「なあ、木暮みてねえ?」 その声に振り向くと、そこにいたのは同じ学年の三井くんだった。元不良で、元ロン毛で、現バスケ部唯一の3年生である彼。 とても熱心に勉強しそうには見えない三井くんが図書館にいるのがとてもミスマッチに感じて、イメージ的にこの場所に現れるはずがない彼の姿に私は一瞬返事をするのが遅れてしまった。んだよ、と訝し気な表情の彼にはっとして、私は首を横に振った。 「みてないけど…ていうか三井くん、これ以上ないってぐらいに図書館という場所が似合わないね」 「オレだってこんなとこにゃあ用ねーよ」 図書館によくいるっつーから来てみたのにな、とぼやく三井くんは眉根を寄せながら頭をがしがしとかいている。そんな彼が手に持っているのは現代文の教科書だ。ああ、と私はそこで把握した。 そういえば今日のお昼休み、ポケットに両手を突っ込みながらうちのクラスに入って来た三井くんは木暮くんになにやら物を借りに来ていた様子だった。おそらくその時に借りた教科書を返しに来たのだろう。 またおまえは忘れ物か、と傍にいた赤木くんにお小言を言われた三井くんはチッと小さく舌打ちをして、その様子をぼんやり眺めていた私に気が付くと「よう」なんて軽く手をあげて声を掛けてきた。 ていうか、教科書返したいなら机の上にでも置いておいたっていいのに。そういうところは意外と律儀というかちゃんとしているんだなあと思う。 どーすっかな、とかいいながら三井くんは私の前の席に座る。 「えっ、なんで座るの」 思わずそう口にすると、三井くんは一瞬目を見開いてから不機嫌そうにその目を細めた。 「部活始まるまで時間あんだよ、オレがいちゃわりーのかよ」 「いや…でも私勉強してるし、そしてみられてると気が散るし」 別に見ちゃいねーよ、なんていう彼。目の前に座られてそんなこと言われましても、という言葉をぐっと飲みこんで、私は半ば無理矢理に参考書へ視線を戻す。 夏が過ぎ、秋がきて、ついこのあいだ高校最後の行事である文化祭が終わった。残すのはもう卒業式のみ。受験勉強真っただ中の私と同級生たち。三井くんと同じバスケ部だった赤木くんや木暮くんもそうだ。 「三井くんはスポーツ推薦狙いだもんね」 「まだもらってねーけどな。ぜってー取る」 その自信少し私にわけちゃくれませんかね、とぼやきながらノートに再び目を落とす。 何を考えているのか、そしてどのような意図でそこに居座っているのか全くわからない三井くんは、頬杖をつきながらぼんやりと図書館を見回して「意外と人もいるんだな」と独り言を漏らしている。 図書館には私と同じく勉強をしている生徒がちらほらといるが、今日は少ないほうだと思う。 「苗字さあ」 「うん」 「進学してやりてーことあんの?」 「うーん、まあ漠然と」 「へえ」 果たしてこの会話に意味があったのか、そんなことを聞いてどうしたいのか。自分から聞いてきたくせに興味なさそうな彼の相槌に少しだけイラつきながら、もうその存在を無視して勉強に戻ることにした。 いない、いないいない。目の前に三井くんなど座っていない。そう頭の中で念じながら私はひとつ息を吐く。くそう、みればみるほど男前でちょっとだけむかつく。 「あのよー」 「はい、まだ何か?」 「苗字、好きなヤツとかいんの?」 は?と頭の中に浮かんだのと同時に口からも飛び出していた。目の前にいるこの三井寿という男はいま何といったのだろう。聞き間違いじゃないだろうか、だってそんな話の流れなんかじゃ全然なかったはずなのに。 木暮か?いや、もしかして赤木っつーことも…あんのか?とかなんとか勝手に言っている三井くん。ちょっと待って、落ち着いて。そもそも二人の事をそういう対象として見ていないし、仲のいいクラスメイトだし、っていうかとにかく違う! 「ちがうよ!っていうかどうしてその二人の名前がでてくるの!」 「……おい、ちゃんとオレの目見て言えよ」 「ち!が!い!ます!っていってるじゃん!もう、邪魔するなら出てってー!」 図書館では静かにしてください!と図書委員に注意を受けて、私は慌ててすみませんと頭を下げる。三井くんはというと「なんだよこまけーな」と低い声で呟いた。注意されたのは8割ぐらい三井くんのせいなのに。それなのに目の前のこの男の態度。いっそ気持ちがいいぐらいに堂々としている。 「冬の選抜観にこいよ」 「……時間、あればね」 参考書のページをめくりながら短く答える。