小学生の頃、今日は席替えをしますって先生が言った瞬間のクラスの盛り上がりったらとんでもないものだったし、例にも漏れず私も大喜びしているタイプだった。
 なんなら高校生になった今だって、つい三ヶ月前までは切実に席替えを望んでいた。そりゃもう切実に、このクラスでいちばん望んでいる自信があったぐらいに。まあそれは席替えが楽しいから、という理由では無かったんだけど。
 そう、私が席替えを望んでいたのは私の席がかの有名な流川楓くんの前の席になってしまったからだった。
 見目麗しい流川くんは、その容姿の美しさから入学して早々一年生から三年生までの女子の間で噂になり、あっという間にファンクラブなんかまで設立されてしまったほどの美男子である。
 ついでに中学時代はバスケットボールで有名な選手だったらしく、この湘北高校に入学してバスケ部に入部してからも八面六臂の大活躍。さらにそのファン数を増やすこととなった。
 そんな彼の前の席になってしまったとき、クラスメイトの女子たちの「いいなあ名前ちゃん、流川くんの前の席って大当たりだよ」とか「プリント渡せるじゃん、いいなあ」といった無責任な声の数々を聞きながら、心の中で「変われるもんなら変わっていただきたいものですがね!」と思っていたことは私だけの秘密である。
 流川くんに夢中な女子や上の学年のお姉さまたちに「あの子が流川くんの前の席の子よ」なんていう目で見られるのが怖かったし、なにより流川くんという人は授業中にずーっと居眠りをしていて、起こされると寝ぼけて先生に殴りかかるなどの暴挙に出ることが度々あったので、出来れば距離を置きたい人物であった。
 つい三ヵ月前までは、さっさと席替えをしてほしいと切に願っていたのに。

「じゃあこれからくじの入った箱回していくので、順番に引いてってくださーい」

 教卓の前で適当な箱を抱えている学級委員長の男子を見ながら、こっそり吐き出したため息が周りの誰にも気づかれていないことを祈る。
 移動教室に到着したあと、ノートを忘れたことに気づいた私が慌てて教室に戻ったあの日。周りの誰にも声を掛けられることなく、授業中から継続してすやすやと寝続けていた流川くんに意を決して話しかけた。
 すると、目を覚ました流川くんに強引に手を引かれて、屋上へ続く階段で膝枕を要求されたかと思えば、流川くんは「おやすみなさい」なんて言いながら私の膝枕でもうひと眠りときたもんだ。
 もしかしてこれは夢の中なのだろうか。はっと目が覚めたら自分のベッドの上なんじゃないかって何度も思ったけれど、それは夢などではなく間違いなく現実だった。
 昼休みのチャイムと共に目覚めた流川くんは、むくりと起き上がると私に向かって寝ぼけ眼で小さく頭を下げ、そのまま去って行ってしまった。
 人気のない階段にひとり置いて行かれた私は、呆然としながらようやく脳みそが整理されて来た頃に昼休みまっただ中の教室に戻った。
 よくつるんでいる友人に「ノート忘れてきたからいっそ授業ばっくれちゃうなんて、名前ってなかなかファンキーだね」という言葉を掛けられながら、下手すぎる愛想笑いを返す。
 いろいろ説明するのも面倒だし、っていうか言ったら大騒ぎになるに違いなかったので「でしょ」なんてやけくそになりながら返事をしてしまった。
 そしてなんと、それは一回だけのスペシャルイベントではなかったのである。
 その日以来、実に週に一度のペースで私は流川くんの膝枕担当となってしまった。
 それは体育の授業以外のどこで訪れるかわからない。流川くんはいつも私の腕を引っ掴んで、強引に屋上へと続く階段の踊り場に連行したと思えば「そこに座れ」と言葉にはしないものの視線で訴えてくる。促されるまま私が座ると、彼はあっという間に私の太ももを枕にしてすうすうと規則正しい寝息を立てはじめるのだ。
 これって一体どういう関係なんだろう。その答えは果たしてこの世に存在するのだろうか。っていうか、こんな目に遭ってる女子高生が私の他にいるならぜひ友達になりたい。膝枕要求され女子同士夜を明かして語り合いたい。
 視線を下ろすと、柔らかく閉じられた綺麗な切れ長の目を縁取る長いまつげが見える。こんな近い距離で流川くんの顔を見られるのって、もしかしてこの学校の中じゃバスケ部の人たちと私ぐらいなんじゃないだろうか。
 彼の、光にも透けない真っ黒い髪が見た目よりも柔らかいことを私は既に知っている。クセなんが全くない直毛を恐る恐る撫でてみても、流川くんが目を覚ます様子は無い。まるで人に慣れきった家猫みたいだな、なんて思いながら現実感のない現実を、たった五十分と少しの時間を過ごす。
 そんな事を繰り返すうち、最初は混乱しかなかった謎の時間を好きになっていっている自分がいて、つんつんと背中をつつかれるたびにちょっとだけうれしい気持ちになっていたりなんかして。
 誰も知らない、二人だけで共有している秘密の時間。その時間と、そして最初はあれほどこわかった流川くんが特別に思えてきちゃったことはもう必然だったと思う。

