三年間、明確に言えば高校生活の二年半を費やした夏の大会が終わってから既に一ヶ月が経っていた。 机の上に開いた参考書とノートに視線を落としながら、顔の横に降りてきた一房の髪を耳に掛け直す。その流れで耳に挿しているイヤホンを外し、ふうとひとつ息を吐く。静かな図書室の中でイヤホンをつける必要なんか実際のところほとんど無いのだけど、私の場合は音楽を流していると特に勉強が捗るのだ。しかも、それが激しめのロックナンバーであると余計に。それを部活の同級生だった友達に言ったら「なんか名前って、見かけによらないよね」と言われたことがある。 情熱を燃やしていたものがあったのに、突然「はい、ここで終わりです」と区切られてしまって、それを新しいものへ向けるエネルギーってとんでもなく莫大なもので。 春から加わった「受験生」という肩書きが、あの最後の試合からその重量を増した。ほとんど無理矢理に意識をそっちへ向けたら、いつの間にかそれが普通になっていた。新学期が始まって、高校生として残された時間はあと七ヶ月弱。なんならもう九月の半ばだから六ヶ月と少し。その間に最後の体育祭と文化祭があって、年が明けたらセンター試験。しかも二月以降、三年はほとんど自由登校となる。 たぶん、まばたきしてるうちに終わっちゃうんだろうな。柄にも無く脳内で生成させてしまった誇張表現に自嘲的な笑いが混じってしまったが、この場で笑ってしまったら受験ノイローゼで変になってしまったのかと思われてしまう。 「あのよ」 それが私に対する呼びかけであると気づくまで、たっぷり数秒ほど掛かってしまった。隣から感じた人の気配に顔を上げると、関わりは無いがよく知った顔の男が何とも形容しがたい表情でこちらを見下ろしている。 その男の名前は三井寿という。 つい最近までいわゆる不良と呼ばれる存在だった彼は、ある時急に髪を切って教室に入ってきた。相変わらず人をあまり寄せ付けない雰囲気を纏ってはいたものの、今までトゲトゲとしていたそれは格段に柔らかいものになっていた。憑き物が落ちたというか、長かった長髪と一緒に外見だけでなく無駄なものまでごっそり捨ててきたような、彼がそんな言葉にし難いイメージチェンジを遂げたのはつい数ヶ月前のこと。 ついでに言うと、私は彼と二年時から同じクラスだったりするのだが、もちろん会話したことなどこれまでに一度だってない。そしてここは図書室である。失礼な話ではあるが、イメージチェンジを図ったにしても、どうしてもこの場所と彼とが上手く結びつかない。 もしかして、さっきは堪えたつもりだったけど変な笑いでも漏らしてしまっていたのだろうか。それだったらあまりにも恥ずかしすぎる。 「その……勉強してるとこ悪ィんだけど、ちょっとだけいいか?」 あれ、なんだか腰が低い。彼の様子を見るに、どうやら私が百面相をしていたからなんとも言えない表情で話しかけてきたわけでは無いらしい。私がこくんと頷くのを確認した彼は、あからさまに安心した様子で険しい表情を緩ませながら隣の席に腰を下ろした。 つい最近まで文字通り「触るもの皆傷つける」みたいな鋭い眼光をナイフの切っ先みたいに尖らせて周囲を威嚇していた三井寿と、たったいま私の隣の席に座った彼は同一人物の筈なのに全く違う人間のように感じる。 「うちのクラスでいちばん頭いいの、苗字さんだよな」 一学期の期末で廊下に貼り出されてた順位見たんだけどよ、と続けた彼は、小脇に抱えていたスポーツバックの中からドサドサとほとんど折り目もない綺麗な教科書と、どう見ても新品である真新しいノートを取り出した。 「バスケで推薦もらいてーんだけど、次の試験で赤取ると試合出してもらえねえんだ。迷惑なのはわかってんだけど、オレに勉強教えてくれねえか?」 居住まいを正した三井くんは自分の両膝に手のひらを置き、それでグッと拳を作ると「頼む!」と私に向かって頭を下げた。 その瞬間の私は、きっと私史上例を見ないほど呆気に取られてポカンとしてしまっていたに違いない。それはおそらくとんでもなく間抜けな表情で、客観的に見られるなら見てみたいとさえ思ってしまうレベルだった。 あの三井寿が、私に向かって勉強を教えて下さいって頭を下げているなんて。こんなことが起こるなんて、一体誰が予想出来ただろうか。 正直、三井くんが私の隣の席に座った時、なにを言われるんだろうという不穏な気持ちが微塵も湧いてこなかったわけではない。彼の雰囲気が変わったと感じていても、やはりこの二年間の素行を見知っていたのも事実である。 けれど、たったほんの少しの時間でもこうして向き合ってみて思った。まだ衣替えもしていなかった時期まで常時放出していた高圧的な態度も、むやみに人を威圧するような雰囲気も、周りに向けていた無差別な凶暴性なんかも、今の彼からは一切感じられない。 「……うん、わかった。