、

「うおっ」

私の動作で西谷君の体全体がびくりと跳ねたのが伝わった。そりゃそうだ、今私と西谷君はくっついているのだから少しの振動もお互いに共有せざるを得ない。しまった、大人しく背負われていればいいものを。変に思われただろうか。

「西谷君、やっぱり重いでしょ。こんなつもりじゃなかったんだけど、皆にもからかわれて嫌な気分にさせて。本当にごめん。私びっこ引けば歩けるからさ、降ろして」
「いや、なんでもないから。急に動くなって、しっかり掴まってろよ。保健室一階だしもうすぐだから」
「う、うん」
「それに、こ、こ困った時はその、お互い様だ。気にすんなって」
「ありがと」

もごもごと背中越しに喋ったから、西谷君が再び肩をびくりと震わせた。私が動いたせいで更に西谷君に迷惑をかける羽目になってしまった。
 すると、一度歩みが止まり、よっこいしょと私は持ち直された。お尻を支える腕の力がぎゅっと更に込められたのがわかる。少し動揺して上ずったような声をあげた西谷君を思うに、どうやら彼も少しは周りの様子を気にしていたのだと悟った。西谷君は今、自分を保健室へ連れて行かなければならない使命感に追われているのだろう。やっぱり優しい人だ。周りからどう思われたとしても、それを顧みることなく、ただのクラスメイトである私に接してくれる。それが何故だか凄く嬉しい。
 自分の全体重を預けている身で、何を考えるのだと思われるかもしれない。そんなつもりはない彼に対して大変おこがましい。けれど私は、今はっきりと自覚した。西谷君のことを自分がどういう対象で見てしまっているのかを。この状況で今更なのに、顔が火を噴くのではないかってくらい真っ赤に染まっていることが分かる。かっかとしている頬が寒空の空気に触れるも尚熱い。でもつまりそういうことなのだ。よかった、この顔を西谷君に見られなくて。
 保健室へ向かうまでの残り少ない時間、居た堪れない思いは消えないし、思考回路は未だ色んな感情でいっぱいだ。けれど、知ってしまったばかりのこの気持ちは多分ずっと消えないだろう。保健室へ着いたら、改めてきちんと顔を見てお礼を述べられますように。彼の背中に顔をくっつけたまま、心の中で何度も西谷君に伝える言葉を練習した。


ー自覚ー
お世話になっているフォロワーさんのお誕生日記念に書かせていただきました




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