「名前!」
「どわっ! な、なに!?」
「はい、くじ引きの箱」

 なにぼーっとしてんの、と前の席の友達に声を掛けられるまで、私は目を開けたまま意識を異次元へと飛ばしてしまっていたようだ。今の気持ちをひとことで表すならば、正直憂鬱以外に他ならない。
 回されてきた箱の中に手を突っ込み、適当な一枚を掴んで引っ張りだす。それを開かないまま、ひとつ息をついて箱を抱えて後ろの席に体ごと向けると、やっぱり机に突っ伏したまま寝ている流川くんがいた。

「……流川くん、席替えのくじ引く番だよ」

 そう声を掛けてから軽めに流川くんの肩を揺すると、彼は眉根を潜めてゆっくりと目を開き、私と箱を交互に見遣った。
 少しの沈黙の後、ゆるゆると動き出した流川くんの腕が私の持っている箱の中に突っ込まれ、彼は中を探る様子もなくすぐにその腕を引き抜いた。
 流川くんの骨ばった白くて長い指の先には折りたたまれた紙がちゃんと挟まれていたが、彼はそれを気にすることも開くこともないまま再び伏せって寝息を立てはじめてしまう。仕方ないので私がその隣の列に箱を回した。
 引いた紙を開いてみると、それが窓際の前から三番目の席であることが分かった。これからの時期は少し暑そうだ。
 流川くんは、どこの席になったんだろう。
 ふと背後の席に目をやると、先ほどから彼が動いた様子は微塵もなく、新しい席が示されているであろう小さく折りたたまれた紙も人差し指と中指の間に挟まったままである。
 私は、きっとたまたま流川くんの前の席だったから膝枕係を仰せつかっただけだったんだろうな。きっと、明日からは新しい席で彼の隣とか前とか後ろの席になった女の子がその役目を担うに違いない。晴れてお役御免というわけだ。これからはもう、背中をつつかれたり腕を引かれる度に心を乱されることもない。

「それじゃあ移動してくださーい」

 クラスメイトが一斉に立ち上がり、ガコンガコンと大仰な音を立てながら机と椅子を運び始める。
 少しだけ遅れて立ち上がりながら、ちらりと後ろの席の彼を見遣る。先ほどと変わらない寝姿、そして指の間には未だに開かれていない紙が挟まったままだ。
 いいや、だってもう私には関係ないもん。
 すうすう寝ている流川くんから視線を外して、目的地である窓際前から三番目の席に向かって机を軽く浮かしながら横歩きで進んでいく。
 既に新しい席に自分の机を置いているクラスメイトの間を縫いながら進んでいくのはとても難儀で、スタートダッシュが遅れたことが悔やまれた。

「名前! 席近いね、うれしー!」

 隣の列の斜め後ろには、普段からよくつるんでいる友人が着席していた。近いのうれしいね、と返しながらハイタッチを交わす。本当にとってもうれしいはずなのに、心が半分別の所に飛んでしまっている自分がいることが心の底から申し訳なかった。
 そのまま眠っている流川くんの方へとさり気なく視線を送ったら、どうやら流川くんは今と全く変わらない席を引き当てていたらしい。
 私の後ろの席にいる男子生徒たちが「アイツすげえ」とか「タダ者じゃねえ」なんていう感想を述べるのを聞きながら、流川くんの隣の席も前の席も女の子であることを確認した私は、誰にもばれないように小さく息を吐いて、視線をざわついたままの教室とは真逆の窓の外へと向ける。
 私の役目、ほんとうに終わっちゃったんだなあ。
 自分の中で思っていた以上に彼への気持ちが募ってしまっていたことを認めたら、なぜだか急に胸の奥がヒリヒリと痛み出して、目の奥が熱くなってしまった。


***


 朝のホームルームでの席替えの後、おなかのなかで何かがぐるぐると回っているみたいな謎の不快感と、とうとう認識してしまった自分の気持ちとで、キャパシティを大いに超越してしまった私の頭の中は停止状態に陥っていた。

「私、なんか具合わるいから四限目保健室いく」

 移動教室の為、立ち上がってこちらに寄ってきていた友達にそう伝えると、彼女らは心底心配そうな表情で「ほんとだ、ちょっと顔青いね」とか「先生には私らがちゃんと伝えとくよ」とかやさしい言葉を掛けてくれる。
 そんな友人たちの表情を見ていると、この調子のわるさの原因が恋わずらいなんです、とはとてもじゃないが言えなかった。
 だって、ここ三ヶ月週一回のペースで私が消える理由が、流川くんの膝枕係をしているからだということは未だに誰にも明かしていないのだ。
 相手は学校中の注目の的で、嫉妬しちゃうぐらい綺麗な顔をしていて、ファンクラブまである程の美男子で。ああ、なんて不毛な気持ちに気づいてしまったのだろう。
 あの時、移動教室なのに寝こけてしまっていた流川くんに話しかけなければきっと、こんな気持ちが芽生えてしまうことだってなかったのに。
 そんなどうにもならない後悔を心の中で渦巻かせながら、自然と足が向いてしまったのは保健室ではなくあの屋上へと続く階段の踊り場だった。
 べしゃり、とその場に崩れ落ちるようにしゃがみこみ「はぁーあ……」と盛大なため息をこぼしてから膝を抱え、顔をうずめる。