私でよければ」 人に教えるのって自分の勉強にもなるし、と続けると、三井くんはキョトンとした表情で固まってしまった。もしかして私、おかしなこと言っちゃったのかな。 私を凝視したまま「マジで?」とまるで息を吐くように三井くんが漏らしたそれは、全く覇気のない小さな声だった。私がこくんと頷くのを確認した彼の表情は徐々に柔らかくなり、眉間に刻まれていた神経質そうな皺がほぐれていく。 「マジか! ぜってー断られると思ってた!」 頭いいヤツって何考えてるかわかんねーけど言ってみるもんだな、と割かし失礼な発言をしている三井くんの言葉はさておき。 既に机の上に配置されている彼の教科書類を見るに、もう今日この場この瞬間からよろしくお願いします、という感じらしい。 「それで、何を教えたらいいの?」 「とりあえず数学と英語だな。暗記系は自分でどうにか出来たとしても、ここら辺はサッパリだ」 「うーん……数学と英語は積み重ねっていうか、前段階がわかってないのに試験範囲からいきなり理解するのって難しいと思う」 だから次の試験範囲をやるっていうよりも、大変だけど一年の範囲から大まかにやってみるのがいいかも、と提案すると、彼は神妙な面持ちで「オレぁ苗字センセイの指導方針に全て任せるだけだ」と顔の前で拝むみたいに手を合わせた。 「そういえばバレー部だったんだろ、しかもレギュラー」 「え、そんなことまで知ってるの?」 「調べたんだよ。部活やりながら勉強もちゃんとやってたってスゲーな。苗字さん、見た目じゃあんま頭良さそうに見えねえから」 「あの……さっきからちょいちょい失礼なんだけど」 本当に教わる気あるの、と目を細めると、三井くんは慌てて「ちげーって! その、別に悪い意味で言ったわけではなく」と必死に弁解しようと視線を右往左往に泳がせながら大げさに手振りをしている。その様子をちょっぴり、いや、かなり愉快に感じてしまい、ついつい吹き出しそうになってしまった。失礼なこと言われたのに、なんかこの人憎めないかも。 私が今まで認識していた三井寿という男はもうとっくに居なくなっていて、いままで着ていた重くて固い鎧を脱ぎ捨てた目の前にいる彼こそが本来の三井寿なのかもしれない。 「私、べつに頭いいわけじゃないよ。何かをやるからにはちゃんとやりたいなって、ただ負けず嫌いってだけだし」 「だからそれがスゲーんだっての」 バレーは楽しかった。悔しい思いをしたくなかったから、自分に出来るだけの努力をした。勉強もそれと同じで、精一杯やれば悔しさなんて感じるよりも、達成感とかそういうのがちゃんと残ることを知っている。それでも、そんなのは結局私の単なる自己満足なだけだ。 三井くんにどこまでも真っすぐで純粋な瞳を向けられながら、面と向かって褒められたことにほんの少しだけ動揺してしまう。褒められるためにやっているわけじゃない。だけどどうしよう、これだけまっすぐに褒められちゃうとすっごくうれしいかも。 「三井くんも、今の方がサッパリしててカッコいいと思うよ」 彼の髪を指差して「髪型もだけど雰囲気とかも」と照れ隠しに手振りを交えながら付け加える。すると、三井くんは私のことをじっと見据えながら眉を顰めてしまった。もしかして、長髪で不良だった時のことを貶したと捉えられてしまったのだろうか。 ふと不安になって、覗き込むように三井くんの表情を伺う。すると、その視線がかち合った瞬間、彼はビクリと肩を揺らしながら大げさな動きで顔を逸らしてしまった。 「ごめん、私へんなこと言った? あんまり髪のことは触れられなくなかったとかなら」 「いやそうじゃねえ、へんなことっつーか……いや、へんなことでは……」 なにやらモゴモゴ言っている三井くんは、視線を泳がせながら顎に見える傷跡を親指でなぞる。そんな様子を私が相も変わらず観察するように眺めていることに気づいた彼は、弾かれたように勢いよくこちらへ向き直った。 「つーかそうじゃなきゃ困る! じゃなきゃ髪切った意味ねーだろ!」 「待って、なんで急に怒ってるの?」 「は!? 別に怒ってねえっつの!」 いやぜったい怒ってるじゃん、と返すと、間髪入れずに「だから怒ってねえよ!」と少々ボリュームの大きい返事が返ってくる。 そこで私はここが図書館であることを思い出した。なぜならば、周囲からの突き刺すような冷たい視線にようやく気付いたからだ。 「ええと、うるさくしてごめんなさい……! ほら三井くんも!」 「……スンマセン」 二人並んで立ち上がり、周りにぺこぺこと頭を下げる。 なんだかなあ、一気に自分の中にあった筈の「勉強しなきゃ」という気持ちが無くなってしまった。でもまあ今日はいいか、と三井くんの真新しい教科書を眺めながら思う。 まだ納得がいっていなさそうな彼の何とも言えない横顔をちらりと見遣りながら、息苦しくなっていた「受験生」の自分が、まともに呼吸することをようやく思い出してくれたような気がした。 --- 他人以上友達未満 |