本日、ラベンダー気分也



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※社会人設定、及川視点です
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3月半ば、ようやく春の兆しが見え隠れして少し気温が暖かくなってきたかという頃。だけれど早朝のこの時間はまだひんやりとした空気を纏っている。通勤に向かう為、駅に向けて足早に歩く途中、ひゅうと吹いた風の冷たさから逃れるために徐に両手をトレンチコートのポケットへ突っ込んでみる。

すると、タイミングがよかったのか。ポケットに入れた右側の手がぶるりと震え振動を感知する。今しがた突っ込んだばかりの手をスマホとともに引き上げ、メッセージアプリを開きトークを確認すること数秒。俺は画面に表示された文字を見つめながら、声に出さない程度の小さなため息をついてしまった。

(まただ)

別に何てことはない。日常のやり取りの途中に打たれたメッセージだと思う。それなのにどうしてこんなにもモヤモヤとした気分になってしまうのだろう。

思考停止数秒の後。そうだ、こんなことを考えている場合ではない。画面が開きっぱなしのスマホを少々乱雑にポケットに納め直したことを自身の気持ちの切り替え代わりにしてみよう。よし。そう己にいい聞かせ、すっかり歩みを緩めてしまっていた歩調を再度足早に切り替えずんずんと最寄り駅を目指す。


『おはよう』
『今日は仕事終わりに美容院へ行ってくるよ』


何てことはない。ほら、第三者の客観的立場からしたら、朝の挨拶に加え、今日の予定を伝える簡素な伝言。絵文字も何も含まない。俺の彼女である苗字名前からのメッセージであることに違いないのだから。

会社に到着して自席に着くと、俺はもう一度スマホを取り出しトーク画面を見てみる。何度見たって画面に映し出される内容は同じなことは理解しているつもり。それでも、次に見た時は違った見方ができるのではないかと期待していた気持ちもなかったわけではない。だのに、通勤途中に感じた、呆れ、ため息を盛大に声に出したくなるもやもやとした感情、それは変わらない。


『おはよう名前』
『あれ、この前切ったのいつだったっけ、ちょっと切るスパン早いんじゃない?』
『それとも今日はカラーでもするのかな』
『終わったら、名前の写真待ってるから』
『沢山送って』


当たり障りのないメッセージを手短に打ち返し、任務完了とばかりにスマホを机の端に放置する。今日は朝一でメーカー会社との打ち合わせに午後は各営業所とのウェブ会議も入っている。その前にメールチェックをしておかなければとPCの画面と向き合う。


夕刻。結局モヤモヤしたまま仕事を終えて、スマホを確認するも『退勤!行ってきます』の一文しか入っていなくてまた不貞腐れる。何故こんなにもモヤモヤとした感情になってしまうのか、自分が女々しくてダサくてとてもじゃないけれど、誰にも相談できっこない。いい年こいて何抜かしてんだって岩ちゃんにドつかれるのもちょっとだけ、ほんのちょっとだけ目に浮かんだ。


ああ、もうこんな日は。珍しく他部署の同期の奴に飯でもいかないかと声をかけてみようか、なんて気になってきた。どうせ断られるだろうなあ。あいつ、嫁さんを貰ってから本当に付き合い悪くなったし。などという今から声掛けをする予定の相手を頭に浮かべながら、とりとめもない妄想をしつつ社内の廊下を歩くしかなかった。


「なんだよ及川、ひょっとして飯の誘いじゃあないだろうな」
「鈴木残念。そのまさかなんだけどさ、っ」


ぶるり。

予定通りといったところか、同期の鈴木をやっと捕まえたところ、タイミング震えた振動が誰からの連絡なのか察しがついてしまって。反射よく手に握っていたスマホに目を向け、『名前さんが写真を送信しました』の通知にタップ。次いで現れた画面から俺は目が話せられなくなってしまう。
だって、それはあまりにも。


「ほんっと、なんなんだよ……」


つい声を出して表に零れてしまった言葉は本心だ。


「おーい及川、なんなんだよはこっちの台詞だろ、お前マジ何しに来たわけ、用がないのなら」
「ごめん鈴木、俺ちょっと用が出来た」
「はあ。だから何なんだよ!」


自分を呼び出した挙句、用が出来たと言って立ち去った背中に馬頭を浴びせながら、いよいよもって訳が分からない行動をしている及川を不思議な面持ちで見つめる同期の鈴木なのである。


「なんだか狐につままれた気分ってやつだな」


酷く動揺した面持ちだった及川には聞こえる由もない。


画面をみて正直ドキリとした。綺麗にセットしてもらった直後の、少し緊張したような顔を浮かべながら撮ってくれた名前の自撮り写真が凄く可愛い。自身の頬から耳にかけての辺りが熱を持っているのが分かったし、それを鈴木に見られて悟られるのも癪だったからつい飛び出来てしまった。まあよしとするか。それよりもなによりもこの写真である。