「いた」

 なんだかいま、近くで人の声がしたような。
 ゆっくりと顔を上げると、目の前には上履きを履いた誰かの足が見える。黒いスラックスを履いているということは男子だな、なんてことをぼんやりと考えてから、ようやく私は「え!?」と言いながら勢いよくその人物を見上げる。

「あ、え……!? なんで、なんでここに……」

 流川くんがいるの、と続けた言葉のあとで、いつもの如く感情のわからない無の表情で私を見下ろしていた流川くんが表情を変えずに目の前にしゃがみこんだ。

「ねみーと思ったからアンタのこと呼んだら、ちげーヤツが座ってた」

 ねみーからって、流川くん今日は朝からずっと寝てたじゃん、という言葉を飲み込んで「そっか」と短い言葉で返事をする。
 察するに、きっと流川くんはいままで私にしていたようにいつもの調子で前の席の女子の背中をつついたのだろう。新しくあの席に着いたクラスメイトの女子は心臓が飛び出るほど驚いたに違いない。

「だからアンタのこと探してた」

 あの流川くんが、私のことを探してた?
 その言葉がにわかには信じられず、そんな私の顔にはこれ以上ないってぐらいの訝し気な表情とやらが浮かんでいたに違いない。
 だって、流川くんならどの女子にだって膝枕をお願いできる。きっと断るような子はいないし、私なんかに執着する必要なんてどう考えたって無い。

「でもその、膝枕は別に私じゃなくたって」
「アンタがいい」

 そうキッパリと言い切った流川くんの表情に揺らぐものは一切なく、そんなドストレートな発言をよくまあ表情を変えずに言えたもんだ、と冷静に考えてしまっていた。
 すごいことを言われたはずなのに、っていうか実際言われているのに、流川くんがあまりにもブレず、表情を変えることもないので、私は何とか感情の波に飲み込まれずに居られているのかもしれない。

「それと、もうアンタはオレの前の席の人じゃねーから、名前」

 あまりにも言葉が少なすぎると思うけれど、それがつまり「あなたの名前を教えて下さい」と言っているのだと把握した私は、こらえきれずに思わず「ふふふ……」と笑いを零してしまった。

「何で笑ってんだ」
「流川くん、おもしろいから」

 私の言葉を聞くと、流川くんは眉間に皺を寄せて、切れ長の瞳を細くしながら首を傾げた。その様子がまるでひなたぼっこをしている猫ちゃんの動きみたいだなあ、なんて思いながら「私の名前はね、苗字名前だよ」と続ける。

「……苗字サン、おぼえた」
「うん、おぼえてくれてうれしい」

 そんな私の言葉を聞いたあとで、流川くんは視線を下におろすと、おもむろに私の膝を指さした。
 それがつまり「眠いのでそろそろ膝を貸せ」の意図であるとすぐに気づいた私はぽんぽんと腿を軽くたたいてから「どうぞ」と流川くんを迎え入れる体制を整えた。
 流川くんは小さい子みたいにこくんとひとつ頷くと、その大きい体を横にしていつもの定位置に頭を収めた。
 いつもならすぐに目を閉じて二秒で寝息をたてはじめる流川くんが、そのままじっと私を見上げていたので「どうかした?」と問うてみる。

「これ、今日から苗字サンの後ろの席になったヤツにもする?」
「え? しないけど……。っていうか、普通なら女子は男子に膝を貸さないよ?」

 付き合ってたりするなら別だけど、と付け足そうとして言い淀む。やっぱり、流川くんってちょっと不思議な人だと思う。
 私の答えを聞くと、彼は頷くみたいにひとつまばたきをして「やっぱりこれがいい」と独りごとみたいに呟いてから、私のおなかの方へ顔を向けてゆっくりと目を閉じた。
 何気なく発したであろうそんな言葉に胸がぎゅーっとなって、口元がゆるゆるになってしまう。
 こっちの気持ちもしらないで、とそのおでこを弾いてやりたい気持ちになったが、そんなことを平然と言ってのけてしまう罪深き流川楓という男は既にもう夢の世界へと旅立たれたご様子である。
 悔しいなあ、いつだって私ばっかりドキドキしてるじゃん。
 ぼそっと呟いた「私も、流川くんとおなじでこれがいいなって思ってるよ」という言葉を彼に直接伝えることは、私にはまだまだ出来なさそうだ。

--- スイートスリープメランコリー
(20220713)



- ナノ -