勉強なんて全然していないのにヘトヘトになってしまった。 集中力よ戻って来いと念じながら視線を下に落とす私の視界に、すっと三井くんの指先が入ってきて、とんとんと2度私のノートの端を叩く。 ん?と思って視線を彼に戻すと、頬杖を突いたままの彼がまっすぐに私のことを見据えていた。不覚にもちょっとだけどきどきしてしまうぐらい真面目な表情に恥ずかしくなった私はその視線から逃れるように目を泳がせて「なに」と簡潔に、そして小さく返す。 「その試合でウチが勝ったらよ、付き合おうぜオレたち」 私は目をぱちくりとさせながら目の前にいる三井寿の顔をまじまじと見る。 数学の参考書に載っている難解な応用問題より、現代文の引っ掛かりやすい抜き出し問題なんかよりも理解ができない。脳みそが急に処理することをあきらめてしまったかのように動かなくなって、私は握っていたシャープペンをノートに上にぼとりと落とす。 「ちょっと、あの、ええと」 私は左手を額にあてて目を伏せる。ちょっと待ってと繰り返しながら、必死にこの状況を整理して理解しようと試みる。 ていうか、そもそも試合を観にいくなんて言ってないし、勝手にこの人が言ってるだけだし、塾の集中授業とか模試とかと日程が被るかもしれないし。 だいたい、三井くんが今の言葉を本気で言ったのかだってわからない。そうだ、たぶん本気じゃない。だって私に対してそんなことを、そんな言葉をこの男が発するはずないんだ。私の事をそんな風に思っているはずがないし、ちょっとからかってやろうとか、きっとそんな感じだったんだ。見事に踊らされてしまって悔しいったらない。 私のそんな心の中の押し問答が一瞬にして消え去ってしまったのは、額にあてた手はそのままに、すっと視線を上げて盗み見た彼が見たこともない表情をしていたからだ。 いつもの自信と傲然の入れ混じった得意げな表情ではない。ぎゅっと一文字に結ばれた口。そして、短い髪の毛のせいで丸出しの耳が真っ赤だった。ああ、見なければよかった。だってなぜって、その表情で彼の発した言葉が本気なんだってことがわかってしまったからだ。 冗談やめてよ、って返してやるつもりだったのに。それなのに、私の口はなぜか「まけたらどうすんの」なんて意味のわからない言葉を発していた。 「関係ねえ、まけねーからいってんだ」 ムスッとした表情でいう三井くん。そんな威圧感たっぷりに眉間に皺寄せてたって、真っ赤な耳が残念です。そしてすごんでみたってぜんぜんこわくないです。頼むからそんな表情で私のことをみないでほしい。だって、それがこっちにまで伝染してきたらたまらないからだ。 「……もしかして、オレのこと好きだったりすんのか?」 顔真っ赤だぜ、という三井くんの声が耳に届く。 お願いだからもうそれ以上言わないでほしい、っていうか何も言わないでください。 頷くことも首を横に振ることもできなくなってしまった私は両手で顔を覆う。三井くんの顔を見ることもできないし、真っ赤になっているらしい自分の顔をこれ以上彼の眼前に晒していることに耐えられない。 「そういうわけで、言ったからなオレは!ぜってえ来いよ!」 そう言って立ち上がった三井くんは、軽くぼすっと私の頭に手を置くと髪の毛をぐしゃぐしゃにしてからそのまま足早に図書館を出て行った。私はその彼の背中を目で追うこともせず、顔を覆っていた手をぎゅっと握りしめてうつむく。 なんだこれ。なんだこれなんだこれなんだこれ。 「ばか、もう勉強なんかできないじゃん」 もうそこにはいない彼に届くはずもないそんな言葉を小さな声で吐き出す。 なんでこんな時にそういうこと言うのかなあ。自分で思っていた以上に深く深いため息がでてしまう。動揺しすぎている自分のことが恥ずかしくてたまらない。 脳みそを必死に受験モードに切り替えようとがんばっていたのに、そんなことを言われてしまったらもうキャパオーバーしてなんにも考えられなくなってしまうじゃないか。 ―― …もしかして、オレのこと好きだったりすんのか? 彼の言葉が頭の中に蘇る。 ああああああもう!と叫びだしたくなる気持ちを必死に抑え込んで、私は机に突っ伏した。去り際の彼にぼさぼさに乱された髪の毛のことなんてすっかり頭の中から抜け落ちてしまっている。 はいそうです。 …… なんていえるもんか!ばか男! --- 僕たちは交点をしらない |