朝からはじまり続いているこの心のモヤモヤが爆発寸前だ。俺はエレベーターで一気に地上まで降り会社を飛び出すと、通話ボタンをタップする。もはや本人に直接言うしかあるまい。


「名前」
「ん。どうしたの徹、私今家に着いたとこだよ。徹は?もう退勤したの。何かあった?」


はああ。やはり何も気づいてない。いや、悟られないように俺が今までそうしてきたのだけれども。同時に何の気なしに話を続ける名前にプツンと線が切れてしまった。


「ほんとに分かってんの、いいや名前は分かってないね」
「ちょ、なんで開口一番から機嫌悪いの」
「なんでって……はあ、本当に分かんないわけ」


ちょっとぐらい俺の気持ちくらい察してもらいたい。ほら良く言うではないか、女は気持ちを悟ってもらいたいって。いや、俺は男か。けれど、本当に好きな女を前にした男って案外こんなもんなのかもしれないと思ったりもする。現にこの俺がそうなのだから。

心の中で自分自身に突っ込みを入れながら少し冷静さを取り戻せた気がして、耳をスマホに押し付ける。通話中に発生しているこの「間」。互いに無音であるこの電波を通した繋がりに、ワケが分からないとでも言い出したい表情をした名前の顔が容易に想像できてしまって余計に感情が高ぶってくる。


「そりゃ悪くもなるでしょ、また髪切り行くし、しかも突然朝報告してくるし」
「え。ただの美容院じゃん。そんな前もって言っておくべきだったの。でもいつも勝手に行ったりはしてないよ」
「別にいいんだよ、驚かせたくてサプラ〜イズ!的なことしたって、俺そういうの嫌いじゃないし。うん、だけどさ名前、どうしてよりによって毎度次に会うまで日数があるタイミングで髪切りに行っちゃうのかな」
「は、何言って……」


ちょっと責めて困らせてやろうかなどという加虐心が沸き出すと止まらない。俺は更に電話口で困惑しているであろう名前に向かって本日分のモヤモヤをぶつける。


「お前の中にはさ、美容院行って綺麗にして直ぐ一番に好きな人に見てもらいたいだとか、会う前におめかしする為に美容院へ行くだとかいう思考回路は持ち合わせてないの?」
「だから何を言って」
「ただでさえ、お互いの仕事の休みが合わなくて思うように長く一緒に居れる時がないってのにさ、俺が知らない間に名前が綺麗になって、その姿を他人に先に見られるのってすっごく嫌なんだよね」


名前は世間一般でいうところのお洒落に敏感なほうだ。会う度に、あれそんな服持っていたっけと考えるくらい服が違うし、バッグや小物にまで気を遣っているのがよく分かる。けれど、不安も大きいのだ。新しい何かで着飾る名前は、果たして一体俺のことを少しでも考えながら、それらをしてくれているのだろうかなどという女々しい女々しい不安な気持ちが。

言ってしまった。できれば言わずに心内で抑えていようと思っていたことなのに。遂に自分の心の奥底にあったモヤモヤの感情を相手にぶちまけてしまったのだという恐れと羞恥心が盛大に振りかぶってきて言葉がでてこない。
2人の間にまたまた間があくこと何秒だろうか。はあ、というため息とともに今度は名前が言い返す。


「はあ、もう全く全く全く!お子ちゃまだなあ徹は。いつも一番に写メ送って見せてるじゃん。何に対して嫉妬してんの、みっともない」
「う……」
「それに美容院なんてね、3か月に一回くらいは行ってるんだから、珍しいことじゃないじゃない。言っておきますけどね、徹とのデートの前に私がどれだけ家中の服を引っ張り出してああでもない、こうでもないしてるの分かってんの?化粧だって普段より何倍も時間かけているし、髪だってきちんと巻いてセットしてるんだから」
「え」
「分かればいいのよ、分かれば。私だって。ちゃ、ちゃんと好きな人の前では綺麗でいたいって、その、思ってるんだから」
「あのさ、それ」
「何よ」
「名前って俺のことそんなに大好きだったの。自惚れてもいい?って、えー。ヤバいねヤバいよこれは。ねえ、名前、ビデオ通話に切り替えて」
「うるさい却下」
「なんでだよ、名前のケチ」
「ケチで結構。あー、もう急に電話かけてくるからびっくりしたよ。こんなくっだらないこと話すんだったら切るからね」
「え、ちょ」


ツーツー。

引き留めようと慌てたところで通話は終了。なんだか名前に呆れられたようなしこりが残る。ぶつけてしまったモヤモヤも消化不良のような……。ちゃんと分かってもらえただろうか。

ぶるり。

手に握ったままだったスマホに送られてきたのはまた画像で。表示された画面いっぱい笑顔の自撮りを送ってくる名前をみて、今度はあたたかい気持ちになれた。




ー本日、ラベンダー気分也ー
軽くあしらわれましたとさ、ちゃんちゃん。他人からしたらどうでもいいような嫉妬をしてしまう及川さんを書いてみたくて。
うじうじ、くよくよな及川さんがお嫌いな方につきましては土下座で謝罪致します。





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